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カーリー・ヤントラに瞑想する!

今回発売されたNewTシャツとトートバッグにデザインされているカーリー・ヤントラは、瞑想に使用されるものでもあるのですが、シンプルなデザインを見て、本当に瞑想で集中しやすいと思いました。

それで、6月23日にあった松山での瞑想特別クラスでは、集中力を養っていくというテーマだったので、カーリー・ヤントラを用いて、それを凝視しながら実際に集中してみようと思いました。

ところが、人数が多いのでどうやろうかなあと思っていたところ、ヨギさんから、大きなカーリー・ヤントラを書いて前に貼ったらいいというアドヴァイスをいただき、早速松山のスタッフに依頼したところ、Tシャツのデザインを参考に、大きなカーリー・ヤントラを書いてくれました。見た瞬間、「大きいなあ〜!!!」と思いました。

当日は39名の方が参加されましたが、後ろから横からでもよく見えたようです。

今回の瞑想特別クラス3回目は、3月から三ヶ月空いたのですけれど、前回感想を寄稿してくださった若狭さんが(→前回のブログ)、続きを寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。ありがとうございました。           (サーナンダ)


毎日牛のポーズと呼吸法そして瞑想を5分でも10分でも座ろうと決めました。瞑想セミナー2回目の宿題です。

牛のポーズと呼吸法、詰まった鼻がピリッと通って呼吸が体の中を巡ります。心が静まって心地がいい!肩の力を抜いて背骨を真っ直ぐと言い聞かせます。
睡魔と戦いながら、なんとか3日坊主は乗り越えました。1週目2週目も大丈夫、雑念は浮かんできますが、捨てる捨てるとにかく捨てるを繰り返していると、少しずつですが集中が長くなります。順調だ!なんかいけそうな気がする!

ところが一ヶ月を過ぎた頃大きな変化に気づきます。
自分で努力をしている感じがしないのです。なにか大きな力が働いて私を動かしている。何かに包まれ導かれるように。気負いも緊張もなくなって、ただ毎日淡々と瞑想をするという不思議な変化です。
その大きな力に身を委ねて、気がつけば3ヶ月が過ぎていました。

「大きな力」あれはなんだったんだろう? 今はよく分からない。
でもきっと誰もの中にあるにちがいない!それは分かります。

三回目の瞑想セミナーのテーマは「集中」でした。

心は分散しているから弱い。集中すれば強くなるとサーナンダさんが教えてくれます。強くなりた~い!!!

参加者全員で大きなカーリー・ヤントラに集中します。
カーリー・ヤントラへの集中は、ただ見て、目を閉じて残像に集中します。ぼやけてきたら目を開けて見る。その繰り返しだけ。メガネをしてもよい、瞬きも気にしない。何の努力も要らな~い、超簡単~です。

二日目のアーサナクラスの瞑想の時、目を閉じたとたんカーリー・ヤントラが前にありました。どうして、なんで~と心の中で大騒ぎ。いやいや騒いでる場合じゃない集中!集中!
最後はカーリー・ヤントラと私が重なって、喜びが満ちていきました。

ヨギさんの恩寵ですね、ありがとうございます。
次の宿題はこれだと決めました!

若狭多美子

 


師 グルとは

人間何をするにしても一人で全て切り開いてきたという人はいないでしょう。産まれた瞬間から親に育てられ、就学して先生に教わり、働いて上司に指導され。

習い事も師と仰ぐ人を敬い、教えを授かる事で上達します。

ヨーガでもグルという師から、日々の修行法や生活における心構え、そしては最終的に悟りに至る道を教わります。

グルとはどんな存在なのでしょうか?また、グルと弟子の関係とはどういったものなのでしょうか?

私が大好きな聖者ラマナ・マハリシのグルについての、とても興味深い教えがありましたのでご紹介したいと思います。

「神・恩寵・グルはみな同義語です。すべてに遍在する神は愛する帰依者を哀れに思い、自らを帰依者の次元に相応させた姿で現れ真理を説くのです。そして教えと交流によって帰依者の心を浄めます。ところが帰依者は彼を人間だと思い、二つの身体の間に何らかの関係を結ぶことを期待します。あなたは自分を身体だと思っているため、グルもまた身体を通して何かをしてくれると思うのです。しかし神であり真我の化身であるグルは帰依者の内側に働きかけ、彼が道を間違っていることに気づかせ、内なる真我を実現するまで正しい道へと彼を導きます。グルは内面と外面の両方に存在しています。外面からは心が内面に向かうように後押しをし、内面からは心を真我に引き込み静かになるように助けます。」

いかがでしょうか?思っていたグルのイメージを遙かに飛び越えていませんか?

私がヨギさんとお目にかかれた経緯を思い起こしても、もはやたまたま縁あって京都にいらした先生と生徒の関係などではなく、もっともっと深遠なそれこそ恩寵としか言いあらわせない絆、巡り合わせを感じてしまいます。

なぜ私はグルと出会ったのだろう?

私は幸せになりたかった。時間やお金、他者との関係で変化するような幸せでなく、決してなくならない永遠の自由と安住をもとめていた。はたしてそんなものがあるのか?と思いながら。これは辛かった当時の状況から逃げたかったという反射の対応であると同時に、私という存在の本質からあふれる、原点への回帰願望だったのだと思います。

そして時期と準備が調ったタイミングで、私はヨギさんにお目にかかりました。

真理への願望が生まれたとき、グルが現れた。真理を実現するのにグルは不可欠だから。

以下太字は『悟り』の中での、シュリー・マハーヨーギーの御言葉です。

グルと弟子の関係は一般的な社会における教師と弟子の関係でもなければ、取引でもありません。ただ、真実の愛によってのみ成立するものです。(愛とは他者に自らを捧げるという行為でしたね!)

グルの直接的な意味は、闇を取り除く光、つまり無知を取り除く真実という意味です。すでに真実の光は、それぞれ皆の中に在ります。ただちょっと邪魔をしている影があるだけ。そのために外からの光が必要な時もあります。その闇が取り除かれるまでの間を弟子と呼びます。それが実現すればグルと弟子に違いはありません。不異(おなじ)・一(ひとつ)です。(私の真我実現に必要な無知が取り払われたなら、ヨギさんはもうグルではなくなるの?……)

まず弟子は、悟りを求めなければならない。そして真実の教え、正しい教えを、真実のグルから学ばなければならない。さらに真剣さと情熱をもって、学びと修行を実行しなければならない。これらは最も中心的な心と行動のあり方です。さらにもう少し繊細なことを言えば、素直であること。素直な心、謙虚。(これに関しては、常に常に念を入れながら日々精進しています!)

自分の体験を一つ一つ検証しながら、ラマナ・マハリシとシュリー・マハーヨーギーの御言葉を読み解くと、私達と同じ現代の日本に住まわれ、私達と同じものを食べ、同じ楽しみを喜ばれるヨギさんの存在と、八十数年前にインドで語られたラマナ・マハリシの教えで明かされるグルという存在の驚くべき一致に改めて平伏してしまいます。

どちらも、“知っている側”から語られた事実としての真理の手触りが感じられます。同時に、私達のグルという存在が、どれほど崇高な顕れであるかということに畏敬の念を禁じえません。

私が肉体という粗大な身体をまとって、この現象世界に生まれ落ちた末にどういう因果か真理を求めた。そうしたら、神は自らを人間の形に顕してグルとして目の前に現れた。行く先々で愛という無償の働きで私に教えを授け導かれるグル。ともに歩む沢山の素晴らしい兄弟姉妹も授けてくださった。かたや真我という自らの本質に自分の力では気づけずに何度も何度も転生を繰り返す私。

これは冷静に考えるとそら恐ろしいことです。もしこのチャンス(今生)に、この期に及んで言い訳や、迷いを口にして進まなかったら、果たしてまた何生涯私は転がり続けるでしょうか?

神は一切取引をしません。神にはただ、愛し、近づくことだけを考えなさい。すべてを神に任せるのです。あなたの痛みも苦しみも、喜びも楽しみも、命も!できますか?神に接する時はそのような真剣さをもたなければいけません。(はい。師よ、もちろんです。とっくに覚悟は決めています。どうぞ受け取ってください。)

Caitanya


今夜、自転車を漕いでいると、柔らかく生温かい風が顔に触れて、神が、優しく撫でてくださったような気がして、『ギータ・ゴーヴィンダ』の中に書かれたクリシュナとラーダーの、一節を思い出しました。

(激しく燃え上がった情事の後、ラーダーの豊かな編み髪は乱れ、巻き毛が揺れ、両の頬から汗が落ちていた。ビンバの実のような下唇の輝きはあせ、水瓶のような乳房に輝いていた真珠の首飾りは、どこかへいってしまった。腰帯の美しさも、惨めなありさま。恥ずかしがるラーダーに、優しくクリシュナは口づけをする。からだもたいそう疲れ切ったラーダーは、歓喜しながらも恭しく、突然、とてもうれしそうに、つぎのことをゴーヴィンダ(クリシュナ)に言った。)

「ヤドゥナンダ様(ヤドゥを歓喜させるという意味のクリシュナの異名)。愛神カーマの祝祭の水瓶のようなこの乳房の上に、白檀でとても冷たいあなたの手で、麝香を使って、模様を描いてください。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「愛するひと。群れなす蜂をも恥じ入らせるような眼膏を輝かせてください。ラティの夫(愛神カーマ)の矢を放つ(わたしの)目に。あなたの下唇に口づけされて油煙の流れてしまった(わたしの)目に。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「きれいに着飾ったひと。耳飾りをつけてください。目という鹿がどんどん飛び跳ねるのを制する愛神カーマの輪縄にも似た(わたしの)両の耳に。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「巻き毛を整えてください。蓮の美しさをも凌ぐわたしの清らかな顔の上にいつまでもかかっている巻き毛を。群れなす黒蜂のように輝く巻き毛を。悦楽を生み出す巻き毛を。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「蓮のようなお顔のひと、麝香の精を混ぜた愛らしいティラカをつけてください。汗のひいた、月のようなこの額に。(月に)黒斑を置くように。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「尊敬を与えるひと。花をつけてください。愛戯のうちに解けてしまった、わたしの美しいつやつやした髪に。孔雀の尾をも驚かせる(わたしの髪は)、愛神の幟。そしてチャーマラ(蠅払い)。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「高潔な気質のひと。宝石の腰帯と衣と装身具をつけてください。なまめかしく、きりりとしまって美しいわたしのお尻に。シャンバラの殺戮者(愛神カーマ)という象の(住む)洞穴をもつお尻に。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

この高貴な詩の書かれた意味について、自分がどれほど理解できているのか、分かりません。でも、愛おしい人に、触れられたいと願うラーダーを思い、それに応えてくださるクリシュナを思う。詩から溢れ出る熱が、苦しいほど私のハートに伝わって、どうしようもなく甘美な夜です。

Amara

 


娘との対話から

先月の話です。家で家事をしていると、友だちの家に行くと言って出かけた娘(9歳)が、すぐに帰ってきました。どうも様子がおかしかったので「どうしたの?」と尋ねると、しばらく沈黙が続いたあと、静かに話し出しました。

娘「○○ちゃんと○○ちゃん(よく遊びに来る友だち)が遊ぼうって言ってきたから家に行ったんやけど、やっぱりやめとくって言ってきた。家でマンガ読んどくわ」

私「なんで?せっかく誘ってくれたのに?一緒に遊んだ方が楽しいんちゃうの?」

娘「(涙ぐみ)だって、いつも2人で遊んで・・・・・・私ひとりぼっちになるんやもん(堰を切ったように泣き出す)」

一人っ子だからか、自分が注目されたいという思いがあることを時々感じていた私は「それは寂しい思いをするな」と気持ちに寄り添いつつ、彼女にどう声をかけたらいいのか分からなくなって、ヨギさんに集中し、直観を待ちました。そして自分の経験を交えて話しました。

母「でも、自分のことを構って欲しい、って思ってばっかりいたら苦しいで。人生思い通りにならへんことの方が多いもん。お母さんも仕事場で働いてて、何人かの人たちが仲良くしてたら寂しいな、って感じることあるよ。でも、みんなが楽しそうだったらいいな、って思うようにしたら自分も楽しくなってくる、そういう魔法(本当は真実ですが・・・)をヨギさんが教えてくれてん。そう思うようにしたら、いつの間にか寂しい思い消えるねん」

それでも泣き続ける彼女に、ストレートな言葉が出てきました。

「自分のことを見て欲しいっていう気持ちは、諦めなさい」

まだ幼い年頃の娘にはきつかったかもしれません。でもその言葉を受けて彼女は、ハッとした顔をして、やがて何か吹っ切れたような、爽やかな表情に変わりました。そのとき、たしかなヨギさんの気配を感じました。

娘は日に日に成長しています。私の元から離れていくのもそんなに先の話ではないかもしれません。母親という役割を通して、今でしか味わえない神を、味わっていたいと思いました。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

その日の夕方、心配して例の友だち2人が我が家にやってきました。

「ほら、あんたのこと大切に思ってるやん。自分、自分ってなってたら、本当のことが見えなくなってしまうよ」と声をかけると、娘は気恥ずかしそうに笑いました。そして言いました「お母さん、こないだお父さんと喧嘩してたやんな。あれは自分のことばっかり考えてたん?」

・・・・・・ああ・・・・・・鋭い。私が話すことよりも、姿そのままを見ている・・・・・・(遠い目)。

「あれはお母さん自分のことを考えてた。あかんな、反省です」

しどろもどろになって答えつつ、ヨギさんの教えを語るのではなく、彼女の前で真摯に生きることがいかに大切なのかを感じました。

Amara


信仰を持つということ。

突然ですが、貴方は信仰をお持ちですか?

熱心に神社に参るとか、毎日仏壇に手を合わせるとか、意識せずとも信仰が日常に溶け込んでいる人もおられます。また、お願いごとや困りごとの時だけは、心の底から神様仏様を信じてすがるというのもありますよね。憧れる人、尊敬する人など現存する人間に対して信仰を持つ人も、亡くなった近しい人を心に想う人もいます。

私も信仰を持っています。ですが信仰の具体的な対象というと実はこれが説明しづらいのです。

名前を呼ぶと何故だか心がギューっとなるクリシュナ。絵で見たことしかない異教の神でしたが、キルタンで御名を歌ううちに、理屈ではない“何か”に触れて、バクティ的な信仰がいつの間にか沸いてくるようになりました。それは自発的では無い作用で、突然圧倒されるような、思いも寄らずに感情が崩壊するような。それはそれでとても幸せなものです。でも、私の場合、姿形を見るだけで愛しいとか、驚くような物語を読むだけでウットリするとか、そう言う想いとは少し違うんです。何千年も昔の伝説はもはや神話の世界で、御伽噺の様です。

それよりも「晩年は何々という病を患いながらも、生涯を通して何処何処で人々に教えを示されていました。」という様なリアルで史実のはっきりした方に心を惹かれます。写真が残っているとなお良くて、そうなると自ずと近代以降の聖者・覚者により親しみを感じてしまいます。彼等を経由してクリシュナやシヴァ、カーリーに想いを巡らせる感じでしょうか。

それはきっと私の“心”が、根本的には目に見えるものしか信じていないからで、(本当は信じたいんですよ!)もし世間の常識がまるで通用しないような世界をこの目で見たなら、あるいは心底認めたなら、私も神話や魔法の世界に没入し、そこで神と一つになることだけを、焦がれるようになるのでしょう。でも、そうなるにはまだ私の“心”は理屈っぽ過ぎるし、足りない頭にもかかわらず、余計な知識が邪魔をしてしまいます。裏を返せば科学の常識がブッ飛ぶような体験を、人知れず味わいたいという思いが強くあるのかも知れません。

しかし聖者・覚者はその世界を知っているのです。

私の信仰は、愛することや憧れよりも「この人には敵わない!」と降伏の末に服従せざるを得ない、圧倒的な能力や徳、そして慈悲を持っている方に対する態度かもしれません。平伏し従い、教えを請う内に、尊敬と愛が生まれる。私の大切な師に、私自身を明け渡そうと決めたのもまさにこの通りです。

信仰の態度は人それぞれですが、全ての信仰の動機は、その御方が見たものを自分も見たい、知りたい、感じたい、だと思います。そして正しいグルはそれを認め、忍耐強く導かれます。

人間にとって信仰は大きな宝物だと思います。ただし、それを得るにはそれなりの手順が必要なようです。最後に私の大好きな師の教えをご紹介させて下さい。

「もし貴方が宝物を受け取りたいと思うなら、今手に持っているガラクタを手放しなさい。」

Caitanya


心に効くアーサナ

最近、心について考える日が続いています。

でも「心はこう考えている、感じている」と自分と心を切り離して考えることは、今までありませんでした。たいてい「自分がこんな風に考えた、感じた」と思っていました。識別という習慣が出来てからは、心を俯瞰して見れるようになってきたと感じます。

ヨーガで心の仕組みを教わって、理解して、納得して、識別して。「よし、もう大丈夫!」と思っていても、日常で予期せぬ事態に直面したら、ボロボロと出るは出るは自分の心の癖や傾向、そしてその原因の執着。ぜんぜん大丈夫じゃなかった…

調子良く前向きにみえた心は、自らを欺いて見えない形で苦しみの元になる色々なものを掴んでいたのです。あるいは過去の潜在印象(サンスカーラ)が消えていなかった。

本当に心は手強いです。

過去の自分を認められず、変わろうと決心させたのも心なら、その同じ心が頑張ってる自分を欺いて、知らぬ間に新たな執着の根を張っていました。それに気付かないということは、識別が甘かった証拠です。頑張ったという思い上がりが、頑張り足りてなかったという結果で現れたのです。

こうなるともう、自問自答することすら信用ならない。大抵そういう時は、過去か未来のどちらかをあれやこれや考えすぎているからで、これじゃどこまで行ってもキリがないなと思いました。季節によって、日によって、時間によってもコロコロ変わる心の状態。コイツを黙らせるのは簡単じゃありません。

バクティも識別も、それだけでは足りないのなら、今一度サーダナ全般を見直そう。考え尽くして出た答えは、アーサナでした。もう一度、初めてクラスに来た時の気持ちに返ってヤマ・ニヤマ、アーサナというラージャヨーガの基本に戻ろう。そう決めて、毎日のアーサナを大切に行うようにしています。みっちり、きっちり、何も考えられなくなるまでしっかりアーサナをやる。

私のアーサナは、しなやかで軽やかで美しいものではなく、カチコチの身体がギシギシ悲鳴をあげる様な、タパス(熱)そのものです。でもそれが私には一番効きます。調子に乗ってたり、ぐずぐず怠けている心を捕まえて焼きを入れる(タパス)と心は暫く黙り(マウナ)ます。

アーサナと瞑想で二時間。その余韻が続いて二時間。睡眠が七時間として合計十一時間。あとは残りの十三時間を、心が喋らないようにすればいいわけです。暇を見つけては聖典を読んで(スヴァーディヤーヤ)、好きな神の御名を唱えて想い続ける(イーシュヴァラ・プラニダーナ)。でも、日常はそればっかりはできませんよね。仕事中も、家にいる時も目の前の義務に集中。ただ集中!結果も感想も受け取らない。こうすると、心の思いに振り回されることなく、今という瞬間を生きることができるはずです。

巷ではアーサナは美容やダイエットに効果あると言われています。でも実のところ心に一番効きます!!

Caitanya


この身を捧げる

すべてのサンスカーラを取り除くには、命を引き換える献身がいる」と以前ヨギさんがおっしゃったことがあります。献身とは何か調べてみると(献身とは、身を捧げること。自分の利益をかえりみず尽くすこと)と書かれていました。

何年か前、人を不快にさせることを口にしてしまう人がいて、私の指を見て「爪が半分割れてるね(生まれつき親指の爪が半分しか生えてこないのです)。気持ち悪い」と言いました。人の気持ちを考えず自由奔放に言葉を放つその態度に、激しい怒りが湧いてしばらく嫌な思いが続きました。

その日寝る前にそのことを考えていて、何故あの人はああいう言葉を発したのだろう?言葉の奥に秘められた思いは一体何だったんだろう?と考えました。その人自身の状況を考えてみると、他の人とあまり関わることがない孤独な状況であること、コミュニケーションを取ろうとしたが、素直な性格なためにそのような言葉が出たのだと分かってきました。

自分が不快だったのは、小学生の時クラスの男子に同じようなことを言われてからかわれ、悲しい印象をもったままそのフィルターを通して物事を見ていたからだということに気が付きました。真理をあてがってみると、この肉体は自分ではなくて、神の道具である、本当の私とは一切関係ない。だから何を言われようとも私が傷付く必要はない、そう思えました。

次の日からその人と話す機会があると、この身すべてを差し出す覚悟で向かい合いました。その人の語る思いに集中していくよう毎回努めていると、いつの間にかその人の気持ちがよく理解できるようになり、自然に本音を言ってもらえるような、そんな関係が築けるようになっていきました。

それから何年か経ち、爪のことを言った人がまた同じこと(爪のこと)を言いました。けれどそこには以前感じた嫌悪感はありませんでした。その人の性格が分かってきたことに加え、肉体をただの物質と見なしている自分がいました。「爪は生まれつきやけど、あんまりない形で格好いいやろう?」と冗談を言う余裕さえありました。

後で振り返って、こういう機会がなかったら私は自らの肉体を物質として扱っただろうか?と考えました。心が反応して逃げ出したくなるときこそ、サンスカーラを取り除くチャンス。どこにいても喜びだけを感じる自分になるまで、取り組んでいこうと思います。

 

 


京都・大阪 瞑想1日ワークショップのご案内!

皆さま、こんにちは🌸
4月に入って新学期や新生活をスタートされた方も多いと思いますが、いかがお過ごしでしょうか?
京都の瞑想専科は5月10日から第4期が始まります!
詳しくはこちら⇒http://www.mahayogi.org/classes/meditation_kyoto

瞑想専科が始まってはや1年半が経ちますが、第1期から参加している野口美香さんが瞑想専科に通いながら日常の中で瞑想を続けてきた感想を寄せてくれました!
瞑想を実践している方はもちろん、新しいことを始めたり、慣れない環境で苦戦している方にも、きっと役立つ内容であると思います😁


瞑想専科では、心の機能や性質について、心がまるで一つの臓器でもあるかのように客観的に、また丁寧に教えてくださいます。
私は日常生活の中で嫌な思いをした事柄に再び関わる時、瞬時に「嫌だ」と反応してしまいます。瞑想の成果は日常に現れると教わってきたので、そういう反応が分かると瞑想ができていない証拠として、自分に落胆することが増えていきました。しかしある頃から落胆した後、「そこで落ち込むのは違う」と神の声?が聞こえるような気がして、川の流れが変わるように思考回路が変わりはじめました。
瞑想専科で、こんなお話を聞きました。

①なぜできないかを考える
②自分にはまだできないことを自覚する
③どうすればできるようになるかを考える
④できるようになるまで淡々と実行していく

自分に照らし合わせていくと、悩む時は心のどこかで「自分はできる」とうぬぼれているからで、「悩むのは優劣意識があるから」と教わったその通りだと思えました。できない自分を認めたくないという思いが邪魔をして、なぜできないかの原因を見極められずシリアスになっているだけでした。そうではなく今、できていない現実の自分を受け入れて、どうすればできるようになるのか?努力で解決できそうなら、それをひたすら行なっていくだけと学びました。

瞑想専科で学びながら生活するうちに、瞑想も日常も別に上手くいかなくてもいいと思え、もしずっと上手くいかないとしても、「最後までやり通したい、諦めずにこれを淡々としていく」と思うようになり、それが自分のヨーガへの信仰であり、信念だと思いました。そう思えたことで、瞑想で何かを得ることが目的ではなくなり、焦りの気持ちも消え、ただ毎日行なおうという祈りのような気持ちに変わりつつあります。そして、あれこれ考える心の奥にあるそれらを見ている意識、そちらが本当の自分というところに、自然に導かれているように感じています。
どうしようもない時こそ、押し黙って自分に向き合い、繰り返し瞑想を試みる――これからも瞑想の実践を続けていきたいと思います。

                                        野口美香


京都の瞑想専科は4月21日(土)、また大阪の瞑想専科は4月22日(日)にワークショップが行なわれます。
瞑想にご関心がある方、深めたい方はぜひご参加ください😇

<京都>
● 日時:2018年4月21日(土)14:00〜15:30
● 会場:京都駅近 キャンパスプラザ京都 2階和室(京都市下京区西洞院通塩小路下る東塩小路町939)
● 参加費:1回2,160円
● 内容:瞑想の実習、講座、Q&A
« 詳しくはこちら

<大阪>
● 4/22(日)14:00〜15:30
*次回ワークショップ:6/7(木)19:30〜21:00
● 会場:中之島 中央公会堂(大阪市北区中之島1-1-27)
● 参加費:2,160円
● 内容:座法(座る形)の練習、講座、瞑想体験
« 詳しくはこちら

ゴーパーラ


サナータナ・ダルマを生きる

 先日、京都アスニーで仏陀の聖劇の上映会がありました。キサゴータミーという女性が出てくるのですが、彼女は自分の子どもの死が受け入れられず、悲しみのあまりその亡骸を抱き狂ったように彷徨います。そんな彼女に仏陀は「誰も死人を出したことがない家に行き、芥子の実を分けてもらいなさい」と言われます。彼女は家々をまわり、誰もが死というものを必ず経験することを、身をもって理解し、平安を得て仏陀の中で生きる決意をするのでした。

 キサゴータミーの心の変容をスクリーンで見ながら、私も早くに父親を亡くし、生きるとは何かということについて、ずっと悩み苦しんできたことを思い出しました。ヨギさんと出会った日、世の中の息苦しさから一気に解放され、水を得た魚のように、本当に嬉しい気持ちでした。この世界にこんな方が存在するなんて!信じられない!という喜びと興奮が入り交じり、この感情をどう捉えていいかよく分からなかったことを思い出します。思えばこの時初めて、ヨギさんから発せられたサナータナ・ダルマ(永遠の真理)に魂が触れた瞬間だったのでしょう。

 あれから十数年経ち、ヨギさんのご存在から、そしてグルバイたちを通してヨギさんの教えを学び、少しずつ理解を育み、今、ヨーガの教えを下に仕事をさせて頂き、ヨーガの教えを下に子育てをし、どんな場所でもヨーガが私の指針となっている。ヨギさんによって、サナータナ・ダルマによって私は生かされている。私が、私のもの、と言えるものは何にもないかもしれないな、と思いました。

 キサゴータミーが心の変容を遂げ、「仏陀、あなたの中に私は生きます!」と高らかに宣言したように、私もヨギさんの中で生き、サナータナ・ダルマと一つになれるように命を輝かせていきたい、そう思っています。

 


瞑想特別クラス2回目 in 松山

春ですね〜桜の開花も全国で始まりました。春の祝祭まで後2週間ですね〜サーナンダです。
そして、現在師は台北を訪問されており、22日には1回目のサットサンガが開催されました。今日は2回目のサットサンガが予定されています。報告が楽しみですね!

さて、先週末に、松山瞑想特別クラスに行ってきました。今回のテーマは、身体と呼吸と心の関係でした。

瞑想は、じっと座っているだけで何かいいことが起こるのだろうと、簡単にできそうに思ってしまいますが、実際に座ってみると、雑念がとめどなく湧いてくるか、眠たくなるかのどちらかで、足も痛くなるし、ちっともいいことが起こらず、すぐに諦めてしまいがちです。

では、どう進めていけばいいのでしょうか?ヨーガではまず身体と呼吸を調えていきます。基礎編2回目の瞑想特別クラスでは、しっかりとした瞑想の土台を築くために、座法(アーサナ)の重要性を学びました。背骨を真っ直ぐにして正しく座れば、呼吸が調い、心が速やかに落ち着いてきます。日常の実践につながるように、今回は主要な座法と簡単な呼吸法の実習に時間を割きました。瞑想する際には両方の鼻が通っていることが大事なので、牛のポーズも皆で実習してみました。

2回目のクラスはどうでしたでしょうか。今回、松山ヨーガ・サークルで熱心にヨーガを実践されている若狭さんが、ご自身の瞑想の実践を記事にしてくださいましたので、ご紹介したいと思います。いつも瞑想特別クラスではスタッフとしてサポートしてくださっている若狭さん、3カ月後を楽しみにしています!


瞑想特別クラスに参加して

「自分には瞑想は無理なのではないか」と思っていた時期がありました。
心はとめどなく動き回り、集中もわずかの間だけ。
周りのグルバイ(ヨーガの仲間)がまぶしくて、自分を貶める言葉は次々に浮かびます。

5分でもいい!座る習慣をつけよう。今日出来なくてもいい、明日また行なおう。
お金の悩みの解決の仕方、理想の生き方とは何かなど、サーナンダさんは熱意を持って教えてくれます。

自分のやりやすい方法をさがしたい!
心は徐々に意欲的になっていきました。前向きになっていきました。
「苦しいのは自分が持っているからだけ。ただ手放せばいい!」と気がついた時、心がスーと軽くなりました。もう余分なものはいらない。捨てよう!自由になりたい!と心が叫びます。

入門編、実践編、特別編と続いて今年はもう一度基礎編。
一回目は瞑想のイロハを学ぶ!でした。
教えていただく言葉がスーツと体の中に染み込んでいきます。

識別の瞑想の間違いに気づきました。
それまでは、正しいか間違っているか、好きか嫌いか、やるべきか否かと行なっていました。
正しいのは「感情を見る。じーと見る。ただそれだけ」でした。
ただ見る、ただ見る、と言い聞かせながら行なってみました。
心を静めて待っていると答えが内側からふーっと浮かんできました!!そして問題は霧のように消えていきました!

この体験は自信になりました。やらなければいけないことだった瞑想がやりたいことに変わった瞬間でした。

次回は6月です。宿題が出ています。私は牛のポーズ、呼吸法、瞑想を行なおうと決めています。
まだ3日目ですが3ヶ月が経った頃自分がどう変わっているのか楽しみです。

2018.3.21 松山ヨーガサークル 若狭多美子