ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

美しい世界が見たい

家庭を持ち、子育てをし、仕事をしていると、職場関連、子供の学校習い事関連。親戚関連など、本当にいろんな人とお付き合いする機会があります。

人と接する時、心に留めている言葉があります。

「トゥルシダスは『善い人にはこの世は善で満ちている。しかし悪い人にはこの世は悪で満ちている!』と言っている。この世は善くも悪くもない。私が善と呼ぶものをあなたは悪と呼ぶかも知れないし、その逆もあるだろう。何処に標準があるのか。標準は、人生に対するわれわれ自身の態度の中にある。各自がかれ自身の標準を持っているのだ。しかも経験と洞察力とが深まれば標準も変わって行く。残念なのは、われわれがまだ悪を認める、ということだ。われわれ自身が完全に善になったら、全世界が善として現れるであろう。われわれは自分の心の投影を見ているにすぎないのだ。常に一切万物の中に主を見よ。そうすればあなたは悪を見ないだろう。疑い深い心はあらゆる処に悪を見る、信頼の心は善だけを見る』

「だが、誰が理解しようとするか。誰もかれもが自分のエゴの中に閉じこもっている。その牢獄の中から、われわれは世界を判定する。治療法は、すべてのものの中に主を見ることである。」(スワミ・トゥリヤーナンダ)

人間関係でこじれるときは、よくよく考えると、結局どんなときも、自分の中に疑いの目があったことが分かります。神だけを見て謙ることが出来たとき、そこには美しい世界が広がります。

疲れていたり、自分を調えられていない時は、濁った目で人を判断しがち。

アーサナ・瞑想、真理の学び。地道なのだけれども、やっぱりこれらのクリアヨーガを毎日行うことが、素直に飛び込んでいける秘訣なのだと思います。

いつでも、どんなときでも、神だけしか見えない人に、なりたい。

京都のとある公園、桜の花が少し咲き始めていました。


この春、瞑想を始めよう! in 松山

先週末2月17日に松山ヨーガ・サークルにて2018年瞑想特別クラス7回シリーズが始まりました。少し暖かく春の気配を感じる気候になり、松山ヨーガ・サークルの前では、目を引く鮮やかなピンク色のチラシを覗き込むように読んでいる人を見かけました。

昨年まで3年間瞑想特別クラスを行なってきましたが、今年からは基礎編「瞑想を始めよう!」に戻り、一から瞑想を学んでいきます。

初回「瞑想のイロハを学ぶ!」では、瞑想していくとどうなるのか、瞑想とは何なのか、どうやって進めていけばいいのかなど、今年一年の土台となることを学び、実習しました。初めて参加する方や、もう一度基礎から学びたいという方など、40名の方が参加されました。

*写真:ヨーガや瞑想の教えをわかりやすく学び、Q&Aで理解を深めていっています。瞑想していくと・・・・

  • 心がとても静かになり、いろんな執われから解放されていきます。
  • 心は澄み渡り、日常が変わります。
  • 不思議なことに、喜びに満たされていきます。
  • 集中力がつき、いろんな物事に動じなくなっていきます。

*写真:瞑想の実習では、静かな気が会場を満たします。

今回、昨年まで3年間熱心に学んで来られた山口さんが、ご自身の実践と経験を寄稿してくださいました。毎日の実践の様子が伺え、とても参考になる内容だと思いましたので、ご紹介させていただきたいと思います。


松山 瞑想特別クラスへの参加は、今年で4年目になります。

3年前、家族や世間への義務を果たしながらヨーガに取り組んでいくことは、困難なことだと感じていたのですが、今回、基礎編の第1回目を受けて、瞑想をしていくとどうなる?の教えに「たしかに!そうなるよなぁ。」と思いました。そうなんです。この3年間「実践していきたい」の感想しかなかったのに⁉︎です。

瞑想特別クラスでは、この3年間、心の仕組み、瞑想の目的や方法、ヨーガの教えを聞き、自らの理想の生き方、そのためにどうすることが必要か考える機会とそれを実践していく勇気や励ましを直接的な言葉ではないのですが頂いてきました。

ヨーガを初めてから瞑想の対象は、「神」と決めています。でも、毎日座ることはできなかったし、時間も短いし、神への瞑想というよりは、心のおしゃべりを聞いて終わるばかりでした。それが変わるきっかけになったのは、私にとっての理想の生き方が明確になって、神への想いを強くしていきたいと神の御名を唱え、神を讃え歌うと決めて、昨年の5月から毎日、キールタン を歌ったことです。場所に応じて、声を出したり、声は出さないで、心の中で歌ったりしています。

最初は、意識的に、心がおしゃべりをはじめたら歌うように癖をつけることからしました。でも、しばらくすると、意識的にしなくても気がついたら歌うようになっていました。最近では、仕事中でも、することがない時は、神の御名と神への想いが身体に流れて、嬉しくてニヤニヤしている自分に驚くことがあります。

日常の中で神を想う時間が増えると、アーサナや瞑想で心がおしゃべりをすることがなく、心の静けさの中で行うことが少しずつ増えてきました。また、アーサナや瞑想を行うことが神を想う時間を増やしてくれる、相乗効果があると感じています。

まだはじまったばかりの実践ですが、この1年、瞑想特別クラスを通してさらに、バクティ・ヨーガを深めていきたいです。

山口正美  *写真は、御聖誕祭でキールタンを奉納する山口さんです。山口さんは松山ヨーガ・サークルでキールタンの会をサブリーダーとして運営されています。


神に委ねる

ここ最近のこと、ヨーガの先輩が我が家に寄ってくださり、「今日久しぶりにスーパーへ買い物に行く」とおっしゃっていて、「なんて格好いいのだ!」と思いました。

ヨーガ行者たるもの、最低限度のもので満足して生きるもの。

最近の私は、仕事帰りにスーパーに寄ることが楽しく、気が付けば必要のない食材まで買い込むことが増えていて、何かの欲求を買い物で満たそうとしていたことに気が付きました。先輩の自然な知足の在り方に、改めて自分の身を正したいと思いました。

その日からスーパーに寄ることを一旦やめ、まずは冷蔵庫を見てからメニューを考えることにしました。

冷蔵庫の中を見渡すと、わずかな種類の野菜と油揚げ、少し古くなったおじゃこ、卵、牛乳くらいしかなかったのですが、今までさまらさの台所でいろんなお料理を教えて頂いていたおかげで、いろんなメニューがふわっと頭に浮かび、おじゃこのパスタ、カボチャのスープ、カレー、かき揚げ丼、炊き込みご飯、白菜のクリームパスタなどが出来、買い物に行かなくても、こんなにもいろんなものが作れることに驚きました。

今ある食材を使って、どうしたら美味しいものが出来るだろう?と考えるのはとても楽しく、メニューを思い付いたら作る工程がまた楽しい。仕事から疲れた〜と思って帰ってきても、いつの間にか作ることに夢中になって、そのことを忘れていました。子供も夫も嬉しそうに食べてくれました。

知足という言葉と共に、私の中で浮かんだのは「神にすべてを委ねる」という教えです。今与えられている環境や状況に感謝し、その場を精一杯生きること。食材もそれと同じ、今与えて頂いているものに感謝して、その命を工夫し、生かし切ることは、具体的な実践なのだと思いました。

今夜は寒かったので、酒粕のリゾットにしましたご馳走様でした〜

 

 


静かなヨーガの生活

ヨーガを続ける上で毎日の実践は不可欠なものです。
欠かさずアーサナをすることだけでなく、日々の過ごし方がヨーガかどうかが大事だなと思います。

共にヨーガを学ぶ仲間をグルバイ(霊的兄妹)といいます。彼等の中には共同で生活している人達も少なくなく、お家にお邪魔する機会もあるのですが、いつも感心するのは極めて無駄がない清らかな暮らしぶりです。
衣食住すべてに知足という教えが貫かれていて、掃除の行き届いたサッパリとした清潔感は住む人そのものを表しています。

彼等の日常は師の生活をそのままに倣って、ヨーガを中心に調えられています。常に沢山の訪問者が出入りし、いわゆるプライベートな時間があるのか?と心配してしまうほどですが、住人はいつも朗らかで明るい笑顔。そして謙虚です。

私もヨーガを始めて七年になりますが、改めて日々の生活が以前と随分変わったなぁと感じます。
グルバイの暮らしぶりに倣って、そして毎日のサーダナに従って、私自身の日常も気がつけばヨーガ中心の日々になっていました。

仕事をする、食事をする、掃除・洗濯をする。日常の暮らしも、作務として取り組めばまた楽し。
そして欠かさず行うクリヤヨーガ。そうすると二十四時間の配分は全てヨーガに沿って進んでいきます。テレビを見る時間も、遊びに行く時間も捻出しないと作れませんが、必要ではなくなりました。
聖典を読んだり、キールタンを聴きながら食後の二時間を過ごし、香を焚き、蝋燭の灯の中アーサナと瞑想をする。
日付が変わるころには、何ものにも変えがたい落ち着いた穏やかな心で眠りにつきます。

日常は、疲れる時、緊張する時、バタバタと落ち着かない時など様々ですが、一日の最後をこうやって静かな生活で過ごせる。強制されたり、指導されたらすぐに反発して投げ出してしまう私が、自ら手に入れた穏やかな習慣。
二十代の頃には想像すらしなかった暮らしを私は今求めています。
それはなんと幸福な毎日でしょう!

人それぞれ状況が違えど、工夫次第でヨーガの時間を増やす事は可能です。忙しい中でもそうなるように努力する事も、生活を調えるという事。これもヨーガの大事な実践だなと感じます。

チャイタニヤ


絹の糸

去年の御聖誕祭で頂いたプラサード(神のお下がり)は、ヨギさんの絹のお召しものから作られた、匂い袋でした。

その匂い袋を頂いた時、以前のサットサンガで「自分のハートと神の足首を絹糸で結びつけておく」というラーマクリシュナの教えについて、ヨギさんが答えられていたことを思い出し、それが書かれていたパラマハンサの記事を読み返していました。

『十九世紀においては、まだ化学繊維というものはありませんでした。天然の繊維としては綿の糸、麻の糸、絹糸、それから毛糸、このあたりが主要な糸で、これらによってさまざまな衣服や絨毯や繊維製品は作り出されていたのです。またロープとかそういうものも含めて。この中で最も強い糸は何かといえば、絹なのです。最も繊細で、最も上品で美しいにもかかわらず、その強度もまた絹が一番強い。(一部省略)最も尊い絹糸はいちばん細く繊細だけれども、その繊細な気持ちをもって、しっかりと結びつけておきなさい。そうすれば、絹糸は強いから切れることがない。けれども心が揺らぐようなことがあれば、それはすぐに伝わって神の足首を傷つけるようになるよという意味合いが含まれていると思う。』『機関誌パラマハンサNo,88号』より抜粋

大切な、大切な、ヨギさんの御足を傷つけてしまわないように。

どんな人に対しても、どんなものに対しても、神だけを見つめて繊細に、丁寧に、大切に思って行為したい、そう思いました。

まだまだ心は今までの習慣に引き込まれてしまうこともあるけれど、少しでも理想に近づけますように・・・・・・。時々ポケットの中に手を入れて、絹の感触を確かめています。

 


聖典を読む喜び 『ラーマクリシュナの福音』

先月のサットサンガで、『あるヨギの自叙伝』に感銘を受けたと嬉々として話しておられる方がいました。その方が言われ、印象に残ったのは「踊り出したくなるくらい」という言葉。その言葉を聞いて、私も以前聖典を読んでいた時に同じような気持ちになったことを思い出しました。私の求めているものが、ここにある!!!という強烈な喜びが溢れ、転げ回って喜んだり、大泣きしたり、色々したなーと思ったのです。そして、久しくそのような気持ちで聖典を読んでいないことに気がつき、彼女にあやかって、彼女が次に読むという『ラーマクリシュナの福音』という聖典を読みはじめました。

こちらがその聖典です。辞書のように厚く、大変に読み応えがあります。

この聖典は、シュリー・ラーマクリシュナ(1836年〜1886年)が晩年の5年間に弟子たち、信者たちに語った教えを、弟子の一人であるマヘンドラナート・グプタがテープレコーダーなどない時代に記憶を元に編集したものです。

聖典の中では、シュリー・ラーマクリシュナの部屋や信者の家で行われるサットサンガの質疑応答が綴られています。季節や風景の描写が美しく、質問者の背景や境遇も書かれているので、容易に当時の様子を感じることができます。読み進めると、まるでサットサンガに同席しているかのような気分になり、シュリー・ラーマクリシュナをとても身近に感じます。毎日読むことで、だんだんとその世界の中にいる時間が長くなります。シュリー・ラーマクリシュナはいつも、「神だけを求めなさい」と言われます。その重要性を繰り返し教えられるうちに、私の心はその思いだけで占められるようになりました。

ある日、『ラーマクリシュナの福音』を読んで瞑想に座ったとき、神を思い、こうして静かに座ることができる自分の人生がなんと恵まれ、幸福なことかという思いが押し寄せてきました。大変な幸福感に包まれた瞑想の中、突然一つの確信というか決意が浮かび上がりました「この人生で神を愛すること以外、望むものなど他にない!」雑多なものが一気に剥がれ落ち、とてもクリヤーな、そこには一つの確信だけがありました。

シュリー・ラーマクリシュナはいつも、「神を恋い焦がれて泣き叫んでいたら母なる神が放っておくはずがない」と言われます。もっともっと激しく、狂おしい気持ちで神に祈り、神だけを求めていけるようになりたい、まだ半分ほど残っている聖典を、大切に、喜びを持って味わいながら読み進めようと思います。


覚者の言葉

今日は成人の日ですね。

私には成人した子供がいます。
最近ようやく、少し落ち着いてきたというか手が離れてきて、親も子もお互い関係はおおむね良好ですが、それこそ子育ての時期は、私も子供も嵐のような時期を過ごしました。

幸せになって欲しい、こういう道を歩んで欲しい、自分が出来なかったこんなことをさせてあげたい、自分が嫌だったこんなことはさせたくない・・・
愛という名の下に親は何の疑いも無く、そうすることこそが親の勤めと信じて子供に様々なことを教えます。

でも、でも、でも・・・・
これが上手くいかない。
願いどおりにいかないばかりか、まるで反対の方向にドンドン進んでしまったり。
こんなに愛しているのに、こんなに親身になって全てを惜しまず捧げているのに。
貴方のためを思って、貴方が後悔しないように。

そんな時、先輩から師の御言葉を教えてもらいました。
『子供は授かりものではなくて、本当は預かりもの。誰からの?神からの。子供が小さいあいだは全ての愛情を注いで育てる。そして成人したら神様にお返しするんですよ。子供は神様からお預かりした大切な大切な存在です。決して親の所有物でも、コピーでも、夢を託すものでもない。』
この教えを聞いた人は皆、もっと早くにこの言葉を聞いていたらと一様に口をそろえて言われるそうです。
私も全くその通りに感じました。

師はサットサンガで親子関係について質問した時、私にこう言われました。
『親子といえどカルマは違います。今、貴方は親子でそれぞれの道を歩む時期に来ている。』
正にその時期、私は子育てというものと自分のヨーガへの熱望が交差したと感じ始めていたときでした。

このお話に限らず、師から教わったヨーガの教えは、ズドンと胸に刺さる様に一瞬で私の中に届きます。いや、御言葉に私が飲み込まれるという方が正しいです。

何処かで聞いた心理カウンセラーの話しだったり、スピリチュアル系の本で読んだ教えだったり、
同じニュアンスの言葉に出会っていたかも知れませんが、私にはそれまで何一つ届くものはありませんでした。

その人の人生を変えてしまうような言葉。

①腑に落ちて、
②全面的に受け入れ、
③以降、胸に大事に抱えて生きていく。

教えを請う人に対して、そういう導き方が出来るのは、覚者といわれる御方だけです。

チャイタニヤ


グルと聖音オーム

今年も残すところ、1日ですね。
皆様、今年はどのような1年でしたか?

2017年のブログ「ヨーガを生きる」は、ヨーガ・ヴィハーラでの瞑想会からスタートしました。
そして先日、今年最後の瞑想会が行なわれました。
そこで私はこの1年、師からいただいた「お言葉」に瞑想しました。

今年いただいた目標である「自己実現」から始まり、「徹底的に識別を行なうこと」、また「ゴーパーラ」という聖名をいただいたことなど、この1年の師のお言葉を振り返っていました。
それは瞑想というよりは、思い返すというような心を使った作業でした。
しかしながら、それを続けていると突然、心が止まりました。
そしてその瞬間、場面が一瞬にして切り替わったかのようにして、「オーム」の音が聞こえてきました。
ヨーガダンダさんが唱えているのかなと思い、目を開けました。
しかしそれは、ヨーガダンダさんが唱えていたのではなく、ヨーガダンダさんから鳴り響き、また暖房や壁、絨毯、すべてから鳴り響いていました。
その時私は、師のお言葉を思い返していたから、オームの音が聞こえてきたのだと直観しました。

「プラナヴァ、即ち聖音オームは、無上の存在(神)であり、始原のグルであるイーシュヴァラを表す。プラナヴァ・サーラはサットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの教えの精髄(サーラ)――ヨーガの福音である」

改めてこの1年を振り返ると、毎週の直伝クラスをはじめ、4月の祝祭の開催、5月の松山特別サットサンガ、6月の京都特別サットサンガ、夏のニューヨークご訪問、また2度にわたる台湾ご訪問にと、師であるヨギさんが本当に動いてくださった1年でした。
特に直伝クラスでは、師の一押しでアーサナが深まり、師が近くを通るだけで集中が強められ、まさに師の一挙手一投足、すべてが導きでした。
また松山、京都、ニューヨークのサットサンガでは、どんな状況でも、どんな質問にも全く動じずに、誠実かつ泰然と答えられている師のお姿に、絶対の安心と信頼を感じずにはいられませんでした。
そして何より、そこには必ず「祝福」がもたらされていました。

先月のサットサンガで私は「自己実現の目標まで、あと1カ月しかありません」と言うと、師は次のように答えられました。

「まだ1カ月もある」

今年もまだ1日残っています。
目標達成、諦めません!!!


最後になりましたが、今年もブログ「ヨーガを生きる」をご拝読いただき、まことにありがとうございました。
新年からは、新体制で臨みたいと思っております。
皆様、来年もどうぞよろしくお願い致します😇🙏

 

ゴーパーラ


バクティ・サンガム キールタン

天王寺にあるプレーマヨーガサークルで12月5日(火)にバクティ・サンガムが開催されます。http://www.mahayogi.org/classes/bhakti_sangam(詳しい場所と時間はこちらから)
熱心にヨーガを学ぶ尾崎さんが、バクティ・サンガムとキールタンの魅力について書かれた文章をご紹介いたします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

先週のクラスは「バクティ・サンガム」でした。年に4回しかない貴重なキールタンのクラスですので毎回とても楽しみにしているのですが、今回はいつもと違いました。というのも、私はここ最近ヨーガに真剣に取り組むことができなかったのです。

きっかけは些細なことで動揺し、ズルズルと心に振り回されている自分に気づいたことでした。思い通りにならないことに直面して苦しいばかりか、ヨーガを学んでいるが故に心を制御できないことに対して不甲斐なさも感じ、また苦しくなる。同じ苦しさを感じるのならヨーガを知らない方がマシだったのではないか?何のために苦しんでまでヨーガを学びたいと思うのか?また、家族と暮らす身でヨーガを学ぶことに窮屈さを感じていました。どちらも大切で優先させたいけれど、どうすればできるかわからない。自分にはできない。 かと言って、今さらヨーガの教えなしに生きていくなんて到底無理だとわかっている。それなら今まで学んだ少しのヨーガの教えと時々アーサナをやっていれば、それでいいんじゃないか?そんな事ばかり考えていました。 もう、心はドロドロとしたエゴでいっぱいでした。

そんな最悪の状態でしたが京都のヨーガの師のところへ行く機会があり、そのままの気持ちを聞いていただきました。師はいつもの穏やかな笑顔で「とにかく少しでいいから毎日アーサナと瞑想をすること。続ければ必ず変わるから」と仰られ、やはり続ける他に道はないのだと気持ちを新たにしましたが、どこか靄のかかったスッキリとしない気持ちのまま「バクティ・サンガム」を迎えました。

今回は「Nanda La La」というゴーパーラ(クリシュナの幼少期の名)を歌ったキールタンを教えていただきましたが、メロディが頭に入ってきません。神に向けて歌うなんてほど遠く、必死に歌詞カードを追っているうちに1回目のキールタンが終わってしまいました。続いて、ミラバイさんがゴパーラ・マーのお話をしてくださいました。それを聞いて私のハートは大きく揺さぶられました。

ゴーパーラ・マーは幼くして未亡人となり、貧しい生活をおくっていましたが、とても信仰心が篤く、朝は3時に起床し、夜遅くまでジャパ(神の御名を詠唱するマントラのようなもの)を唱えるなど、苦行を行っていました。また、ラーマクリシュナを純粋に愛し彼のもとへ足しげく通っていました。ある朝、いつものようにジャパを唱えていると左側にラーマクリシュナが座っておられるのに気づきます。そっとその腕に触れた途端、その姿は生後10か月ほどのゴーパーラのビジョンに変わりました。ゴーパーラはゴーパーラ・マーを「お母さん」と呼び、イタズラをしたり甘えたりしてきます。彼女はゴーパーラの世話に没頭し、ジャパや苦行をするどころではなくなってしまいました。

夜が明けるとゴーパーラのビジョンを抱いてラーマクリシュナのもとへ向かいました。ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナに昨日あったことを涙ながらに高揚しながら話します。その間ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったりするのを見て、ラーマクリシュナとゴーパーラは同じなのだと気づきます。その数日後、ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナから「もうジャパはしなくていい。おまえは一切を成就したのだ」と言われました。「だが、私の体が健康であるように修行をしてくれるか?」とも言われ、ゴーパーラ・マーは「これからは全てあなただけに捧げます」と誓い、一層修行に励みました。ゴーパーラのビジョンは2か月間ほど続き、その後も瞑想すればゴーパーラが彼女の前に現れたそうです。


ゴーパーラはバターが大好物。
こっそり食べていたのがお母さんに見つかってしまいました。

私はこのお話を聞いていたとき、ゴーパーラのビジョンがミラバイさんの周りをぴょんぴょん飛び跳ねて遊んでいる姿が見えた気がしました。そうしたら、ゴーパーラが自分の家族の姿と重なり涙が溢れてきました。そして、ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったり…という所で、私は大切な事を忘れているのに気づきました。

「人は皆、神なる存在である」ということです。もちろん家族も一人一人が神なる存在であり、家族に奉仕することは神に奉仕すること。私がヨーガか、家族か、と悩んでいたことは全くの愚問だったのです。私は、家族という無償の奉仕を捧げることができる環境を与えて頂いていたのに、それに気づかないどころか、ヨーガと真剣に向き合えない言い訳にしていました。2回、3回と「Nanda La La」を歌うたびに今まで否定的に考えていたことが、全て正反対であったこと、師からたくさん恩寵を受けていることに気づき涙が止まらなくまりました。

いつもはキールタンを歌うと、なんだかわからないけど喜びが溢れ涙が出てくるのですが、今回は歌いながら様々なことに気づき、終るころには、それまで感じていた靄はなくなりスッキリした気持ちになりました。本当に一生懸命、神に集中してキールタンを歌えば、それは識別瞑想をも上回ることがある。と、ミラバイさんが経験談を話してくださいましたが、ほんの少しそれを味わえたのかもしれません。

やっぱりキールタンって、いい ヨーガって、面白い


松山にシヴァ神到来!?

先週の9月16日(土)、9月17日(日)にサーナンダさんが瞑想特別クラスとサットサンガのため、松山ヨーガ・サークルに来てくださいました!ちょうどその週末に大型台風到来という情報がありましたが、有難いことに予定通り無事に開催することができました。

初日の瞑想特別クラスでは「布施について考える」というテーマでお金への執着がなくなったらどうなるか、ヨーギーを見倣う生き方を学びました。私自身が最も印象に残ったサーナンダさんの言葉は「ヨーガの極意は執らわれないことです」という力強い一言です。サーナンダさんは具体的に私たちが何に執らわれているか、どうすればいいのか?を丁寧に説いてくださいました。ヨーギーの生き方の何と清々しいことか!憧れずにいられなくなるような内容でした。

講座後の感想をご紹介します。
「お金に対しての教えでしたが、教えていただき自分のカルマ(因果応報の法則)を取り除けてないこと、欲望の生活を送っているのがたくさん見えました。聖者の生き方からお金に対する無執着を教えていただき、お布施の本来の意味を知り熱い思いが常に自分を奮い立たせることだとわかり魂を感じる会でした。実践していきます」
「生活、生き方を志の実現のために整え、行為していくということを教わり、布施ということに限らず、一瞬一瞬の言葉や思い、選択をどれだけこの意識に向けられているだろうと反省します。もっと情熱をもって真剣にもっと精一杯整え、行動していきたいです」
そして、長年ヨーガを実践している方は「最近、お金をあまり使わなくなったのでなるほどと思いました」という感想もありました。


台風にも関わらず30名以上の方が参加されました。

2日目のサットサンガの中で印象に残った話をご紹介します。

上司との関係に悩むMさんは、上司に認められたいという思いを棄てるにはどうすればいいのか質問しました。
サーナンダさん「輪廻転生と言いますが、昨日が前世、今日が今生、明日が来世と、毎日に例えられます。すると、今日考えたり悩んだりしていることは、だいたい昨日も同じことを考えたり悩んだりしていたと思いますし、たぶん明日も同じことで悩んでいるでしょう。それと同じように、今生で直面している問題や悩みですが、多分前世でも同じ問題で悩んでいたでしょうし、このまま行けば必ず来世でも同じことを繰り返すに違いない、と私は思うのです。そうすると、それは嫌だから今生で何とかしないといけない、それならば今を真剣によりよくしていくしかないと思うのです。

Mさんの場合も、このまま行けばまた来世でも同じようなことを繰り返してしまうでしょう。それは嫌でしょう!それが嫌なら、真剣にヨーガをやっていくしかないです。ヨーガをやっていくことで心が変容します。心が変容すれば必ずそれに接する人の反応が変わります。それによって状況も変わっていきます。具体的に言えば、余計なことを考えず、淡々と仕事に励むこと。そして、ヤマ(禁戒)、二ヤマ(勧戒)で行為を整え、アーサナによって呼吸を調え、聖典の学習や瞑想によって心を調えていけばいいです。そうすれば思いも状況も必ず変わっていきます!

生きていればいろんなことが起こります。子供の頃、嫌なことに出会った時、なぜ出会ったのか原因を一所懸命考えたことがありました。すると、一つの答えが出てきました。それは、生まれてきたからだと思ったのです!様々な原因があるかもしれないけれど、その時そこに自分がいたことにも確実に責任があるのですから!生まれてこなかったらそこにはいなかったし、嫌なことも起こらなかった。しかし、生まれてきた以上、どこでどんな目に遭ったとしても仕方がない、自分にも責任があると思うようになりました。ではなぜ生まれてきたのか?自分とは一体なんなのかが肝心なのです。小手先で逃れようとするのではなく、覚悟を決めて今の状況を受け入れて、そうしてやって行けば、いつか転機がやってくるかもしれません。

実際的には、職場の改善を働きかけたり、自分自身についても改善していけばいいと思います。自分にも改善すべきたくさんのことがあるかもしれない。言葉遣いとか行動とか。そうやって実際的に改善していけばよりよくなっていくと思います」

サーナンダさんの気迫のこもった言葉がその場にいた皆さんに、「人や状況のせいにせず、より良く改善していきたい」という情熱が注がれたかのようでした!
その証拠に今回の講座とサットサンガの後日、クラスに来られる方の話す言葉が別人のように変わっていっているのです。
「すごく落ち込んでいたけど、もう後戻りしたくない!身体のことをくよくよ思い悩むよりも、もっと純粋にヨーガだけに邁進していきたい!」
「人に依存していたことに気が付いたので依存をなくしていきたい」

台風が去った翌日、空気がとっても澄んでいて本当に清々しかったです。先日からこのブログでもシヴァ神のお話しが出ていますが、シヴァ神のルーツは暴風雨の神様。そしてシヴァ神は破壊と再生の神様です。サーナンダさんと一緒にシヴァ神が来てくださって私たちのこだわりを破壊し自由にしてくださったのかというくらいクラスに来られる皆さんの表情が変容したのです。しかし、まだまだこれからです。完全な自由に至るまで力強く前進し今までの癖や傾向を破壊し真理とひとつになって新しい命を生きることができますように。

サーナンダさん、シヴァ神とともに来てくださって本当にありがとうございました!
サーナンダさんのハートはヨギさんでいっぱいです。
最愛の師、ヨギさんに心からの感謝を込めて。

アーナンディー