ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

突然の自宅隔離と人生の大きな転換 — 改革の証

ECHO FROM THE CAVE: 126  PROJECT SAHASRARA(NYミッションブログ)より
2020年6月27日(ニューヨーク・シティー)

 

“ヨーガ的隠遁状態―クンバカです”
シュリー・マハーヨーギー

 

シュリー・マハーヨーギーが冬のご訪問後に日本にお戻りになられて程なく、世界的流行パンデミックという状況下、ニューヨークは休止期間に突入しました。ミッションのクラスも状況が落ち着くまで見合わされることになりました。2018年の秋より続けられてきたヨーガの教えや修行を深めるためのプログラム『行動を通して学ぶ会』(SIP: the Study in Practice group)についても同様です。

この休止期間に入る前までは、会のメンバーは一ヶ月に二度集まり学びを深める試みをしてきました。しかし、二つの小グループに分けて行われている一つのグループが、メンバーたち自らの意思によって自発的に、本来であればアーサナ・瞑想クラスのある日曜と水曜の晩に、つまり週二回オンラインで集い学び始めました。同じ頃、ニューヨーク・ミッションのディレクターであるアーナンダマーリーによる、「この期間を、シュリー・マハーヨーギーの教えをより深く捉え実践するポジティヴなものに。私のハートは皆とともにあります」というメッセージが皆に送られました。するともう一つのグループも同様に週に二回ビデオ電話を駆使して集い学び始めました。

ニューヨークのサンガとその状況を心配されたシュリー・マハーヨーギーからメッセージが届きます。

「いつ迄続くか分からないけど踏ん張るしかありません。
ヨーガ的隠遁状態―クンバカです。頑張ってください」

本当に、その時この状況がどれだけ続くことになるのか、また、今もこれからどれだけ続くのか分かりません。けれども、シュリー・マハーヨーギーのメッセージの中に書かれてある「クンバカ」は確実に大きな指針になりました。外出制限という状況は、非常に困難な時間ですが、私たちの内なるエネルギーが力を蓄え、自らの中に不屈の精神の確立が実るように、この制限された時間をクンバカとしてポジティヴな修行と捉えるかは私たち一人一人にかかっています。

まぎれもなく、多かれ少なかれ孤立化した状況の中で、SIPは週に二度の集まりになり、頻度が急激に変化したことによってグループは、ヨーガにおいて最も大切な部分であって最も困難な仕事でもある、心の内部への取り組みが強化されていきました。

SIPが始まった時2018年の八月の終わりに、シュリー・マハーヨーギーはサンガに隠喩を使って次のようなメッセージを下さいました:

「肝心なここの部分が皆欠けている。ある男が真理の話を聞いて、真理の向こう岸に渡りたいと思った——ヨーガやスピリチュアルなことに関心を持った段階。ボートで漕ぎ出そうとして、オールを一所懸命一晩中漕いだ。夜が明けて、周囲を見ると、元の世界のままだった。男は、ボートを繋いでいる綱を外していなかったのである——ちょうどこの有様が起こりがちな間違い、あるいは失敗である。ボートを漕ぎ出すという—真理を学び修行をする—前に綱を外しておくべきである。やはりこの根本をしっかりとマスターしなければ一向に先に進まない」

そしてシュリー・マハーヨーギーは、私たちが行わなければならない作業はそれらの綱を見つけ、綱を外さなければいけない、と説明されました。

外の世界からの刺激が制限される状況において、この一貫して内面に集中するという集中的な時間は、私たちを真剣にその作業に向き合わせました。

以下の文章は、心の悪循環に苦闘していたひとりの修行者が、突然一瞬の真の光を垣間見た証です。それは本当に祝福された経験です。長年私たちはその悪循環を目撃していましたが、彼は厚い雲に覆われながらも、なんとか諦めずに歩んでいました。この文章は、自分が進歩しているのか否かを自分自身で判断することは必ずしもできないけれども、諦めずに離れることなく進んでいけば、最終的に私たちは真の光を見ることができるということを明白に証明するものです。

*

『私は知ってる』が障害物である!

この数週間先輩弟子から、何のために生きているのか、この人生の中で何をしたいのかについて深く考えるようにという宿題を与えられていました。数日間それについて考えた後、答えを見つけることを立ち阻んでいる障害が表面化してきて観ることができないか、自分の心をただ観察することにしました。

週末、山に住む友人に会いに行こうと誘われました。出発一日前、訪問している間に宿題への集中を失ってしまうのではないかと不安になったので、私は意識であり、体ではない、他の皆も同様だ、という教えを常に思い起こすように努力してみることにしました。
到着すると直ぐ、この数カ月間ほとんど人と接せずに家で過ごしたために、多くの雑談をしようとする自分の強い衝動的欲求に気付きました。そこで私は、会話には関わっても、同時にこの訪問の中での自分の目標を忘れないようにすることにしました。
その晩遅くに火を囲んで座っている時、友人の一人と、お互いが参加した昨年夏のあるサットサンガについての会話になりました。友人は、そのサットサンガの中でのある人物の振る舞いについて、彼女の意見を話しました。彼女が話し続ける中で、「その人物を自分は知っているけれど、あなたは実際何も知らないではないか」という自分の心の強い反応と、彼女の考え方を変えさせるために何かを発言しなければならない強い必要性を感じていました。それで何かを言おうとし、彼女の意見が間違っていて何がどうでどうだったのかを自分は知っているんだと強引に納得させようしましたが、そうすればするほど、彼女は自身の視点を変えることなく同じことを繰り返すばかりでした。自分の心の反応はあまりにも激しく、実のところ自分の反応自体に嫌気がさしていました。その時点で、その自分の激しい反応を何とかしたくなり、話し続けることをやめて自分自身に問いました。「何がそんなに気に障っているのか。」すると突然、問題は心の中にあること、自分が一番よく知っていると思っていること、自分の思いが正しく彼女の思いは間違っていると思っていることこそが、問題であるということが分かり始めたのです。そのために自分は大いに苦しめられていたのです。サットサンガに参加したその人物について自分自身、真に知っているのかどうか、自分に問う外ないと感じました。自分の心を見てみると、自分は何も知らず、自分が正しいと断言などすることはできないと気付きました。それを認めて、彼女の話に真剣に耳を傾け始めると、彼女はその人物の振る舞いの何かに煩わされていることに気付きました。自分の中には「自分は知っている」「自分は正しい」という先入観があったため、その瞬間までそれが見えなかったのです。最終的には、サットサンガの中ではとても多くの事柄が話されたことに自分の意識が移り、そこにいた誰かがその日のサットサンガの中でシュリー・マハーヨーギーが与えてくださった教えを覚えていないだろうか、むしろそういった話の流れにならないかと思い始めました。それで、彼女にサットサンガの中で何か受け取ったものはないかと聞くと、彼女は少し考えてから、シュリー・マハーヨーギーが話された一つの教えについて話し始め、その途端それまでのエネルギーが一気に変わり、会話の方向がくるりと完全に向きを変えたのです。

その後即座に、この週末友人を訪問するにあたっての自分の目標を思い出し、できるだけ静かにして真の意識だけを考え、他人も同じその真の意識であるということにだけ集中するよう試みました。すると、自分が何を望んでいるのか、何のために生きたいのか、少しでもそれを理解することを制止しているものの一つは、自分が持っている人生やヨーガをも含む様々な事柄に対する「自分は知っている」「自分は正しい」という先入観であることに気付きました。それを原因として、自分のでしゃばりで強引な傾向や、ある話題や題目に対して狂信的になりやすい傾向が現れるのです。また、多分この姿勢に覆い尽くされているために、日常の中で明らかにされる事柄に自分が気付くことができないのです。

そうこうする内に彼女は他の誰かと話を始め、彼らの会話が聞こえて来ました。自分の心がまた直ぐに同じ傾向とともに自分の言い分の正しさを見せつけようとすることに気が付き、今度は自分の思いを純粋意識に、そして彼らの本質を純粋意識として集中し続けました。その時、何かが起こりました——突如として、言う必要はない、変える必要はない、この意識だけが心や体や友人たちを使ってただ遊んでいるだけだ、という思いに圧倒された明快な瞬間が訪れたのです。純真な子供たちが遊んでいて、すべての創造物も同様であり、達成すべくものはなく、自分たち皆自分のペースで真理の実現に向かって動いていて、誰かがより理解していようが理解していまいがそこには高低はないということを知ったのです。私たちの心は異なる、だからこれからは真に皆を理解できるように、自分の目の前にいる人を理解しようと努めなければならないのです。

今、その夜に自分の人生の目的を見つけたと確信をもって言うことはできませんが、その自由を体験した瞬間をその時に感じた周りの人たちとの親密さと共に、もっと頻繁に体験したいと思っています。そしてまた、そのほんの僅かな明瞭な瞬間の体験は、シュリー・マハーヨーギーに出会ったからであり、シュリー・マハーヨーギーのご指導の下でヨーガの教えを理解し修行しようとしたから起きたということも認めなければなりません。この事実は、自分の思いと行動をできるだけ頻繁に教えを基としたものにすれば、よりこのような体験をしていくこととなり、願わくば、いつの日にか、一(ひとつ)であるという感覚が自分の心を永遠に占めるであろうということをより確信させました。

シュリー・マハーヨーギー、本当にありがとうございます!

エーカーンタ 2020年6月

*

興味深いことに、この証言は、正にクンバカの一つの結果が現れた例であることに気づきました。

外出制限が始まった時、エーカーンタはその影響を受けて仕事を失いました。同じ頃、肉体的な怪我のために、絶対に必要なこと以外は体を使うことが許されない状況となりました。実際、横になっているか、ほんの短い間歩くこと以外体を使うことが困難な状況でした。その上、外出制限による孤立した状態は、ルームメイトがほとんど家を留守にしていたり、ほとんどの友人たちが郊外で過ごしたりと、さらに拍車がかかりました。体の状態が改善し始め、彼は少し体を使うことができるようになったのですが、するとそこで直ぐにまた怪我をして追い討ちを受けました。本当に、耐え続けることは非常に困難だったに違いありません。

振り返れば、もしくは、別の角度からみるならば、まるでそれは、何かの理由があって、エーカーンタは実に全ての外的条件が完全に通常ではない、「どこにも逃げ場所のない」強烈な制限の形に然るべくして押し込められていたかのようです。それでも、彼はSIPの集いに参加し続け、彼自身の心がこれらの状況に苦しんでいたにもかかわらず、耐えたのです。

友人たちを訪ねこの緊迫した状態から一時的に解き放された時、真理の片鱗を体験しました。あたかも彼が経験したこれら全ての状態は、シュリー・マハーヨーギーの恩寵として与えられたかのように。

ある意味、エーカーンタが経験していったことは、シュリー・マハーヨーギーが教えられるアーサナの修練にとてもよく似ています、むしろ、アーサナを通して起こり得ることが、自宅隔離中の「クンバカ」によって起こり得る具体的な現れとして象徴的に明かされたのです。シュリー・マハーヨーギーが教えられるアーサナの修練には、アーサナとシャヴァーサナ(屍のポーズ)が組み合わされて配置されています。それぞれのアーサナを行なっている間は、強烈な制御と集中状態が作られしばらくの間維持され、そしてシャヴァーサナが続き、それによってその状態とは反対の状態が訪れます、完全に解放するリラックスした状態です。シュリー・マハーヨーギーは、シャヴァーサナは重要なアーサナであると教えられています。シャヴァーサナの役割は、正しく理解されていないかもしれませんが、この例からもアーサナとシャヴァーサナが正しく行われると、それは心をサットヴァ(純粋)な状態に導き、それが最も小さな空間であったとしても、心に穴を空け、その空間に真理が顕れるということも見て取れると思います。

毎日のアーサナの修練は、私たちが日々の生活を送る準備をする訓練です。アーサナの修練の最中に私たちがよく直面する事柄は、日々の暮らしの中で直面する内容と同じです——日々の暮らしではより大きく長くそれが続いたとしても。アーサナを保持する中で耐える訓練をするならば、実際の生活の中で何か状況が生じたとしても、それから解放される状態が来るまで忍耐して、一貫して持続し続ける訓練を行使しなければなりません。それを行なうのであれば、真理のために心の中に空いた空間は、もしかするとヨーガマットの上で空いた空間よりももっともっと大きいものになるかもしれません。

私たちは、改めて畏敬の念で満たされずにおれません… なぜなら、これら全てがシュリー・マハーヨーギーの恩寵と、シュリー・マハーヨーギーが私たちに授けてくださる教えと修行に内在しているお導きの大きさを改めて示しているのです。

NYブログ編集部


ステイホームでヨーガに染まる!

緊急事態宣言が出て、外出自粛となった。仕事、人間関係、献身奉仕する相手も、目の前にない。
「外」がなくなり、心は嫌でも「内」を見つめることになった。
自由に使える24時間だけがあった。ふと世俗を離れて独り修行していた古代のヨーギーが思い浮かんだ。そのような、たとえば片腕を切り落としてでも悟りを求める命がけの真剣さが自分にあるのか?

慧可断臂図: 達磨大師に道を求める真剣さを示すために、慧可は自らの左腕を切り落としたと伝えられている。(雪舟筆)

その問いが浮かんだ瞬間、自分の真剣さが無いに等しいことに愕然とした。マハーヨーギー・ミッションに属してクラスに参加することで、満足している自分がいた。拠り所にできるのはヨーガしかないと分かっているはずなのに、集中も甘いし、神への愛も実際に人を好きになった時の気持ちに比べたら、こんなの全然だ・・・
真剣さが足りないのは結局信じ切れていないからだ。だけど、ここからやるしかないのだ。

すると、私にある考えが浮かんだ。それは自分を躾けていく、ということだった。母親のことが大好きだった私は、母の言いつけをよく守り、大人になった時には母親そっくりになっていた。ということは、真理の教えを親に躾けられるように日々の生活の中で自分に言い聞かせ続けていけば、20年後(?)には神そっくりになり、神に染まった私ができる!!やったー!!と思った。

そこで、ヨーギーさんの教えを1冊2冊ともう一度読み返した。そして特に心に残った教えを書き出してまとめた。それを一日に何度も目に入る場所に飾った。神と一緒に暮らしていて、いつも神が言葉をくださるような感覚にした。

書き出した師の教え

そして、一日は動画配信されたキールタンを毎朝一緒に歌うことから始まるようになった。
そのうちに瞑想専科が動画配信され、それを毎日見た、というか聞いた。最初は受講した時のように姿勢を正して見たのだけれど、親の話は必ずしも姿勢を正して聞いているわけではないなあと思い、食事をしながら、家事をしながら、そばにいる家族の話を聞くように聞いた。
それは親代わりのお兄さん(兄弟子)が家でいつも真理の話をしてくれている感覚だった。私は時々、自分の用事に気を取られてお兄さんに「え?今なんて言った?」と聞き直す。と、優しいお兄さんは何度でも同じことを繰り返してくれる(リピート再生)といった感じだった。受講当時は今一つピンとこなかった話も繰り返し聞いている内にわかることもあり、動画配信はとてもありがたかった。心(エゴ)が自分だ、と思って今まで生きてきた私には、本当の自分はエゴではなくアートマン(真我)だと教えられても、そうだったらいいなとは思えても腑には落ちていない。でも腑に落ちているお兄さんの熱い言葉は「私もそうなりたい!」と波動砲のように私の心を繰り返し揺さぶった。

キールタンの動画配信の画面。

緊急事態が解除され仕事が始まった。
朝が苦手だった私が少しは早く起きられるようになり、掃除してキールタンを歌い、神の教えを胸に仕事に向かうようになっていた。ステイホームの日々は私の基本的な生活態度を大きく改善していた。他人の評価を気にするあまり、決断するのに時間がかかる癖も、以前に比べてマシになり、仕事への集中も増した。仕事で対人関係が再開したとたん心がざわめいたが、今までならその心の動揺からなかなか抜け出せなかったのだけれど、そんな自分の心を少し離れて冷静に省みることができた。

真理と突き合わせて真理でないものは棄てていく、言われていたのはこのことだったんだなと思った。あぁ、でも!自分のエゴを棄てるのは簡単ではない、と思った瞬間に、心は思ったものになるから難しいなんて思っちゃダメ!大丈夫、できる。心は訓練すれば変わるんだ、もともとエゴなんかないんだ!という思いが湧く。
自分の小さな利己的な思いにいつまでも執らわれていると、チマチマやっていないでもっと大胆に放棄しなさい!とどこからか聞こえてくる。
20年後なんて言わず、今すぐにでも神に染まりたい!

クラスが休講の間、いつも何かしら神のこと、ヨーガのことを思って過ごしていたから、ずっとグルバイ(兄弟姉妹弟子)と共にいるような感覚だった。外出自粛の間も届けられたキールタンや瞑想専科やさまらさの動画やブログは、神がグルバイの身体を通じて現われてくださったように感じていた。
そしてクラスが再開され、クラスも神の恩寵だったんだとわかった。久しぶりのクラスで行なったシールシャ・アーサナ(逆立ちのポーズ)で、いつまでも立っていられる感覚を初めて味わった。拙い歩みでも、神は導いてくださるのだ。

ずっとヨーギーさんと物理的に会えないことよりも、ヨーギーさんが「いつも一緒にいます」と言われた言葉がいつも心にある。私はまだ気が付くことができないけれど、ヨーギーさんはいつも一緒にいてくださる。そのことを以前よりもずっと強く信じるようになった。
利己的でなくなること、つまり自分の得になることを棄てることは、自分にとっては損でしんどいことでとてもできないと思っていた。だけど「己」なんてないのだ、みんなアートマン(真我)なのだと信じた時、利己的な思いこそが自分を苦しめているのだと感じられる。今はまだ自分の今までの心の癖や利己的な思いも出てくるけれど、それに気付いて「棄てたい」という思いも早く強く出てくるようになった。
思いも言葉も行動も、神と同じになるように、黙々と淡々と私の心を躾けていこう。

吉岡恭子 


共同生活の醍醐味

私はこの数ヶ月間、コロナに対する世の中のざわめきが遠のいてしまうほどに濃い毎日を過ごしていました。
何があったのかというと、3月1日に快適でこの上なく居心地の良い実家を出て、同じ松山に住むグルバイ(姉弟子)のりょうこさんとの共同生活を始めたのです。

りょうこさん(右)と一緒に。

ヨーガを成就したい!真実を実現したい!という情熱だけは持っていました。ただ、慣れ親しんだ実家では存分にぬるま湯の生活に甘んじていたため、初めての共同生活は当然のごとくギャップに翻弄されました。あれもしなきゃいけない、これもしなきゃいけない。それに生活に必要な出費も実家生活に比べると格段と増えたから、いろいろ我慢しなきゃ…というか生活していけるのか?とまで考えては悶々としていました。
そんな自分の不安や不満ばかりに目を向けていたときに、ふと気づいたことがありました。

…一緒に住むりょうこさんが作ってくれる料理に、何気なく話した私の好きな食材やメニューが出てくることが多いぞ?

…はっ!これは、私が喜ぶことをしてくれているんだ!

自分しか見ていなかった私に対して、りょうこさんは私のことを考えてくれていたんです。なんてこった恥ずかしい!ごめん、ありがとう!
私も何かお返しがしたい、そう思ったものの、何をすれば喜んでくれるのかわかりません。これまで自分の心地よさを優先して生活してきたのだからそりゃそうだ。そして私の仕事が繁忙期に入ったことも重なり、お返しをするどころか助けてもらう一方になっていきました。申し訳ない気持ちでいっぱいになりましたが、申し訳なさを膨らませたって良いことは無いので、考えた結果、せめてお互いが気持ちよく生活できるよう、朗らかに優しい気持ちで生活しよう、と決めました。(えっどこが?!というツッコミなら受け付けてるよ、りょうこさん!(笑))

二人の共有スペース

そうすると不思議と、当初感じていた、生活に対する不安や不満も薄らいでいくのを感じました。数ヶ月経ったことで、実際に生活の見通しが立ってきたということも勿論ありますが、自分の心の持ちようを変えたことも大きく影響したように思います。あれもない、これもない、やらなきゃいけないことばっかり、と考えるとしんどいですが、考えても仕方ないし案外何とかなるさ!と身を任せてしまえば、身も心も軽くなって、いろんなことを楽しめるようにさえなりました。現実は変えられなくても、今居る場所でどう過ごすのか、状況をどう受け取るのかといったことは、自分で自由にできることなのかなと感じています。

こんなこと、この生活をしてみなければ経験できなかったと思います。知識を頭で理解するのではなく、体験を通して心が直接納得しているみたいな感覚です。
そして何より、この経験はひとりでは成り立ちません。私の思いを尊重しながら、時に励まし、生活を共にしてくれているりょうこさんに心から感謝しています。また、私たちを応援してくださる先輩グルバイの存在、さらにはその向こうで見守ってくださっているヨギさんの存在を、すぐそばに感じられるこの生活をとても気に入っています。

部屋から見える夕焼け

家に帰れば当たり前のようにヨギさんやヨーガの話をできるなんて、なんて幸せなんだ!と時々喜びが爆発するほどです。こんなにもヨーガ濃度の高い、恵まれた毎日を大切にしながら自身のヨーガも深めていく所存です!

(いいな~と思ったそこのあなた!いつか遊びに来てくださいね^^!)

大森みさと


ヨーギニーを目指して 〜丹波の山里にて

世の中は、自粛、ステイホーム…。いまだかつて、このような状況を見たことも聞いたこともない。しかしながら、古希を迎えた私にとっては、さほど変わらない日々である。出歩く事も、買い物も、日常の食材を買い出しに週二回程度、30分ほどの外出は以前とあまり変わらないのだ。月15日間ほどは母の介護を兼ねて丹波へ出かける。自粛している皆さんにとって、私は月の半分は自然の中で過ごし、移動も可能なのだから、幸せ者かもしれない。

初夏の丹波の山と空

山里の清冽な風は頬に心地よく、ここにいることだけで幸せを感じる一瞬なのだ。
縁側にて、十年ほど前、毎日読み憧れた言葉を感じつつ…

私はヨギになり、
愛という山の洞窟に住もう。
至福の泉のそばで、ヨガに没入しよう。
真理という果実によって、知識の飢えを満たそう。
離欲という花を供えて、神の御足を礼拝しよう。
私は、ハートの燃える渇きを癒すために井戸は探すまい。
我が魂なる水瓶に、平安という水を引き入れよう。
あなたの聖き蓮華の御足の、栄光に満ちた甘露水を飲んで、
歓喜のあまり、笑って踊って泣いて歌おう。

―ラーマクリシュナの福音よりー

一字一句に感動し、この環境に憧れた。ヨーギーさんに話をした時「いいね」と。優しく微笑みながら「その為には、何が大事かな」と、問いかけられたことを思い出す。
もちろん環境は大事だけれど、心の有りようがもっと大事なんだよ。いつもの優しい眼差しで。現在の環境がこの句のように思えた。
丹波の山里は自販機も店もコンビニもない。バス、電車も走っていない。二キロほど下ると最寄りの駅。帰りは山に向かって登る道、途中にこんもりした森がある。そこは鹿と猪の住処だ。時折、自動車を止めることがある。鹿が道を塞ぐのだ…。長閑な山里である。
今年は、コロナの影響もあり、野菜作りに精をだしている。種を蒔き、水をやり、芽が出れば芽に話しかける、「可愛いね。もうひと息だよ。ほーら、青い空と山の緑が気持ちいいでしょう。霧も晴れていくよ。瑞々しいあなたに陽があたためてくれるよ。大きくなーれ!」ってね。朝霧が心地よい中で、畑の野菜たちと語らい、一日が始まる。
そこには、ただ、愛だけが在る。

茄子の花

日々の潤いは、こんな言葉も身に滲み入る。

調和をもって、愛を持って接しなければなりません。
すべてが、神なのですから。
木も、太陽の光も、動物も、建物も道も、
私たちすべてがそうです。
万物の、この宇宙の本質でもある。

―ヨーガの福音よりー

名も知らない草花さえ愛おしいと思える。カエルが飛び出してきた、かわいいと思う。
人との関わりはほとんどないがそれだけにシンプルに命を感じながら過ごせる。
心の騒めきは一切ない。ただ、穏やかさだけが存在する。これが十年前の答えですね…。
ヨーギーさん、ありがとうございます。こみ上がる感情は清々しく全身が熱くなる…。
ああ感謝!感謝!  オーム・タット・サット オーム!!

全部の時間、全部の行為が浄化のために行われるのです。
その結果、何事にも、何の意図も努力もいらない無為の行為が生まれます。
その時、心は浄化され、思いと行為は他者への愛に、
あるいは他者への奉仕に現れてきます。

シュリー・マハーヨーギー 

私の目指す理想の姿です。更に、ヨーギニーを目指し、何の意図も努力もいらない無為の行為として、思いと行為は他者への愛に、あるいは他者への奉仕に自らの持てるものすべてを費やしていきたいと思うのです。
故に、ただ執われない心で生きたい、人里離れ洞窟で瞑想するヨーギーと同じように、在家の私にも日々の仕事をしながら同じ境地を得ることができるのでしょう。

閑かな月夜。煌々と山里が照らされる。

この地で、頂いた名前「Saranya=シャラニヤー」(避難所を与える者の意)を成就できますように。

シャラニヤー


人の性質は変わる!ー『最高をめざして』ヴィラジャーナンダの導き

ヨーガでは師が必要だと古来いわれているのですが、私はヨーガを学び始めて以来、師であるヨギさんを慕い、師から直接ヨーガを教わるために月に一度は松山から京都に出かけてヨーガを学んできました。ところが今回の新型コロナウイルスの影響で外出自粛になってしまい、ヨギさんにお会いする機会が閉ざされてしまいました!私にとっては一大事です!!!

そんな外出自粛が始まった桜が満開の頃、一体いつになったら、私はヨギさんにお会いできるのかと、何かにすがるような気持ちで本棚の中から、久しぶりに『最高をめざして』という一冊の本を取り出しました。ヨーガを始めたばかりの頃によく読んでいた本です。この本の著者は気さくでユーモアが溢れるスワミ・ヴィラジャーナンダ(1873年~1951年)という方です。インドの素晴らしい聖者シュリー・ラーマクリシュナの直弟子たちから薫陶を受け、後にラーマクリシュナ・ミッションの長になられました。

いつも持ち歩いて読み込んだ『最高をめざして』。

私はすぐさま惹き込まれ、一番好きな次の言葉が目に留まりました。

繰り返し行なう修練が、心を純粋にするための唯一の方法である。難しいとか、自分には不可能と思われるようなことでも、絶え間ない実践によってやがては楽に達成できるようになる。規則正しく実践されることは何でも、その人の性質の一部になってしまうのだ。

瞬時に当時の記憶が蘇りました。ヨーガを始めた頃の私は、ヨーガの仲間と自分をついつい比べてしまって、自己嫌悪に陥ることが度々あったのです。人前では明るく振る舞っていたのですが、心の中は葛藤の嵐でした。でもこの教えを読んで、ネガティブな感情が吹き飛ばされたことが思い起こされました。その時、「性質が変わるって、凄い!今の自分が未熟だとか不器用だとか、理解が遅いとか全く関係ないってことだ!」と勇気と希望が与えられました。

でも最初は全然うまくいかず、失敗の連続でした。それでもマイナスの感情が起こるとすぐ、単純によい思いだけが心を占領するようにしていきました。すると、だんだんそのマイナス感情が起こる前に気付くようになり、その次には感情が生まれる前になくすように訓練していきました。イメージなのですが、マイナス感情をテニスボールとすると、そのボールをヨーガのラケットでバコーンと打ち返すような感じでした。泣き言、言い訳、劣等感、そんなマイナス感情は一切、近寄らせない!と決意し、反対にすばらしい思いで心を占領する!来る日も来る日もバコーン、バコーンと打ち返していました。時間はかかりましたが、自分の性質が確実に変化し、負の感情に振り回されにくくなってきたのです。

そのことに気づき、本に書かれている通りだ!と新鮮な驚きがあり、同時に繰り返し行うことの力強さに改めて励まされました。そうして、そうか!私にとって最高の瞬間(ヨギさんとお会いしている場面)を繰り返し思い起こせばいいんだと気付きました!京都にいらっしゃるヨギさんにお会いできない難関を乗り越える答えを絶妙なタイミングでいただいたと胸が高鳴りました。ヨギさんと共にいる時間を思うことでいつも一緒にいられる!それが自分の性質になるまでやり続けようと胸に刻みました。

師がデザインされた美しい看板。 見ていると力が湧いてきます。

アーナンディー


この世は美しい!

早いもので、在宅勤務生活が4カ月目に突入しようとしています(私は3月から一足お先に在宅勤務を始めています)。その間に出社したのはたった6回(それも全て午後のみ出社)、それ以外は毎日ステイホーム!ひとりお家で1日を過ごしています。

4月1日までは週1回出社していたので、会社で同僚とおしゃべりをして息抜き(?)ができていましたが、非常事態宣言以降は出社禁止となり、8~17時のうち実働8時間(日によっては残業することも)、もちろんお家でも息抜きをすることはありますが、案外しっかりパソコンに向かい仕事をする毎日です。

そんなある日、洗濯物を干している時でした。「毎日誰にも会わず、ここで起きて、仕事をして、食事をして、寝て、また起きての繰り返し、生きるってなに⁈」という思いがふとよぎったのです。ヨーガを学び実践する者としては、「真実に目覚めること、それが人生の目的だ!」となるのでしょうが、私はその時その答えに満足することができず、それからしばらくその問いを持ち続けていました。

スーパーへの買い物以外は外に一歩も出ない毎日のなかで、生活のリズムをつくるためにジョギングを始めたのですが、夕暮れ時に走りながら、ふとブッダの「諸行無常」、そして「この世は美しい」という言葉を思い出しました。
そうだ、この世は移り変わるもの、永遠に変わらないものなど何もない。その一方で、いま私が見ている夕日、風にそよぐ新緑、それぞれのスタイルで生活を調えようとしている人々、そして日が落ちた後に浮かぶ満月も、すべてが美しい!! この世をどう捉えるかは私の心ひとつで決まる。それならば、変わりゆく日常を受け入れて、いまできることに最善を尽くせばいい!と、心が軽くなりました。

ジョギングコースの夕暮れのシーン

しかしその翌日、会社がフリーアドレス席になるらしい(在宅勤務を前提として、部員の半数分のみ席を用意。決まった座席はなく出社したら好きな席で仕事をする)と聞き、「これで出社したとしても、いつもの席で同僚と世間話すらできない、この前まであった当たり前の日常は本当に戻らないのだ」と、再びやってきた現実に少々揺れましたが、すぐさま諸行無常!と切り替えることができました。笑

たとえどのような状況でも、私自身がサットヴァ(純粋)であればこの部屋からそれは振動となって伝わるはず、師がずっとそうされているように。私がすべきことはただ一つ、やっと答えがすんなり入ってきた、5月の終わりでした。

3月から成長を見守ってきた新緑

ターリカー


グルの不思議な導き!

3月末、会員向けの瞑想専科「ヨーギーを目指して12回コース」が最終回を迎えました。最後のサーナンダさんのお話の中で、「グル(師)は真剣に道を歩もうとしている人が速やかに歩んでいけるように、障害を取り除き道を整えてくださる。弟子が自らのカルマを速やかに果たして歩めるように、弟子を導かれる。」とありました。
それを聞いて、私自身に起きた出来事を思い出しました。

いつの間にか芍薬の花が咲く季節になりました。

12年前に師の下でヨーガを学ぶために、東京から京都に通い始めた頃、私は鍼灸専門学校の学生でした。基礎的なことは学内で学べましたが、技術的なことなどは学内で教わるには限界があり、在学中から学外の勉強会で学んだり、師弟関係を結んで先輩鍼灸師から学ぶ人が多くいました。
私の場合、最終学年を迎える頃になってもこれだと思える勉強会がなく、師匠と慕えるような方との出会いもなく、宙ぶらりんな状態でした。
ヨギさんに2回目にお会いしたのは学校の春休み中のことでした。サットサンガが終わった後、ある先輩グルバイ(兄弟姉妹弟子)から、インドでは霊性のグルと、世の中で生きていくのに必要な技術を教わるためのグルの、2人のグルがいるという考え方があると聞きました。
翌日は個人的にヨギさんにお会いすることになっていたため、このことも質問してみようと思い、アーシュラマへ向かいました。

私は、「ヨギさんを霊性のグルと思っても構いませんか?」とお伺いしました。
ヨギさんはにっこり微笑まれて「いいですよ!」とお答えになりました。
嬉しくて胸がいっぱいになりながらも、続けて、もう1人の技術を教わるためのグルについて質問しました。今私にはそう呼べる方がいないが、そういう存在は必要なのか、お伺いしました。ヨギさんは少し間をおいてからお答えになりました。
「確かにインドではそう考えられているけれど、気にしなくても必要があればこれから現れるかもしれないし、もしかしたらもう出会っているかもしれないよ。」と、最後に満面の笑顔で私の方を見てくださいました。

東京に戻って程なくして、最終学年の授業が始まりました。ヨギさんの言葉は頭の片隅にありましたが、それほど意識することなく過ごしていました。
ある日実技指導の先生から、放課後に行なう勉強会のまとめ役をしてほしいと依頼されました。なんで私が?と思いつつ、仕事のためできないとお断りしたら、何とか引き受けてほしいと再度依頼されました。私じゃないとダメなのかな?と納得できないまま仕事に行ったら、無理だと思っていた仕事の調整がうまくいき、まとめ役を引き受け勉強会に参加する運びとなりました。正直仕方なく参加し始めた勉強会でしたが、私はこの先生の人柄と技術に惹かれ、2ヶ月後に弟子入り志願することになったのです。

無事弟子入りが決まり、真っ先に浮かんだのが、ヨギさんの満面の笑顔でした。
私はこの先生にすでに出会っていましたが、最終学年になるまで授業を受けることがありませんでした。”これから現れるかもしれないし、もう出会っているかもしれないよ。”・・・ヨギさんの言葉が頭の中で響いていました。この出会いがなければ、私は鍼灸師として自立するのは難しい状況であったと思います。技術のグルも私の人生には必要で、それをヨギさんが導いてくださったとしか思えないのです。
この出来事を思い出す度に、ああ、ヨギさんはこんな些細な悩みですらも速やかに解決できるように導いてくださったのだ、と胸が震えます。

やがて自分の鍼灸院を開院できるまでになりました。

グルバイと話していると、ヨギさんからそれぞれにバラエティに富んだ導き方をされていることに驚くばかりです。そのエピソードを話すグルバイの表情は生き生きと、全身から歓びが溢れ出ていて、聴いているこちらまで歓びに満たされます。生まれ育った環境は様々、ヨギさんとお会いした時期もそれぞれですが、どの人に対しても平等に、絶妙なタイミングで導いてくださっていることが分かります。 いつ何時でも優しく愛をもって接してくださっているヨギさんとの間に起きた出来事一つ一つが、私たちにとって尊くかけがえのない宝物です。私たちはすでにたくさんの宝物で満たされています。時に忘れてしまうことがあったとしても、それは事実であり消えることはありません。
弟子一人一人に対してどれだけヨギさんが関わってくださっていて、どれだけ与え続けてくださっているのかを思い知り、言葉にならないヨギさんへの感謝の想いが溢れて、いてもたってもいられなくなりました。

私もいつかヨギさんのような行為を、ほんの少しでもできるようになりますように!

ハルシャニー


愛だけがある

新緑が美しい季節となりました。あまり外出もままならない今日この頃ですが、街の所々に可愛らしい花や虫たちが顔を覗かせ、目を楽しませてくれています。

ここは京都御所

さて、前回ゴーパーラさんのブログ記事を読んで、私も久しぶりに『In The Cave With The Master』DVDを観てみましたところ、そこには求道者にアーサナを伝授するめちゃくちゃ格好いいヨギさんが映っていて、目が釘付けになりました!

気品のあるお声、柔和なお顔、凜とした眼差し、そして難易度の高いアーサナを何の躊躇もなく軽々と、文字通り肉体を道具のように簡単に扱われるお姿。弟子を気遣われ、慈愛深く接するお姿。もう、何もかもがすごい。完璧。愛に溢れて愛の中で自分も洗って頂き、見終わった後はくらくら〜となりました。DVDを何年も観なかったことを悔やみつつ、改めてヨギさんの深遠さを感じました(観たことがない方は絶対観ることをお勧めします!)。

2006年に大阪でサットサンガが行われ、その時初めてヨギさんにお会いする機会を頂いたのですが、それがちょうどDVD映像の紹介が行われた時でした。DVDについてコメントを求められたアーナンダマーリーさんが、やっとの思いを絞り出すように『まったくエゴがない作品です』と言われ、その限りなく純粋な佇まいに魅了されました。ヨーガって美しい!まったくエゴのないその美しさこそ真に私が求めていたものだ!と、道が開けた気がしました。

ヨギさんがこの世で理想の生き方を私たちに示してくださり、生きる希望を常に与え続けてくださっていることに、改めて感謝の気持ちでいっぱいです。神様がいてくださって本当によかった。

最後に、最近読んで心に残ったヴィヴェーカーナンダの言葉をご紹介します。

私たちの神への愛がこの世にどんな善をなすだろう、などという愚かな質問はけっしてしてはならない。世界のことは放っておきなさい。愛するのだ。疑問をはさまず、愛して、それ以上何も求めないことである。愛しなさい。そしてすべての「……主義」を忘れるのだ。愛の杯を飲んで、酔いしれなさい。「私はおん身のもの、おお永遠におん身のもの、おお主よ」と言って、他のすべてを忘れて没入するのだ。まさに神のエッセンスは愛である。親ネコが子ネコをかわいがっているのを見たら、立ちどまり、そして祈るのだ。神がそこに顕現しておられることを、文字通り信じるのだ。「私は『あなたのもの』でございます、私は『あなたのもの』でございます」そう繰り返しなさい。神はあらゆる所に見ることができる。「彼」を捜し求めるのではない。ただ「彼」を見なさい。「世界の光であり、宇宙の魂である主が、永遠に、あなたを守って下さいますように!(スワミヴィヴェーカーナンダ『インスパイアードトークス』より)

神がいてくださって、そして神を想う肉体がある。与えられた命に感謝して、味わいたいです。

                                 アマラー


ヨーガ・アーサナのポイント

最近、私はサマコーナ・アーサナ(両開脚の形)をしても、お尻が地面に付かなくなりました。
プラーナーヤーマ(呼吸法)を取り入れ、アーサナの時間を減らしてサマコーナをしなくなったら、すぐにできなくなってしまいました。。😓
まぁなぜ、こんな話をするかというと、アーサナのことをちょっと話したいからです。

鴨川でデモンストレーションしていた時の懐かしい写真です〜!(2015年6月)

アーサナを10年くらい続けていると、できるポーズも増えてきます。
「ゴーパーラさんは、痛いと感じるポーズはないのですか? 最初からアーサナできたのですか?」と聞かれることがありますが、「いや、そんなことはない」と答えます。
もともと体は硬く、身体測定で前屈をしても、「マイナス17センチ」とかの記録でした。
なので、アーサナを始めてから最初の数年間は、重い身体を引きずるように行なっていました。
徐々に身体と呼吸がアーサナに慣れ始め、アーサナをすることに気負いや抵抗のようなものはなくなっていきましたが、ルーティンワークのようになってしまう時もありました。
ただそんな中、アーサナへの向上心を持ち続けるターニングポイントのようなものが、二度あったように思います。

一度目は2015年11月の『The Eternal Questー永遠の探求ー』に出演させていただいたことです。
形には慣れ、アドバンス(高度)のものも少し行なっていた時期でしたが、このイベントでアーサナと向き合ったことで、ポーズを完成させるためには、いくつかの「ポイント」があるということを実感しました。
例えばサマコーナ・アーサナ(両開脚の形)であれば、まず手にしっかりと体重をあずけ、腰を入れてお尻の位置を変えずに重心を上体の方に移行し、その重みで足を開いて踵を立てる。
心というのは厄介なもので、どうしてもお尻が地面に付くこと、つまり結果を求めてしまいます。
形や結果に執らわれずに、呼吸を調え、ポイントをしっかりと意識して丁寧にアーサナを行なう。
これは先輩がクラスで指導されていた内容でありましたが、最終ポイントに至るにはいくつかのポイントがあることを身をもって感じたのでした。

二度目は、2016年末から2年ほど行なっていただいた「師の直伝クラス」でした。
直伝クラスでの師は、細かいことはおっしゃらず、いろんなアドバンスに挑戦するように促されました。
そうすると、できないと思っていたアドバンスがスッとできるようになったり、できないものも少しでもできるようにがんばれたのでした。
シャラバ・アーサナ(バッタの形)のアドバンスができないでいる時に師は、「なかなかできひんな。でも、そのうちできるようになるやろ!」とおっしゃられることもあり、その二年間の直伝クラスは、師のお言葉や視線、クラス中の一挙手一投足が私を奮い立たせたのでした。

ヨーガの一部門のアーサナだけ見ても、師の導きは至極、積極的であります。
できていても、できなくても、前に進めてくれるダイナミックな歩みだとすごく感じます。
最近、久しぶりに私は『In The Cave With The Master』のDVDを観ました。
師はアーサナ自体が15年振り、また30年振りにしたというアドバンスのアーサナを軽々とこなしておりました。
これは本当に「驚愕」の映像です。(まだ見ていない人は見るべし!)
私は1カ月も経たないうちにサマコーナができなくなっていたので「この差はいったい何だろうか……」と思わずにはいられませんでしたが、最近読み返した『図解 ヨーガ・アーサナ 基本編』の冒頭には、

「ヨーガとは、本当の自分を実現することです」

と書かれてありました。

「過去や形には執らわれたら、ダメだな」と前向きに捉え、今はヨーガの最大の的(ポイント)「本当の自分」に一点集中を試みている最中です。

『In The Cave With The Master』『図解 ヨーガ・アーサナ 基本編』をまだお持ちでない方は、クラス休講中の折、ぜひこの機会にご覧になってください!(👈こちらをクリック)

ゴーパーラ   


心をピカピカに磨く!

ヨーガを実践する上で、大切にしている教えがあります。それは、「真実は既に自分の中にある」ということ。ヨギさんはこの教えを繰り返しおっしゃってくださいますが、耳にする度に胸が高鳴ります。この真実があるから私は生きているんだ!ハートの奥底から力がみなぎってくるのです。
ところが日常生活を送っていると、いつの間にかこのことを忘れてしまい、目の前のことに振り回されてしまっていることに気付きます。クラスやサットサンガが休止状態になってからは、この教えで胸がいっぱいになっている時よりも、忘れている時の方が多くなっていました。だから言い聞かせるように心の中で唱えるようにして、唱えること自体を忘れてしまうことがあっても気にせずに可能な限り続けていました。
そうして過ごすうちに、「真実は既に自分の中にある」ことを忘れてしまう原因に思い当たりました。

それは、「真実」が本当に自分の中にあると信じられていないからなのではないか?
自分には無理…まだできない…そういった心の思いが、曇ったガラスのように真実を覆って見えなくしているからではないかと思いました。

「真実」は物体のように手を伸ばして掴めるわけではありません。
真実は掴むものではなくて、体感するもの。体感するためには、心の思いで曇ったガラスをピカピカに磨いて綺麗にすることが必要なのではないかと思い至りました。

では、どうすれば曇ったガラスを磨いて綺麗にできるのか?
何か手がかりはないかと、これまで参加したクラスやサットサンガの中で印象に残って自分で書き留めたメモ、聖典、等々、これまで以上に意識して読み返しました。そうしている中で、『ヨーガの福音』のある一文が目に飛び込んできました。

”心も複合物です。エゴや知性や想念や記憶などさまざまなものによって成り立っていますから。
心は心のためにあるのではなく、他者のためにあるのです。主人である本当の自己のためです。”

何度も何度も読んで十分に知っているはずなのに、今回初めて胸の中にすぅーっと入ってきて、ストンと音がしたと感じるほど、腑に落ちました。

心は主人である本当の自己のためにある。これこそが「真実」であり、これだけを信じて進むのみ。他の思いは一切いらない!
曇ったガラスをきれいに磨き上げるには具体的に何をすればいいのか、数日間ずっと考え続けているうちに、自然と心が「真実」に集中されていたのかもしれません。
自分で勝手にいろいろ考えて自信をなくしたり、できないと諦めたり、心というのは本当に厄介なものだと手を焼くところがあったのですが、何かに依りかかることでしか存在できないようなものだから、たいしたことではないと感じられました。そして心を構成するものをエゴに依るものではなく真実に拠るものにすればいいだけ。そう思えるようになりました。

「真実」は 純粋そのもので、普遍的なもの、永遠に変わらないものです。
対してエゴから生まれる思いは純粋ではありません。それは人によって異なるし、過去に経験してきたことなどによって物事を判断するので、その時々の条件で変化します。
条件によって変化する「私」というエゴ意識をなくすことができれば、心の思いは純粋なものとなり、「真実」に近づくことになります。
これも何度も繰り返し教わってきたことですが、エゴをなくそうと頑張ってもなかなか簡単にはいきません。自分が憧れている具体的な存在だったり、聖典の言葉1つだったり、まず1つのことを足がかりにしてそれに倣うようにすることで「真実」へ近づき、一点集中へと繋がる。それが曇ったガラスを磨いて綺麗にする行程ではないか。ガラスを磨いて綺麗になった暁には「私」という思いはなくなり、覆い隠されていた「真実」がありありと見えるようになるのではないかと感じました。

真実がクリアに見えるようになると、真実という対象が明確になり、自分がどう行為すべきかも明確になる。それ(真実)しか見えなくなったら、どのような手段を取ってもそこに辿り着ける。最終的には覆っていたガラスが砕け散って真実と一つになれる。
身体の奥底から、強い確信のようなものが湧いてきました。

いつも私たちを真実へと力強く辛抱強く導き続けてくださっている、ヨギさん。
時間や距離は何も関係ないと、そのお姿が目の前にある時もない時も、常に私たちと共にある
と言ってくださっていますが、ヨギさんが力強く真実へと手を取り引っ張ってくださったよう
に感じた出来事でした。

きっとグルバイ(兄弟姉妹弟子)のみなさんもそれぞれの場所でヨーガの実践を続けられていることと思います。
今は一人一人が自分と向き合い、すでに学んだことを淡々と実践する時期なのかもしれません。
みんなで集まれる機会はまだ少し先になりそうですが、今できることをやり続けつつ、少しでも成長してその日を迎えられたらと思っています。

 

ハルシャニー