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ちょっとしたグル(師)の行為 ⑵

今日から8月、夏本番ですね〜🌞
梅雨も明け、私は介護の仕事の外出支援も増えて、京都御所や清滝などに行ってきました。(三密は回避してコロナ感染対策はもちろんしております)
暑い日に外に出るのは大変さも感じるのですが、コロナ禍でステイホーム期間も長引いているためか、やはり青空の下、太陽の光を浴びて汗をかくのは清々しいものです。

嵐山を北西に上がったところにある清滝。水がとっても冷たく、オアシスでした。

私は今年、外の仕事が重なっているため、わりと日焼けしているなと感じるのですが、11年前の夏はその数倍日焼けしていました。
その理由はというと……
以下に書き記しました。
連載『ちょっとしたグル(師)の行為』の第2回目です。


「気の抜けた炭酸みたいに眠りこけとるな!明日からランニングや!!!」

11年前の7月の終わり、約3ヶ月の師とのニューヨーク滞在の折り返しの頃、私ともう1人の滞在者アミティ(当時は井上さん)が師のアーサナ・瞑想クラスから帰ってきてほっこりしていると、それまで穏やかであった師が急変、語気を強めてそのようにおっしゃられました。そう、この日のクラス、否、ほとんどのクラスでアミティと私はアーサナで疲れ果てて瞑想中にコックリ&ウトウト……体力も気力もない、まさに「気の抜けた炭酸たち」に師はランニングを命じられたのでした。

翌朝、まずはランニングシューズを探しに出掛けました。師は私の履き心地を重視され、またデザインもユニークな靴底がイエローでジグザクになっているリーボックのランニングシューズをセレクトされました。師はそのデザインを見て、「馬の蹄みたいやな!」とおっしゃられました。(ちなみに、このランニングシューズは使用禁止のマラソン大会が出るほどクッション性や推進力が高いものだったようです)

次にアミティのランニングシューズを探したのですが、とあるお店の倉庫みたいな地下のところに入っていきました。そこには大きな段ボール箱が置いていて、黒のマジックペンで「$19.9」と書いてあり、その中にたくさんのスニーカーが乱雑に詰め込まれていました。師は屈んでその段ボール箱の中から必死になってスニーカーを探し始めました。私は「こんなところにあるはずがない」と思って横で見ていたのですが、そんな心の声が聞こえたのか、ぼーっとしている私に「自分も探さんかい!」と一言……私も一緒になって探し、そしてなんと驚くことに、そこでアミティにジャストサイズのお宝スニーカーを1足どころか2足も発掘&ゲット!!!

その後ケーヴに戻って昼食をとり、これからランニングなのかなと思いきや、次はなんとランニングウェアを探しにいくことに……!!
スポーツ用品店で購入するのかなと思いきや、そのようなところには行かず、カジュアルな洋服屋や古着屋を見て回りました。師はかなり吟味をされ、とはいっても怒涛の勢いで選ばれ、すべてが決まったのが19時を回っている頃でした。この日は夜も遅かったので、日本食のお店で夕食をいただき、帰宅しました。

マラソン選手のようなアミティ。色鮮やかなトータルコーディネートと肌の色が際立っています。それにしても真っ黒に焼けていますね笑。愛媛に帰るとしばらくの間は、すれ違う人に振り返って見られたそうです。

ニューヨーク曼荼羅のようなTシャツ。スケーターブランドです。残念ながらスニーカーの写真は残っていませんでした。。

私にとって、この1日はただの買い物の日ではありませんでした。大袈裟ではなく、人生が変わった1日でした。ヨーガをしにきたのにランニングを命じられ、ヨーガとは関係のない服やスニーカーを選び、さらにその師の買い物の仕方・選び方、その必死さたるや、自分の今までの価値観やセンス、観念が一気に破壊されたのでした。すべてが否定されたように感じ、その時私はとても情けなく辛かったのです。

しかし、そんな傷心を引きずったりお落ち込んでいる暇すらもなく、次の日から1ヶ月半、毎日ランニングをしました。大した距離は走れませんでしたし、長年の運動不足と怠惰な生活もたたってしんどかったのですが、走ってみると何だか中学生に戻ったかのような清々しい感覚で、とにかく毎日のご飯がとても美味しく感じられました。日焼けした私がご飯を必死に食べる様子を師は嬉しそうに見ておられ、その視線が今も心に強く残っています。

この道を通って、バッテリーパークまで走っていました。

ちなみに約3ヶ月のニューヨークの滞在で師と外食したのは後にも先にもあの日本食のお店の一度きりでした。
飲食店だらけの欲望の渦のようなニューヨークで外食をされない師の行為にも同時に驚かされたのでした。

ゴーパーラ


ヨーガ・瞑想クラスの再開

緊急事態宣言が解除され、関西のアーサナ・瞑想クラスも先週より再開!
6月26日(土)に行なわれた京都アスニーのクラスは約2カ月ぶりで、中学生を含む6名の方が参加されました。

ヴリクシャ・アーサナ(立ち木のポーズ)からスタート!

まず指導者のヨーガダンダさんが、「師がアーシュラマ(道場)でクラスを始められた時(45年前)、各自が自分のプログラムを黙々と行なっていくクラスを理想とされたそうです」と話をされ、クラスが始まりました。
クラス中は基本的なリードによって進められていきますが、後半は各自が自分のプログラムに沿ってサーダナ(霊的修行)を行なっていきます。

ニワトリ、サソリ、三点倒立!

緊急事態宣言中はオンラインクラスでしたが、受講してみると驚くことに実クラスと同じぐらいの集中感や効果を感じていました。
でも、こうやってクラスに集って顔を合わせ、同じ場所と時間を共有して行なうサーダナはやはり格別!!!
私自身、よりヨーガのプラーナ(気)で満たされる感覚があり、本当に貴重な場であると改めて実感させていただきました。

シッダ・アーサナ、パドマ・アーサナで瞑想。

アーサナは決して柔軟性を競うものではなく、座法と訳され、瞑想の座(シッダ・アーサナ、パドマ・アーサナ)を快適で堅固にするために開発されたものです。
そして師は、アーサナの真の意味を次のように説かれています。

「アーサナの真の意味はブラフマンに留まるということです」

シュリー・マハーヨーギー

私自身、クラス再開を機に今一度この教えを念頭に置き、アーサナ・瞑想によって小宇宙であるこの身体と呼吸、心を静め、そして大宇宙の真実在ブラフマンにしっかりと留まっていきたいと思います!

※初心者の方も大歓迎です!基礎からしっかりと学んでいけるクラスになっています〜! ヨーガ・アーサナクラスのインフォメーションはこちら⬅︎⬅︎

ゴーパーラ


ブラザー・ローレンスの教え〜神との対話〜

最近、複雑な問題に直面し、その答えを求められることがありました。
いろんな人の立場が絡まる問題であったので、答えを出すのが難しいと感じ、どうしようかと考えていました。
そんな時、私はブラザー・ローレンスに出会い、彼の信仰心にとても感銘を受けていました。
彼の実践の特徴の一つが「神との対話」です。

「私たちは何をするにも、すべてのことを主に相談する習慣を作らねばなりません。そのために、神と絶えず語り、自分の心を神に向ける努力をしなければなりません」

私は彼に倣い、瞑想の時にその問題を神へ相談しました。
そうすると突然「光」が見え、「光あれ」という言葉が自分の内側から出てきました。
その時私は、「そうか、自分が答えを出すのではなく、ただ光のようにあれば答えが照らし出される!」と感じ、自分のするべきことが示されたように思いました。
その直後、期せずして次から次へとその問題に関する出来事が起こりました。
私はただ光のようにあることを心掛け、淡々とその事象に対応し、そうすることで複雑に見えていた問題の答えが自然と照らし出され、無事に解決に至りました。

ブラザー・ローレンスはおっしゃいます。

「神は決して私たちに大きなことを望んでおられるのではなく、私たちがすべての時の瞬間瞬間をわずかでも神をおぼえ、神をあがめ、神の恵みを求めて祈り、私たちの苦しみを打ち明けて語り、神がすでに与えてくださった恵みや、今、試みの中に与えてくださっている恵みをおぼえて感謝するのが大切なことだと思います。神が求めておられるのは、あなたができるだけ多くの時に、神を自分の慰めとすることなのです」

私は、ブラザー・ローレンスを通して問題の解決に至ったことを、神に感謝しました。
でも改めてこの教えを読んだ時、もっと大切なのは「結果に執らわれず、どんな時も神をおぼえ、あがめ、祈り、神の恵みに感謝すること」であると、さらにまたブラザー・ローレンスから教わったように感じました。

「世の光」であられたイエス・キリスト。

ゴーパーラ


シヴァの恵み

梅雨の時季、雨が続くと鬱陶しいなどと思ってしまう時もありますが、雨が降らなければ一体どうなるのでしょうか?

今から27年前、私の住む松山市では梅雨に雨が降らず水不足になり、7月下旬から11月下旬までの4ヶ月に渡って給水制限がありました。暑い時期をはさんでいたので、印象に残る出来事でした。
しかし、そんな大変な出来事も、もうすっかり忘れていました。

松山の石手川

今回、3月のブログにアップされた『シヴァと三日月🌙』を読んで、今一度「水」について考える機会をいただきました。
シヴァは私の憧れの存在ですが、シヴァの頭にある三日月が農耕に必要不可欠な雨・夜露と密接に関わっている象徴であると初めて知りました。また、シヴァのルーツはルドラという暴風雨の神です。私たちが生きていく上で欠かせない水が、天から降ってくる雨によってもたらされているということ自体、とても貴重なシヴァの恵みだと改めて感じました。

いちばん好きなシヴァの絵!

水道をひねればすぐに出てくる水、それを当たり前に使ってきたことに気付かされます。水がなければ作物も育たず、飲み水がなければ私たちの肉体を維持することもできなくなります。また身体や身の回りを清潔に保つためにも、水は欠かせません。手や身体を洗うのに水を使う時、神に会う前に沐浴を行なうように心掛けると、穏やかで平安な気持ちになります。

嗚呼、でもそれ以上に私は心清らかになって、本当のことが知りたい!!
しかし心と身体を自分だと思い、食べることを楽しんで夜眠気に負けぐーぐー寝ていては、本当のことが分からず人生が終わってしまうーー

真実を知るためには、月の時間に瞑想を行ない、シヴァの如き存在である師を思うことで、そこに近づいていけるのだと感じています。
今私は、日常は感謝の心を忘れず、清らかな思いで過ごし、月の時間を大切にすることを行なっています。

りょうこ


オンラインで「理想の聖者」について語らう!

6月に入りましたが、皆さま、いかがお過ごしですか?
こちら京都は緊急事態宣言が再々延長され、私の住む嵐山は観光客も少ない状況です。
そんな中ですが、5月は多くのグルバイ(仲間)とオンライン交流をしました!

「フォカッチャの会」では愛媛、金沢、和歌山、また台北のグルバイと楽しく有意義な時間を共有しました。

また、ニューヨーク・ミッションで行なわれている「Study In Practice (SIP)」にも3回続けて参加させていただきました。

「学ぶことを学ぶ」がテーマのSIPは、余談なしの真剣な勉強会で、終始ヨーガの話が展開されます。
「ヨーガは知識ではなく実践、そして体得」
そう師は教えられますが、「どうしたら知識ではない学びができるのか?」「自分の偏った考えに陥らずに学べるのか?」「どのようにヨーガの教えを日常に結び付けられるのか?」といったことを話していきます。
会に参加する中で、私自身改めて感じたのは、やはり「学ぶ」には「理想の存在」が必要不可欠だということです。
「こうなりたい」「こう生きたい」「こうすればいいんだ」という気付きや道標が、理想の存在を見つけることでより明確になるーー
つまり、理想の存在を持つことで、学び、見倣うことがより実際的になされ、修行者の大いなる助けになると思ったのです。

SIPに参加した数日後、フォカッチャの会のヨーガ・トークスの時間には、皆さんと理想について話をしました。

参加したグルバイたちは、それぞれ理想の聖者をもっておられ、そこに近づく努力をされていました。
以下、要約したものをご紹介します!

神に対してひたむきで真っすぐなスワーミー・アドブターナンダが大好きで理想としていますが、私は以前、人間関係に悩み、部屋で声を押し殺してよく泣いていました。そんな時、アドブターナンダのエピソードを読みました。「人気のないところに行き、泣いて神に祈らなければならない。その時に初めて、彼はご自身をお示しくださるだろう」というシュリー・ラーマクリシュナの教えを実践していたこと、「彼はこの世の何事にも頓着せず、人生の唯一つの関心ごとは師にどのように忠実にお仕えするかということだった」、これらに衝撃を受けました。「私は自分のことばかり考えて自分のために泣いている。こんなばかばかしいことは、もうしたくない!神を求めて泣きたい!神に対して誠実に真摯に生きたアドブターナンダのようになりたい!」苦しい時だったからこそ、真逆の生き方をしていたことに気付き、より深く心に響き、理想に生きたいと心底思うことができました。

・昔から闘う女性に憧れている自分がいて、その性質を棄てるのではなく、ある時から生かそうと思い、闘う女性の究極に女神カーリーを見出しました。また理想の聖者は、煉瓦に頭をぶつけるぐらい狂っているナーグ・マハーシャヤ、それしかないと思っています。

・以前、理想(の聖者)を決めかねていた時、先輩弟子から「気楽に決めていいよ」とアドヴァイスをもらいました。理想って気楽に決めてええの?と戸惑いつつ再考……スワーミー・プレーマーナンダの伝記の一節「彼は骨の髄まで清らかだった」に触れた時、「私には無理だ」とすぐに自分でもびっくりするほどの拒否反応が出た事を思い出しました。そして、なぜそれほどまでに拒否したのだろうとその原因を探っていく中で、逆に清らかさに憧れをもっている自分に気付き、プレーマーナンダを理想としました。彼に近づきたいけれど近づけない。壁を感じていたのですが、つい最近、どうにかしたいと七転八倒していると、「プレーマーナンダ」という「名前と姿」を超えた言葉では表せない『何か』が理想であり、更にその先に師のヨギさんがおられるのを感じました。
プレーマーナンダの言葉、「まずはじめに全身全霊でひるむことなく誠実であるように試みることだ。過去、現在、未来におけるいかなる時も、真理は必ず勝利する」が大好きです。

・最近、ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を読んで、とても感銘を受けました。この人生を彼のように神への礼拝に生きたいです!

理想について話すのは、本当にいいですね。
とってもポジティブになれます!!

最後に、私の理想の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの最高に力強い言葉を紹介させていただきます。

皆さん自身の心にむかって、「私は彼である、私は彼である」とおっしゃい。歌のように、それを昼夜、心の中に響かせなさい。そして死の時には、「私は彼である」と宣言しなさい。それが真理です。世界の無限の力は皆さんのものです。皆さんの心を覆っている迷信を追い払いなさい。勇敢になろうではありませんか。真理を知り、真理を実践せよ。ゴールは遠いかもしれない、しかし目覚め、立ち上がり、ゴールに達するまで止まるな!

今こそ、内面へのヨーガを深める時ーー理想を見つけ、学び、近づき、一つになる時だと感じます!!

誰かが間違ったボタンを押したら、こんな画面になりました。

ゴーパーラ


フォカッチャの会は『Automatic(オートマチック)』

ゴールデンウィークですが、どこにも行けないですね。。
でも暗くなっていても仕方がないので、今回のブログは「ポップ」にいきたいと思います〜☘

最近、宇多田ヒカルの『Automatic』という曲を思い出しました。
私が中学生の頃、流行った曲です💿
特に好きな曲でもなかったのですが、あることがきっかけでその心に眠っていた曲の再生ボタンが押されました。
「心のサンスカーラ(潜在的な残存印象)が克服されていないのでは?」と指摘されたら本当に何も言えないのですが……😓、以下その経緯を説明させていただきます。

3月のブログで紹介された「フォカッチャの会」ですが、一応私は主催者でありまして、4月は要望も多く、2週連続で開催させていただきました。
このフォカッチャの会は、オンラインでの宿泊・交流会で、以下のプログラムで行なっています。

🌃土曜の夜:フォカッチャ生地の仕込み(15分)&ヨーガトークス
🌅日曜の朝:瞑想(45分)&フォカッチャ焼き(30分)&朝食・ヨーガトークス

私自身、当初はオンラインというツールには抵抗があり、巷で「オンライン飲み会」というものが出てきた時には、「そこまでして、誰かとお酒飲みたいか?」と思っていました。
しかし、このフォカッチャの会でオンライン交流してみると、師が毎日好んで召し上がっているフォカッチャを皆で作り、いただき、そしてヨーガについて語らうーー「これ、こんなに楽しくていいの?」と思うほど、毎回笑いの絶えない楽しい会になっています。

また朝の瞑想もオンラインで皆でする方が集中感が増し、清々しい気持ちになれます。
前回参加した松山のグルバイ(仲間)の方からは、「オンラインの特徴として、ヨーガが自分の生活に入り込む感じがいい」という感想をいただきました。
確かに、私自身もそうだと思いました。
コロナ禍でグルバイとなかなか交流できない日常生活にヨーガのプラーナが入り込んで、その集中や喜びに満たされるーー
オンライン上ですが、グルバイと密な時間を過ごすことで、「自動的にヨーガの状態になる」という感覚がありました。
それを思った時、自動的➡︎オートマチック、はい、それで宇多田ヒカルの『Automatic』が流れ出しました。
そして断片的ですが「君とパラダイスにいるみたい♪」という歌詞が出てきました。

「なんや、そのオチは!」と言われたら、「私は関西人ではないので」と言わせていただきます✋

話を戻します↩️、師は「フォカッチャはただ単純に美味しい」とおっしゃられているそうです。
そのようにフォカッチャを単純に美味しいから毎日いただくように、いつもただ「神だけを愛する」ことができたら、心は自動的にパラダイスになると思いました🏖

美味しいフォカッチャもいただけ、親交(神交)も深められるフォカッチャの会の参加申し込み、ぜひお待ちしております🙋‍♂️

ゴーパーラ


「私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」

季節は春になり、厚着していた洋服もだんだんと薄くなって身軽になっていきますね🌸🌿
先週の日曜は日差しが強くて私は日中、半袖で過ごしました💦

私は春の身軽になっていく感じがとても好きなのですが、少し前まで心はちょっと重〜い感じがありました😓
識別しても解決されず、どうしようかと思っていた時、瞑想の中で神にそのことを相談してみました。
もうただ、その起こっている事実を神に聞いてもらいました。

するとその瞑想中、2つのリュックサックのヴィジョンが見えました。
一つは重いリュックサック、もう一つは空っぽのリュックサックでした。

瞑想から覚めた時、「あぁ、私は余計な荷物を背負い込んで、思い煩わされていただけなんだ」と思い、それに気付かされたら自然と気持ちが軽くなりました。
そして、次のイエス・キリストのお言葉が思い起こされました。

「疲れた者、荷物を背負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」

その翌日、期せずしてその煩っていた物事に大きな進展があり、とても驚きました。
その後、上記のイエスのお言葉について調べてみると、続けて次のことが書かれてありました。

「私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷物は軽いからである」ーーマタイによる福音書11章

このイエスのお言葉に「軛(くびき)」とあります。
軛とは「牛馬の首の後ろにかける横木」のことで、牛馬を制御する道具のことです。
私は軛と聞いてすぐに連想するのが「ヨーガ」という言葉です。
ヨーガの語源は「ユジュ(軛をかける)」だといわれ、ヨーガは「心を制御して真理(神)を実現すること」を説いています。
上記のイエス・キリストのお言葉「私の軛を負い、私に学びなさい」は、「神の教えである心の制御を実践し、神を見倣いなさい」と読むことができると思います。

心に背負うリュックサックは、やっぱり神のリュックサック(軛)がいいですね。
それはとっても軽く、空っぽだと感じるからです。
そしてその中身は至福のプラーナで満ち満ちていると感じます😇🎒

新緑の嵐山

ゴーパーラ


神のかくれんぼ

「もういいかい?」「まーだだよ」

私は小さい頃、ときどきですが、『かくれんぼ』をして遊んでいました。
鬼になった人が目をふさぎ、「もういいよ」の声で、隠れん坊を探し出す遊びです。
今の子供たちもしているのでしょうか👀?

今回のブログは、『神のかくれんぼ』についての物語をご紹介させていただきます。

あるとき、裕福な商人が商用で旅に出た。
実業家に変装した泥棒が彼の道連れになり、チャンスがあり次第、彼からお金を盗もうと狙っていた。
毎朝、彼らが泊まっていた行きずりの宿屋を出る前に、商人は決まって明けっ広げに彼のお金を数えてからポケットに入れた。
そして夜になると商人は、見たところ怪しむ様子もなく眠りについた。
商人が眠っている間に、泥棒はいつも必死に商人の持ち物すべてを調べるのだが、お金を見つけることはできなかった。
失望に終わる宝探しの夜を何度か味わった泥棒は、結局諦めて彼の本当の意図を商人に白状した。
そして、どうしてそんなに上手くお金を隠せたのかを教えてもらうように懇願した。
すると商人は、何気なく答えた。
「私は、最初からあなたの企みを知っていました。ですから毎晩、あなたの枕の下にお金を置いたのです。あなたが決して見ようとしない、唯一の場所がそこだと十分承知していたので、私は安心して眠れました」

泥棒(心)は外の世界に財宝があると思って探し求めます。
しかし、至高の財宝(神・真実)は泥棒が決して見ようとしない唯一の場所、心の内奥に神ご自身が隠されたという、何ともトリッキーな神のお遊びをこの物語は隠喩しています。

私はこの物語を読んだ時、「今、ここに、この瞬間に、神(真実)は在る!」そう思い、ハッとさせられ、心の内側に意識がグッと引き戻されたのでしたーー

「もういいかい?」「もういいよ」

私、大人になっても、かくれんぼやってるなと感じます。

心は目隠しされた鬼ーー
「もういいよ」の神の呼び声で心の目を開いて瞑想し、神を探求しているのだと思いました👹💨

そして、「みーつけた!」と言って笑いたいです、無邪気な子供のように😄

愛するクリシュナが突然お隠れになり、クリシュナを探し求めるゴーピーたち。 再び彼女たちの前に顕れたクリシュナは、次の弁明をします。 「手に入れた財が失われたとき、財をなくしたその人は、それのことばかり考えて、他のことは気にもとめないように、それと同じように、女たちよ、私のために世の常識も、ヴェーダの規定も、自分の身内も、放擲し去ったあなた方を、私に信順させるために、私は眼に見えぬ姿をとって、密かに隠れてしまったのだ」

ゴーパーラ


オンライン瞑想会 in 東京

以前はアーサナ・ヨーガクラスや瞑想会を定期的に開催していましたが、そうした当たり前にできていたことができなくなって、早1年が経とうとしています。

東京では昨年の2月を最後に、グルバイ(兄弟姉妹弟子)と思うように会えなくなりました。瞑想会に使用していた会場も借りることができなくなったため、オンラインで瞑想会をするようになりました。

東京でのオンライン瞑想会の画面。この日(2/1)は9名の方が参加されました。

瞑想は1人でもできます。むしろ1人で静かに座るイメージを持っている人が多いのかもしれません。私はヨーガを始めた頃は瞑想にそんなに興味が持てなかったし、みんなで集まってすることなのかな?と不思議に感じていましたが、一度京都で2時間座る瞑想会に参加してからイメージが変わりました。もちろん2時間座るなんて無理で、雑念と足の痛みとの戦いでした。しかし集中して座っている人たちに囲まれた空間にいるだけで、少しずつ集中した感覚を味わえるようになり、2時間の中で確実に変化していきました。
1人でも深い瞑想状態にある人がいるだけでその空間の気が調い、他の人も瞑想しやすい状態になることがあります。また、それぞれが集中して自分の中に潜っていくように取り組んでいるうちに相乗効果で瞑想しやすくなることもあります。それが誰かと瞑想する醍醐味であると思うようになりました。

しかし、実際に空間を共にしていないオンラインでそれがどこまで可能なのか、最初は少し心配していました。でも実際に参加してみると思いの外集中しやすく、同じ空間にいてする瞑想会とほぼ同じような感覚になりました。
毎週メインで話をする人を決めて、順番に担当していくようになり、興味深く話を聞く楽しみもありました。ただオンラインではそれぞれが自由に発言し合うことは難しく、参加者が増えてからはさらに難しさが増したように感じました。
そこでみんなで相談し、1つアーサナ(ポーズ)をして、毎回メインで話す人がそれぞれ大切にしている教えや聖典の言葉を朗読し、その後瞑想に入るようにしてみることにしました。

先日その1回目を迎えました。
私が担当する回だったので、数日前からどの教えをにするか検討しました。参加者の中にはまだ師にお会いしたことがない方もおられるので、より分かりやすい内容をと、『ヨーガの福音』の中から選ぶことにしました。どれにするか、何度も読み返していくのもとても楽しかったです。どの教えも素晴らしいのであれこれ迷った結果、「人生の目的」という一節を選びました。

『ヨーガの福音』は一節が短めにまとめられているので、いつでもどこからでも読みやすい本です。この節は少し長めにはなりますが、タイトルの通り、人生において目的とすべきことについてしっかり丁寧に説明されています。

”人生の目的は真理を実現することです。真理とは何か—- これは頭では答えを出すことはできないのです。しかし体験はできます。その叡智と方法がヨーガにはあります。”

この冒頭の部分は何度読んでも身が引き締まる思いがします。

私は最後の部分が特に好きです。

”・・・それを実践するには毎日を真剣に生きなければならないということに気付かされます。仕事や生活は何でもかまいません。執着をしないことです。そして本当に得なければいけないものを、悟らなければいけないもの、真理だけを求めてください。誰でも、どんな状況の人でも悟りは可能です—-純粋な信仰と真剣な実践があれば。”

この文章の内容をみんなで味わって瞑想したいと思ったことが決め手だったのですが、いざ朗読するとなると私が読むので大丈夫か?とドキドキ。
この素晴らしい内容を私自身が味わって読むこと、そしてみんなにしっかり伝わるように想いを込めて朗読することにしました。

読み進めるうちに心が静まり、平安な気持ちに満たされていきました。

45分ほど瞑想しましたが、同じ空間にいなくても一緒にいるような感覚で座り続けられました。
グルバイの1人から、あっという間だったと感想をもらえたのも嬉しかったです。

ヨーガの仲間の自宅での瞑想の様子。

なかなか先が見通せない日々が続いていますが、こんな時だからこそひたすらに自らの中にある信仰を強くしていけるように感じています。信仰を一層純粋なものとするのは自らの中に深く潜っていくことでもあると思います。それは瞑想そのものでもあります。
人生の目的である真理を実現するということ、その真理を体感する方法の1つが瞑想です。離れていても共に瞑想する仲間がいることはかけがえのないこと。共に実践することで1人で実践するよりも真剣さが増すのを実感しています。

純粋な信仰と真剣な実践があれば、誰でもどんな状況の人でも悟りが可能となる。

まだしばらくはオンラインでの瞑想会を続けることになりそうですが、『ヨーガの福音』の言葉を胸に、真剣な実践の場としてこれからも機会を持ち続けたいと思います。

ハルシャニー


瞑想会 @嵐山 シャーンティ庵

昨日、京都でも緊急事態宣言が発令されました。
年始から全国的にコロナの感染者数が増加していますが、皆さま、お元気でお過ごしでしょうか?

不安な日々が続いていますが、先日の1月10日、私の自宅である嵐山のシャーンティ庵で小さな瞑想会を行ないました。
参加されたのは、私が勤めている福祉事業所のヨーガクラスに通っているスタッフ2名の方でした。
1人の方は70代の女性で、もう1人の方は昨年に埼玉から移住してこられた50代の男性です。
お2人とも瞑想の経験は私よりも長く、長時間座ることには慣れており、その集中感に引っ張られてか、あっという間に感じた1時間の瞑想でした。

瞑想後に70代の女性は、「途中から目を開けて、(本棚にあったラマナ・マハリシの)書籍の帯に書いてある『私は誰か?』という言葉に瞑想していました」と話されました。
すると50代の男性が、「実は私は小さい頃、寝る前に『自分という存在は一体何なのか?』ということをずっと考えていました。それを考えると、宇宙を感じる時や自分がなくなっていく感覚があり、これが私の瞑想の原点なのです」とお話されました。
私自身、「この人生、どう生きていきたいのか?」とは大人になるにつれて考えていましたが、その人生の主体である「私とは誰か?」ということを真剣に考えるようになったのはここ数年のことなので、この男性の話を聞いて驚きました。
この時に話題にあがった「私は誰か?」という帯が付いていた聖典『沈黙の聖者』の中で、ラマナ・マハリシは次のことを説いています。

「私たちは自分の内部にある長年のサンスカーラ(潜在残存印象)のすべてを完全に投げ出さねばならない。それらがすべて放棄されたとき、真我(本当の自分)がひとりでに輝くだろう。しかし、あなたは努力なしにはその状態に達することはできない。それは意図的な瞑想への努力なのだ」
「真我である、注意深く観察されたスムリティ(記憶)以外には、どんな想念をも微塵だに生じさせないほど真我の中にしっかりと留まる、よく鍛えられた内在性こそが、至高の主への自己放棄を形成する」

ーーー『沈黙の聖者』ラマナ・マハリシーー

瞑想後の少しの会話でしたが、瞑想者同士、静かに深い話ができ、私自身も「私は誰か?」という問いを常にもって「本当の自分を実現したい」と改めて強く感じた、たいへん有意義な瞑想会でした。

そして一昨日の1月12日は、私が尊敬してやまないスワーミー・ヴィヴェーカーナンダのご聖誕日でした。
最後にヴィヴェーカーナンダが瞑想について述べた言葉を紹介したいと思います。

「瞑想は重要だ。瞑想せよ! 瞑想は偉大だ。それは霊的生活への近道だ。それはわれわれの日常生活における全く物質的ではないーー魂がそれ自身を思うーーしばしの時間だ。あらゆる事物から自由なーー魂のこのすばらしい感触」

ーーー『真実の愛と勇気』スワーミー・ヴィヴェーカーナンダーーー

緊急事態宣言が出されて瞑想会は当分できませんが、また状況が改善されたら皆様にもお声がけして、一緒に瞑想をしていきたいです。
1日も早いコロナの収束を願い、感染予防に努め、今はひとり瞑想に励み、「魂がそれ自身を思うすばらしい感触」を増やしていきたいと思います。
今冬は寒さも厳しいので、皆さま、どうぞお体には気を付けてお過ごしください。

ゴーパーラ