ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

ヨーガを続けてきて今、感じること——烏丸ヨーガ・瞑想クラス インタビュー①

烏丸御池で行なっている火曜日の夜クラス。参加者は今年になって来始めた方から、中には10年近く(!)熱心に学んでおられる熟練者までおられ、経験はさまざまです。今回はその中から二人の方にインタビューし、ヨーガと出会っての変化や今の心境などを聞いてみました〜!

駅近のスタジオ サンゴッホにて

まずお一人目は、仕事もしながら、銅版画の製作にも取り組んでおられるという二宮さち子さん。クラスに通うようになって3年半ほどになりますが、久しぶりに会った友人からは「人相が変わったね」と言われたとか。確かに〜〜〜!はじめてお会いした頃よりも表情がいちだんと柔らかく優しくなったように思います。いったいどんな変化があったのでしょうか。気になりますね〜。


――アーサナを続けてきた中で感じていることは何でしょうか?

呼吸が調うことで、心が穏やかになってきたことを実感しています。
またアーサナをしないと翌日身体がだるくなってぜんぜん調子が違うので、何ポーズかでも毎日続けるようにしています。今となっては生活の一部です。
それから、アーサナをすることで『ヨーガの福音』などに書かれている教えの理解が深まっていくように思います。アーサナと教えについての読書には相互作用があると思うので、この二つを続けていきたいと思っています。

――ご自身の課題や目標としているものはありますか?

近い目標としては今練習しているシールシャ・アーサナ(頭立ち)とナウリ(浄化法)ができるようになること。
それから聖者の思想から学ぶことです。今はマザー・テレサの残された言葉が載っている本を読んでいますが、聖者の方々は皆すごく謙虚で、自己犠牲の精神をもっておられますよね。爪の垢でも煎じて飲みたい気持ちです。
最終的には瞑想ができるようになりたいです。以前に瞑想では本を読むよりも、世界のことを本当に理解できると聞いて、そういった状態を体感したいと思い、憧れています。

――関心の高まっていること、もっと知りたいことは何ですか?

ニュースを見ていると、ひどい事件や、紛争が絶えないことにいたたまれない気持ちになります。幼くしてなくなる命の意味や、なぜそういうことが起こるのかを考えたりしますが、社会問題として捉えると不条理ですが、カルマという視点で捉えるとまだしも受け止めやすくなりました。

生きている意味をもっと理解したいと考えたとき、リーラー(神の遊戯)*という、ただ遊ぶということ、世間一般的な楽しみではなくて、生きていることが遊ぶということになるなら、リーラーに身を委ねる、そんな境地を知りたいと思うようになりました。


もともとはスピリチュアルなことに関心がなかったという二宮さんですが、アーサナをコツコツと続けていく中で、身体を通してどんどんヨーガの教えや聖者のスピリットが入っていったようですね。今は、ますますヨーガが楽しくなってこられているようで、何より嬉しいです。

次回はもう一人のインタビューをご紹介します。お楽しみに〜。

(マードゥリー)

シールシャ・アーサナ練習中の二宮さん

*リーラー:この世界は一なる神の遊び戯れであるという真理を表す言葉。心が主人であると誤解し、利己的な思いをもって世界に執着すれば、そこで苦を味わうことになる。しかし、その幻影(マーヤー)を破り、真我を悟った境地から見れば、この世界万物は、愛そのものである一なる神がさまざまな形を取って顕れ、純粋に自ら遊び戯れているにほかならない。(『悟り』より)

■ クラスからのご案内
9/28(金)、烏丸御池スタジオサンゴッホにて秋の特別クラスを開講します! この日はアーサナに加えて瞑想の学びと実践の時間を長めにとって行ないます(チャイ付きです!)。初めての方もこの機会にぜひご参加ください。>> 詳しくはこちら

 


虫の音

猛暑を抜けて、やっと秋らしい気配が感じられるようになってきました。一日の仕事が終わる夜更けには、美しい虫の鳴き声が聴こえてきます。

伸びやかな虫たちの声を耳で愛でながら、ふと、虫たちはただ命を全うしているのであって、こちらに声を届けようなんて、これっぽっちも思っていないんだな・・・と思いました。

ベランダの外に出て空を見上げると、漆黒の中で小さな星が絶え間なく輝き、大きな雲の切れ間からは柔らかい光が放たれています。

計らいのないみずみずしい生命がこの世界を美しく彩って、誰かのために当たり前のように存在している。自分もその煌めく1つの命なのだ、と思うと胸が熱くなるのでした。

amara


誰ヨガの夏 ☀︎ ヨーガを歩む!

今年の夏はいろいろありましたけれど、少しずつ季節は移り変わるものですね。いつの間にか朝夕は秋の気配を感じるようになって来ました。

さて、誰もが実践できるヨーガ・夏の特別3回シリーズを、長岡京市で7/1, 8/5, 9/2に行ないました。各回ともに20名前後の方が参加されました。毎回アーサナをして呼吸を調え、講座や実習を行ない、ヨーガの実践的な歩み方を学びました。

  1. 心を知る(7/1)
  2. 理想を育む(8/5)
  3. 確かな道を見つける(9/2)*9/1 補講を実施

今回、1回目と3回目に参加された東京の早川さんが感想を寄せてくださいましたので、ご紹介したいと思います。早川さん、ありがとうございました。       (サーナンダ&シャチー)


この夏、 誰もが実践できるヨーガ・夏の特別3回シリーズ(通称誰ヨガ)を受講しようと思ったきっかけは、以前から伝説のように「誰ヨガで〇〇と言っていた」とか、「誰ヨガでは、、、」とか「あれは本当に良かった」と言う先輩方の話を耳にしていたからです。また、色々なヨーガの本を読むものの、言葉を覚えているだけのような気がしてなかなか実感が伴わずにいました。知識に囚われてしまって、知識に行為を当てはめて納得するような、何とも言えないつまらない苦しい感じがありました。そこで、「誰もが実践できる」と言うタイトルにすがるような思いもありました。

1回目の講座は、講師であるサーナンダさんとシャチーさんのお二人のヨーガの実践体験談を交えながら、ヨーガの教えを学び、実習しました。その中で、どのようにしてこれまでヨーガの道を歩み今日に至ったかを聞くことができ、自分と照らし合わせて考える事ができました。例えば、ヨーガに出会って3ヶ月くらいの時はこうだった、1年半後にはこうなった、と具体的なエピソードを伺うことができ「今の私はこんな感じ」と共感したり、「もう少ししたらそれを体験できるのかな」と期待をもったりしました。

中でも印象に残ったのは、ヨーガを始めてから1年半後のエピソードです。
まだまだ心と闘っていたということ。原因を考えてみると、どうやら「私」を認めてほしい、「私」を愛してほしい、と、エゴなる「私」があることで苦しむのだと気付き、「真理の教えを心に言い聞かせる」作戦をとったそうです。
「この心や肉体は私ではない。ではなぜこの私を認めてもらわないといけないのか。本当の私はすでに喜びに満ち溢れた存在だ」
最初は全く理解しなかった心も、何度も何度も言い聞かせていくことで、ある日「そうかもな」と言い始め、心は少しずつ楽になっていったそうです。
また何年か後には、他者の評価を受け取らないように意識していった、悪い評価はもちろん、良いことも受け取らないようにすることで、心は振り回されることが少なくなっていったとのこと。「ヨーガは自立」という師の教えも紹介されました。今の私はまだ、手放せない観念や頼りにしているものがあり、それらを失うことに不安を感じています。ヨーガの実践は、その頼りにしているものを怖いけれど手放して、立っていられるようになることなんだなと、深くうなづくことができました。

3回目の講座では、4つのヨーガの実際的な歩み方について学びました。実は私は、そのあたりの区別がごっちゃりとしていたのですが、それぞれについての参考図書も紹介され、分かり易く理解できました。
どのヨーガにしても、やったことがないから難しいと思うだけで、実践していけば、誰もが真実を実感できるようになると話されていました。今、目の前で、手の届く人がそう言っているのだから、これは実際のことなんだな、私も実感できるようになれるんだなと思いました。
ただし…バターができるまでヨーグルトを混ぜ続けるような(生クリームとヨーグルトで発酵バターを作る時、バターができるまで根気よく混ぜなければならないという、シュリー・ラーマクリシュナの例えから)、根気と忍耐が必要ですよ、とにこやかに話されていた顔が真剣な鋭い眼差しとなり、じっと眼が合いました。その時、「誰もが実践できる」のだけれど、それには目標をもって、根気良く歩み続ける忍耐が必要なんだと、この誰ヨガの本当の意味を知りました。
すると、ここ最近のもやもやしたつまらなさはすっきりと晴れ、簡単なことだったんだなと思うと同時に、やり続けられる忍耐はあるのかな、いや、続けるしかないだろうと思いました。

初めて参加した誰ヨガは、お笑いもたくさんあり、本当に楽しかったです!

早川千茶


二元性を超えるーー夏の暑さを乗り越えようとした奮闘記(2)

最高気温38.7℃の日中、私はあえて暑い部屋でアーサナをして熱中症になった。(前回のブログはこちら☜
身体が火照って頭痛がひどく、一睡もできず夜勤に行く。職場は行事の後で酒盛りをしていて、多くの人で賑わっていた。「オー・マイ・ゴット!もう終わった……」酔った職場のオーナーからいろいろ話しかけられる。「おい、死んだらどうなる? 人生って決まってんのか? お前の人生のゴールは何や?」などなど。でも不思議だった、会話中、呼吸が止まっている自分がいた。何を言われようが動揺しない自分がいて、何だか口調も穏やかになっているのを感じた。そして熱中症はどこかにいって、その後は楽しくW杯決勝戦を観て、無事に仕事を終えることができた。

この出来事は、師の恩寵としか言いようがなかった。しかしながら、私の心はその「結果」を受け取っていた。
私は呼吸が止まった経験を機に、アーサナでは吐き切る呼吸を心掛けた。しかしその後のアーサナクラスでは2週続けて「アーサナを丁寧に形作ること」「基本ポーズのポイントをしっかり押さえてアドバンスに移行すること」という指導を受けた。クラス指導者の方から言っていただくことはいつも納得いくのだが、素直に受け入れられない思いが湧いていた。だが自分のアーサナを自宅で確認すると、それらができていないことが分かった。そのことから、私は知らず知らずの内に「アドバンスができる」「呼吸が止まった」などの慢心が湧いていたことに気付かされた。
心のエゴは結果だけを受け取り、それに執らわれてしまう——呼吸の停止はあくまで結果であり、どのようにすればそれができるようになるかという過程が大切であったのだ。
ミラバイ著『真実を求めて』には次のようにある。

「アーサナは肉体を扱っているようで、本当は自分の心と向き合うこと」

とても暑かった夏を振り返り、テーマであった快不快・寒暑の「二元性を超える」とはどういうことかと考えてみた。「呼吸の停止」「結果への無執着」がそうだと言えるかもしれない。でも、「神」という唯一の存在に憧れ、近づいていこうとすること、それだけなのかもしれない。それさえあれば、どんな状況も超えられる。否、超えさせてくださる——
そのように感じた、この夏でした😇 

トンネルを越えると、「桃源郷」をテーマにした空間が広がっていました。8/1 @MIHO MUSEAM

ゴーパーラ


二元性を超えるーー夏の暑さを乗り越えようとした奮闘記(1)

皆さま、先日に台風21号が過ぎましたが、大丈夫だったでしょうか? こちら京都では停電や建物損壊の被害がありました。また、北海道では地震により甚大な被害が発生しているとのことで、災害に遭われた皆様が1日も早く平穏な生活に戻られることを心からお祈りいたします。

ところで、この夏は本当に暑かったですね。皆さま、いろいろな暑さ対策をされたことと思いますが、ヨーガの根本経典『ヨーガ・スートラ』には、

「アーサナ(座法)によって快不快、暑い寒いの二元性を超える」

と説かれています。えっ、ヨーガで暑い寒いを超えるってどういうこと?そんなの無理でしょう〜と普通は思ってしまいますが、でもこの夏、私は「二元性を超える」ということをテーマに、ちょっとばかり暑さと闘っていました。以下、その奮闘記のようなものを書いてみました😤✏️


梅雨明け間近の7月前半、私はヨーガ・ヴィハーラの夜の瞑想会に遅れて参加した。この日の最高気温は34℃、クーラーがかかっているだろうと思って部屋に入ると、クーラーはかかっていなかった。そこにはタンクトップと短パンという最小限の衣服で、涼しげに瞑想する先輩ヨーガダンダさんがいた。この暑さなのになんとも涼しげなご様子、というかご格好!私はというと、瞑想に座るもムッとした暑さで集中できない。。こういう時、どうすればいいのか?

「まず、捉えやすい身体に集中したらいい」

他の先輩の言葉が思い出され、それに伴って聖典『ウパニシャッド』の一節の言葉が蘇ってくる。

「胸と頸と頭とを真っ直ぐに保って正しく坐り、外に出ようとする感覚器官を内に向けよ」

私は姿勢を正し、呼吸を調え、内側に意識を向けていった。その後瞑想では、暑さのことは忘れていた。この日私の心には「アーサナ(座法)によって快不快、暑い寒いの二元性を超える」という『ヨーガ・スートラ』の一文が浮かび上がっていた。

それから1週間ほど経った日、師ヨーギーさん唯一のTV映像である『あどりぶランド』の上映会があった。この日は松山や名古屋からもグルバイ(兄弟姉妹)が京都に来ていて大勢でその10分ほどの映像を見たが、いろんなことに驚かされた。
まず、師の妹さんのシャーンティマイーさん。長い黒髪を後ろで結んで軽快に動き、アドヴァンスのアーサナをされたりしていて、それはまるで「くのいち」のようだった。その隠密さ漂う凛としたお姿に驚愕。
そしてヨーギーさん。何といっても、インタヴューされている時のお声がとっても美しい。声色もそうだが、独特の間合いというか、静かで穏やかな口調。この番組の司会担当をしていたヨーギーさんの同級生アナウンサー野村啓司さんは「彼の話の間合いにイライラする」と冗談めいて言っていたが、やはり普通の人の話し方とは異なる特有のものがあった。
客観的に映像で見る二人のお姿は、何か「超越したもの」が感じられた。それは言葉ではない、その存在から醸し出される「隙のなさ」のようなものでもあった。師は夏でも冬でもクルター(インドの民族服)一枚で過ごされていたという話や、当初アーシュラマ(道場)では扇風機もなく、先輩たちは汗だくでアーサナをしていたという話も聞き、私は姿勢を正される思いになった。

「暑いとか寒いとかそんなこと、言ってられないな!」

そう思った翌日、私は『あどりぶランド』に影響され、涼しい部屋でアーサナはせず、あえて暑い部屋でアーサナを行なった。ヘロヘロになりながら何とか一連のアーサナを終えるも頭がガンガン、熱中症になっていた……それもそのはず、その日の最高気温は38.7℃だったのだ?!(続く)

@MIHO MUSEUM。このトンネルを超えると……

*『あどりぶランド』は、1984年1月25日から1998年3月18日までMBSテレビで放送されていた同社アナウンサーの企画・出演によるバラエティ番組。ちなみにヨーギーさんは野村アナウンサーとは中学時代の同級生であり、同窓会で再会したことがきっかけで、この番組企画「野村啓司の私の同級生は今!」に出演することになったそうだ。

ゴーパーラ


執らわれをなくす。

まだまだ残暑厳しいですね。
今年の夏は危険な暑さが続きました。
 
京都で39.8度の観測史上最高を記録し寝苦しい夜が続くなか、一旦気温が35度の日がありました。それでも猛暑日と言われる気温ですが、その頃には身体が連日の38度超えに慣れていたのか、涼しく感じたものでした。
 
おかしなもので、人間の身体も心もちょっとした変化で捉え方がまるっきり変わったりするのだと改めて感じました。心の印象なんて本当にあてになりませんね。
 
夏は暑い。冬は寒い。考えてみれば当たり前のこと。それ以上の感想は余計な思いです。ついつい口に出して誰かに不満を聞いてもらいたい、愚痴を言って少しでも気を紛らわしたい。でもそうするとそこから余計な執らわれが心に湧いてきます。
 
先輩グルバイ(兄弟・姉妹弟子)から教えられた言葉です。
 
人にはどうにもしようのないことに、いつまでも心を執らわれているよりも、そこで切り替えて、それを受け入れて、何ができるか、どう過ごしてより良くしていけるかを考えればいいだけ。
 
暑いなぁ…から先を言い出しそうになった時、いかんいかん、師は「暑いな」と相槌をうつだけで終わらはるんやった!!と思い出して心にストップをかけています。
気候に限らず日常のあらゆる場面に考え方の癖は見え隠れしています。
余計なものはたとえ思いであっても持たない。軽やかに自由でありたいです。
チャイタニヤ
 

マウナ(霊的沈黙)

4月8日、ブッダ御聖誕の日、マハーヨーギー・ミッション春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー—神性示現大祭―」が開催された。
祝祭前日に行なわれたサットサンガ(真理の集い)では、「十二因縁の瞑想よりも大事なことがある」と示された師。(前回のブログはこちら⇨『十二因縁』
では、十二因縁の瞑想よりも大事なこととは何か?

昨年から始まった春の祝祭は今年、「ブッダ」に焦点が当てられた内容となった。
会はプージャー(礼拝の儀式)で幕を開けた。幸運にも私はプージャーで師シュリー・マハーヨーギーにマーラー(花の首飾り)を献上させていただき、そのまま師の御前に座らせていただく恩恵をあずかった。しかしながら、師と目が合うことはほとんどなかった。90名近く参加者がいたので仕方がないとも思っていた。
祝祭は、祝辞者がそれぞれに迫っていったブッダやサナータナ・ダルマ(永遠の真理)について語り、会場は歓びと祝福のプラーナで満ち満ちていく中、自然と私の心は静まっていった。
するとある瞬間、私は心が止まったように感じると、師がこちらを見られた。再度、心が止まったように感じると、また師と目が合った。それが数度、繰り返された。本当に不思議だった、私の心が止まったら止まった分、師のダルシャン(霊的一瞥)が注がれたのだった。

そして1カ月が経った頃、「それ」は突然やってきた。胸が締め付けられ、苦しくて何もできない状態が私を襲った。「それ」に心は占領され、「それ」以外のことが思えない、「それ」への渇望で胸が焦がされるような感覚――「それ」は「バクティ」の感情であった。

期せずして、新年の始めに私は「パラー・バクティ(至高のバクティ)に至るために最も大事なことは何ですか」と師に質問していた。師は一言、次のようにおっしゃられた。

「マウナ(霊的沈黙)」

祝祭前日の4月7日、師は「十二因縁の構造が知られて、その根本的な原因の無知というものに辿り着いたら、もうそれらすべてを棄てるということは大事です……心が理解できないのは無知。だからそこのところは、真理というものをもってきて、無知をなくすようにしないといけない」とおっしゃられ、それを受けて私は十二因縁の心の構造を見るより、真理そのものに瞑想する大切さを改めて感じていた。
真理への瞑想が最終的に到達するマウナの境地「ニルヴァーナ(涅槃寂静)」とバクティの目指す「神との合一」が同じ境地ということや、ヨーガの修行の歩みはその「両輪」で進む方がよいということは知っていた。
しかし今、私の中では過去の重荷は棄て去られ、新たにバクティの車輪が回転し、その歩みにドライブがかかり始めたように感じている。
マウナとバクティ——「真理を渇望しないといけない!」と言われたあの台北の夜から今日に至るまで、この両輪を身をもって教えてくださった師の導きに、心より感謝を捧げ、礼拝いたします。(終)

ゴーパーラ


レッテルを貼らない

最近、自分のある執らわれに気付かされることがありました。

ヨーガを始めて八年。ヨーガが深まっているかどうかは、日常に表れると言われています。

私はというと相変わらず同じものに執われ、手放せないでいるような気がして、まだヨーガが全然深まっていないのかなぁと、正直焦りとジレンマがありました。二十一世紀の日本に暮らす一介のサラリーマンが普通にヨーガをやっていて、本当に悟りを実現できるんだろうか?と思ってしまいます。

でも、自分の状況を憂い嘆くばかりだったそんな時、ちょうど瞑想の進め方も壁に突き当たり、先輩からアドバイスを受けて、自分の中のある執らわれに気づかされたのです。

「真理においては、世俗も出家もないし、聖も俗もなく、男も女もない、一元の無分別の境地だと教えられます。つまり本質は同じであって、差別や違いは心が作り出した観念に過ぎないということです。自分が世俗にあると思うから出家を願うし、自分を俗だと思うから聖なるものを欲するというわけです。最初の起点がそもそも誤っているのです。だから、その原因をこそ識別しなければならないのです」

ヨーガをしていたらこういうふうになって、こんなふうに進んで行くものだ。それができていないのは、これこれこういう理由だからだ。理想はこうなのに、自分の現実はこうだ。とか……その思い込みがヨーガに対するこだわりを生んで、観念に束縛されてしまっていました。まさに自由を求めて不自由になっていたことに気づきました。

「二十一世紀の日本に暮らす一介のサラリーマンの自分」「自分は俗なるもの」「ヨーガが全然深まっていない」「ヨーガはこうあるべきだ」というレッテルを貼ってしまっていたのですね。レッテルを持たない純粋な心を求めているはずだったのに、いつのまにかレッテルだらけになってしまっていました!

自分にも、他の人にも、ヨーガにも、レッテルを貼らないようにしたいものだとつくづく思いました。

この青空のように澄んだ心でいれますように。


大阪・阿倍野 瞑想クラス入門編に参加して

5月より阿倍野のプレーマ ヨーガ サークルにて、3回シリーズの瞑想入門クラスが開講されました!(詳しくはこちら←

「瞑想は潜水に似ている」とよく言われるのは、講師のサーナンダさん。
潜水では呼吸を止めて水中に潜り、そうすると今まで見えていなかった世界が見えてきますが、 瞑想においても呼吸が静まり停止すると、心の奥深くに潜ることができ、心の奥に在る本当の自分に目覚めることができるとのこと……😵💡
今回のブログは、名古屋で子育てをしながらヨーガをされている末松さんが、この瞑想クラスに参加しての気付きや取り組んでいる実践について寄稿してくれました✏️


「潜りたい!」3年くらい前になるだろうか、あるクラスで先輩グルバイに「水面を泳いでいないで潜ってみれば」と言われた時からずっーとわたしの中にあった思いだ。自分なりに潜り方を探ろうといくつかの方法を試したけれど、うまくいかずすぐにあきらめてそのまま月日が過ぎてしまっていた。
そして今回の瞑想クラス入門のことを知り、奥の方にずっと蓋をしていたこの願望がムクムクと騒ぎだした。このクラスに参加することでこの気持ちへの解決法を見つけることができるかも。いや、何としても手がかりくらいはどうにかしたい!と開催される前から心待ちにしていた。
この入門編は1回目:瞑想を体験する、2回目:心を静める、3回目:心の問題を解決する、3回シリーズで、今までなんとなく自己流で瞑想に取り組んでいたわたしにとっては、本当に至れり尽くせりという感じでうれしい内容だった。
1回目は、瞑想の目的や状態などの基礎をサーナンダさんによってわかりやすく教えてもらい、ファーストステップとして“5分でもいいので、毎日瞑想に座って身体を作っていく”という宿題が出た。今までどんなに忙しくても絶対に1日1ポーズ以上はすると決めてアーサナは行なってきたけれど、瞑想は時間に余裕がある時にしか取り組んでいなかったので、正直言うとこの宿題は毎日実践できるのか確信がもてなかった。ただ、一度眠らせていた気持ちの蓋を開けたことによって、この機会だけは逃してはいけないという切羽詰まった気持ちに動かされ、なんとか毎日行なうことができた。
約1ヵ月実践してみての気付きは、宿題の目標だった“座り慣れる”という感覚を感じることができたことと、心が静かになり集中に入るスピードが1ヵ月前より確実に早くなったと思えたことだった。だけど、まだ“潜る”にはほど遠いし、“瞑想”でもないことはわかっている。
入門編2回目は、呼吸と心の関係のレクチャーを受けた後、呼吸法の実習で牛のポーズやプラーナヤーマを行ない、カーリー・ヤントラを用いての集中の練習だった。
カーリー・ヤントラでの瞑想は、最初は目を開いてヤントラの形を思い描けるようになるまで凝視し、目を閉じて姿形を思い浮かべて集中する方法だったが、ヤントラを用いての初めての瞑想だったためかヤントラの形ばかりが気になってしまい、最初は集中ができなかった。それでも続けていると、ヤントラが浮かんできてその向こうに師のヨギさんを感じることができた。さらにもっとそのヨギさんに集中していきたいと思った時に、残念ながら終了の時間がきてしまった。
2回目の宿題は、“毎日瞑想に座り慣れていき、20分以上を目標にしてみる”というものである。次回のクラスは10/30で3カ月ほどあるが、わたしはこの宿題を実践することに加え、今回のクラスでのカーリー・ヤントラを用いた瞑想練習のような深い集中の練習を続けて行なっていきたいと思う。まだぼんやりだが、あの時いままでとは違う何かを感じた気がするからだ。
“身体と呼吸と心が調えば、心は自ずと対象に同化するように集中されていく”と今回のクラスで教わった。実践あるのみ。わたしも早くそれを体感したい!

最後に余談ですが、今回の瞑想シリーズ3回目の開催日は、当初子供の学校行事の合唱祭のため参加できないはずでした。学校行事なので、しょうがないとは思いながらも素直に納得することができず、「わたしは参加できないのでしょうか? なんとか参加したいです!」とヨギさんにずっ~と祈っていました。そして1カ月が過ぎた頃、学校からこの日にあったはずの行事が11月に延期されたとのお知らせをもらったのです。わたしの経験上、学校の行事は年間で決まっており、予定が変更になることは普通なく、しかも年間予定行事の中で10/30に行なわれるこの日の行事だけが変更されたのです。とても不思議なことでした。きっとヨギさんのしてくださったサプライズだと思うのです。ヨギさん、わたしに大切な機会を与えてくださり、本当にありがとうございました。

末松 恭子


十二因縁(十二縁起)

師と過ごした台湾での夜、私は原因、原因を探求していくブッダの十二因縁の瞑想の必要性を感じた。(前回のブログ「集」はこちら
では、「十二因縁(十二縁起)」とは一体どういうものなのか?
それは、老いや死をはじめとする一切の苦しみが起こる原因のプロセスを、根本原因である無知にまで遡っている。

無明…真実を知らず、永遠・絶対でないものを永遠・絶対だと見なす根源的な無知。
…自我意識や執着を生み出す元となる、無意識のうちにある潜在的傾向、サンスカーラ。
…自我と他者を区別し、外界を認識する意識。
名色…名前と形という、区別・差別を生み出す微妙な要素。
六処…視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚という5つの感覚機能と思いの働き。
…感覚や思いを通じた外界との接触。
…外界の対象を感じ取ること、感受。
…欲望の対象を渇望・渇愛すること。
…欲望の対象を取ろうと執着すること。
…カルマをもって輪廻する煩悩的存在。
…生まれること。
老死… 老いと死をはじめとする一切の苦しみ。

見慣れない仏教用語が並び、十二の意味を理解するだけでも難解に感じるが、この十二因縁を知的に理解している人は学者をはじめ、仏教者にも少なからずいるだろう。
ただ、どれだけの人が実際に十二因縁の瞑想を行ない、本当の意味を理解しているだろうか?
台湾での夜、師は「知的理解」と「体験的理解」の違いを次のようにおっしゃられた。

ゴーパーラ「十二因縁の公式を、心に当てはめながら見ていってもいいんですか」
ヨギ「それを単なる知的理解で終わらせてはいけない。自分の心を材料にして、自分の心はそれに対してどのような反応を示すか――自分の心がその十二因縁のリアルな体現者となったように順次、十二の原因を遡っていくというのかな」
ゴーパーラ「リアルな疑似体験というか、そういうように進めていく」
ヨギ「本当は疑似体験じゃない。自分の心を材料にするから、(強調されて)直接体験やで、これはほんまは。それを直接体験と思えるぐらい切迫した、心に切迫させていかないといけない。そうでないと知的理解という疑似体験に終わってしまう」
ゴーパーラ「それは言い聞かせのレベルとは全く違う」
ヨギ「言い聞かせじゃない。その原因をしっかり理解すること。単なる言い聞かせはいらない。(強調されて)しっかりと理解すること。それは心そのものが変わっていく。それが直接体験の効果というか結果というふうになっていくはず」

私は小さい頃からずっと執らわれている欲望があった。
台湾の夜から私は十二因縁について考えを巡らせていたのだが、瞑想中にその執らわれている欲望が湧き出てくることがあった。
するとその瞬間、名と形が形成され、そこに手が伸びてつかみにかかり、その対象を渇愛する心の動きが感じられた。
それは一瞬の出来事だった。
この十二因縁とは生死の輪廻という大きなスパンの構図だと理解していたが、一瞬の思いの中にも十二の要素すべてが詰まっているようにも感じられた。
私自身、今まで行なっていた識別瞑想では、欲望やその対象に対して、「それは永遠ではない、絶対ではない」というふうに真理をあてがっていた。
その効果として欲望への執着は薄らいでいたが、まだ完全に消えてはいなかった。
だが、この十二因縁の構図でもって欲望を分解していった時、何か咀嚼しやすい感覚があった。
それは、心の中で欲望の消化が促進されるような新たな実感であった。

そして台湾から帰国して約2週間後の4月7日、ブッダ御聖誕日の前日にサットサンガが開かれた。
私は実践した十二因縁の瞑想について師に確認した。
師は、「それは心が造り出す条件下の構造そのものを明らかにするという意味において、その十二個を辿っていくということは有意義」と言われた。
しかしながら師は、それよりも「もっと大事なことがある」と示されたのだった。
(続く)

ゴーパーラ


*老いや死のような一切の苦しみ(老死)は生まれたこと(生)に原因があり、生まれたことはカルマによって輪廻する煩悩的存在(有)に原因があり、その輪廻的存在はさまざまなものを取ろうと執着すること(取)に原因があり、執着は欲望の対象を渇望すること(愛)に原因があり、渇望は対象を感じ取ること(受)に原因があり、対象を感じ取ることは外部との接触(触)に原因があり、接触は視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・思いの六つの感覚機能があること(六処)を原因とし、六つの感覚機能は名前と形(名色)という微妙な想念があるために起こり、名前と形は自分と他者を分けることで外界を認識する意識(識)を原因としながら、名前・形とその外界意識は相互に依存して成り立っている。また自他を区別して外に向かうその意識はサンスカーラという無意識の潜在的傾向(行)を原因とし、潜在的傾向は永遠でないものを永遠と見、自己でないものを自己と見る無知(無明)に原因する。これら十二の因果をまとめると以下のようになる。(原因<結果、で示す)
無明<行<識><名色<六処<触<受<愛<取<有<生<老死