ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

ヨーガの歩み方

ヨーガに縁を持ち、アーサナや瞑想を実修し、その道を歩んでいくとはどういうことなのかについて、少し記してみたいと思います。

といっても、人それぞれの道があるから、私が師から学び、今もって確かにその通りだと思う歩み方について記そうと思います。

ヨーガを始めて間もない頃、どのように歩んでいけばいいのかを師に問いました。師は次のように答えられました。(記憶を頼りに書き起したものなので、私なりに要約していると思います)

  1. この世界とは何か?それは自分の心が反映したものである。このことを正しく理解しなければならない。
  2. 次に、心を正しく理解していく。正しく理解していくということは、世界を放棄していくということである。すなわち、変化する世界や心に執着しなくなるということである。※しかし否定はせずに世界を肯定する。
  3. このとき、この世界に何の興味もなくなり、しかも未だ真理(神)を知らないことにより、心が虚ろな状態に陥ることがあるが、このような心さえも理解し放棄していく。
  4. この状態は苦行ともいえるかも知れないが、続けていくと、だんだんと神を身近に感じてくるようになる。
  5. そして、ギャーナ・ヨーガのように無形の神をアートマンとして瞑想する方法と、バクティの形ある神、例えば、クリシュナ、ラーマ、シヴァ、あるいは偉大な聖者、イエス・キリスト、ブッダなどを瞑想する方法により神を悟っていく。
  6. そして究極的には、神と世界は一つであることを悟るようにする。

この教えをお聞きしたときは、まだこの歩みがどういうものなのかよくわかりませんでした。もちろん知的には理解できるのですが、まだ茫洋とした感じでした。

ところが今は、本当にこの時師が言われた通りの歩みになるのだということを実感します。特に私は世界を否定し、1と2をすっ飛ばしていこうとする傾向があったのですが、この1と2が本当にとても大事だということに気付きました。

①世界は自分の心が反映したものだということ

②心を正しく理解していくということ

この深意を会得していくことが肝心なことだろうと思います。皆それぞれ性質が違いますから、会得の仕方はそれぞれの道があるのかもしれません。でもこの世界がどこまで行っても自分の心が反映したものだということがわかれば、心は静かになっていくことでしょう。反映する何ものもないくらい心が静まれば、世界と見ていたところに神なる存在が感じられていくのでしょう!

人それぞれの歩み方がありますから、ご参考に!

サーナンダ

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執着と無執着

..

執着とは、

心の中に理想像を作り上げ、

それと比較して異なるときに発生する心の作用です。

その理想像を作らないようにすることが、

無執着です。

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

この教えに触れると、いつも「なるほど〜」って唸ってしまいます!

確かに、何かにつけて心が動揺するときは、心の中に何らかの理想像があるからです。それがある限り執着が生じ、心は揺れ動きます。

例えば、恋人、友人、成績、評価、仕事、出世、結婚、子供、娯楽、おしゃれ、旅行、スイーツ、パソコン、iPhone・・・なんと様々な自分を幸福にするだろうと思った理想像をこれまで作り上げてきたことかと思いませんか!その度に心は揺れ動いてしまう…なぜなんでしょう!?

例えば、最初にiPhoneを購入しようと思った時は、素晴しい喜びを自分に与えてくれるiPhoneは輝きを放っていて、それを手に持つ自分を想像しただけで喜びに満たされましたが、入荷待ちで手に入れられない苦しみを味わいました。

そして手に入れたら、その素晴しい先進的な機能に喜びを感じ、それを持つことの優越感に浸りますが、それからの生活というものは日々iPhoneに縛られ、常にメールのチェックやアプリの活用を迫られることは、喜びでありながら、束縛の苦しみを味わいました。

そして新機種が発売された途端に、自分が所有している機種が古びて見え、魅力を失い、新しい機種が輝いて見えるのでした。その繰り返しでiPhone3GからiPhone6plusまで来たのでした。

一事が万事で、iPhoneを恋人、仕事、結婚、人間関係、おしゃれなどに置き換えれば、似たようなものです。本当に、絶えず心はさまざまな物事に理想像(期待)を作り上げて執着してしまっています。どうもその理想像は夢のように儚く、iPhoneのようにたった1年の理想にしか過ぎず、手に入れたと思ってもあっという間に手から離れていくので、尽きることのない渇望が起こってきます。それがなければどんなに楽なことかと思うのです。あーもう十分です!

ところが、たった一つだけやってきて過ぎ去らない夢があります。真実を悟りたいという夢です。早くその夢から醒めたいと思います。本当の私は真実そのものなのですから!

サーナンダ

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バガヴァッド・ギーター

バガヴァッド・ギーター ハヌマーン

明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年は申年ですね、ということでハヌマーンが描かれたカードを選んでみました。ハヌマーンはしっかりと前を見据え、ラーマから大切な教えを授かっているように見えます。

 

「わたしも きみも ここにいる すべての人々も
かつて存在しなかったことはなく
将来 存在しなくなることもない
始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ」

「永遠」も「存在」も言葉としては理解できますが、本当のところどういうことなんでしょう。やっぱりまだまだ感じることができません。自分が感じるのは変わりゆくものばかり。たとえば自分の肉体のこと、仕事や日常の諸々のこと、自分の考えや思い……。そういったころころ変わっていくものに存在を感じ、いつも永遠でないものに心が奪われているような気がします。いったいいつになったら私が私だと思っているものの化けの皮がはがれて永遠の存在だと気がつくことができるのでしょうか。この言葉を読みながらそう思わずにはいられませんでした。

ヨーガでは「神」や「真我」「真理」を永遠の存在だと教えます。まだ分からない、だけど分からないと思っている心を見ずに永遠である存在を思い続けることだけ、それだけをしていこうと思いました。教えを素直に聞く、信仰深く働き者ののハヌマーンのようにそうありたいと思いました。


New Year 2016

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

新しい年、2016年をむかえましたね〜!
大晦日は、年越し瞑想会をされた方もいると聞きましたが、本当に熱心ですね!

今年は、マハーヨーギー・アーシュラマ40周年になります。私たちの最愛の師が京都にアーシュラマを開かれてから40年になります!変わることなく、そして絶え間なく限りない愛と叡智をもって私たちを導いてくださる師に、改めて感謝を申し上げるとともに、この吉祥な年を迎えられた喜びに深く感謝いたします。
この40年という月日の間に、日本だけでなく世界中に師の存在と教えを拠り所としてヨーガに生きる真のヨーギー、ヨーギニーたちが増えてきて本当に嬉しく思います!

さて、今年はどういう年になるか、非常に楽しみです!マハーヨーギー・ヨーガ・ミッションでは今年も一層いろいろな活動を推進していきますので、このブログでもその様子をお届けできればと思っています。

そして今年は申年!ハヌマーンのように純粋な信仰をハートに抱き、弛まず邁進していきたいと思います!ハヌマーンがランカ島までひとっ飛びしたように、恐れることなく勇気をもって爆進するぞー!

最後に初日の出を写真と映像でお届けいたします。今年を占うかのような稀に見る美しい御来光でした!
2016初日の出

徳島県松原海岸での初日の出です。YouTube映像はこちらから→まさに御来光!(高画質にバージョンアップしました)

サーナンダ拝


聖人

お久しぶりです、皆さんお変わりありませんか?私は南相馬に来て3回目の冬を迎えています。私は変わりないですが、私の周りで変わったことと言えば、職場の定年がまた一年延びたことです。新しい人が入らないので、今いる人に長く働いてもらうしかないのです。去年も一年延びたので、今定年は62歳です。この地域の施設も同じような感じで、定年が65歳という所や70歳という所もあると聞きます。今の仕事を70歳までやるって…ちょっと想像できないですね。

ところで、タイトルに書いた聖人についてですが、カソリックの中でマザーテレサが聖人に認定されることになったそうですね。認定されるにはその人にまつわる2回の奇跡が必要だとか。もっとも、そういうことには本人が一番関心がないのかも知れませんけど。

そのマザーテレサですが、私は昔から彼女が好きで、ヨーガを始めてからずっと瞑想の対象にしていました。でもある時ふと疑問を持ったんです。紹介されたヨーガの聖者なら私の魂を導く確かな人だと信頼できるけれど、マザーはどうなのかと。確かに彼女は多くのシスターを導き、素晴らしい業績を残し宗教を越えて多くの人から讃えられている。私には一点の曇りもないくらい純粋に見える。でも、本当に純粋かどうかは人間の目ではなく、もっとずっと厳しい神の判断が必要だと言われます。瞑想の対象にするということは、私自身の霊性がそこに向かうということです。これはマザーテレサの問題ではなくて、私自身の魂の問題であり、私がこの世に生きる上で最大にしてたった一つの問題です。

そこで私は師であるヨギさんに聞きました。もう何年も前のことです。「私はマザーテレサを瞑想して大丈夫なんでしょうか」と。とても失礼な質問にも思えますが、私は0.01%の疑いも残したくはなかったんです。ヨギさんはすぐに「大丈夫です。彼女は本物です」と答えられました。そしてその後続けて理由を言われたのですが、それがちょっと意外に感じたのを覚えています。「なぜなら、彼女には矛盾がない」と。〝矛盾″だったか〝ぶれ″だったか〝揺るぎ″だったか忘れてしまいましたが、一本筋が通っている、変わらないそんなことだったように記憶しています。本物かどうかの基準っていうのは、そういう所にあるのかとその時思ったんですね。彼女はこれこれこういう境地にあるとか、私のような凡人には見ることも想像もできない霊的なことを言われると思ったからです。

考えてみれば、神は普遍で永遠ですから、神だけを見ていればすべて基準はそこにあり、その人は変わることもぶれることも矛盾が起こることもないんですよね。ヨギさんが今も昔もずっと同じであるように。本当にシンプルなこと。でもそれを実現している人は本当に稀。

そう言えば、もうすぐクリスマスですね。(なんだか取って付けたみたいですけど)マザーが最も愛したイエスキリストのご聖誕日だ…と私も思ってたんですが、実は12月25日は後からキリストを祝う日にと定められたもので、実際にお生まれになった日は新約聖書にも書かれていないんです。つまりいつなのか誰にも分からないと言うことです。それについて調べてみると、色々な根拠が書かれていました。「パレスチナでは12月は雨期でかなり寒く、聖母マリアの馬小屋での出産はかなり危険な行為となる。12月の誕生はありえません」ふんふん、なるほど。納得できる科学的な根拠ですね。でもイエスは奇跡の人。生まれる時からそんな奇跡を起こしていたのかも知れませんよ。

12月に毎年仙台で行われるイルミネーションイベント、「光のページェント」とっても綺麗です☆

12月に毎年仙台で行われるイルミネーションイベント、「光のページェント」とっても綺麗です☆

 ユクティー

 


生きるということ 2

「なぜミッションの仕事をするのですか?」

先日台湾のグルバイと話をしていた時、そう聞かれました。

どういった話の流れだったか、なぜそれが聞きたかったのかは思い出せないのですが、聞いている人の真剣なまなざしを覚えています。

「……なぜと言われても」

いくら考えても答えは見つかりませんでした。

「理由はないです。それだけがやりたいことだからです」と答えました。

私は日常の仕事(介護職)とミッションの仕事、2つの仕事を持っています。日常の仕事は、時々このブログにも書いている通り、障がいの方の生活援助をしています。ミッションの仕事は、さまらさの台所やアーサナ瞑想クラスのお手伝いをしています。私の答えを聞いて、他の方が聞きました。

「では、ミッションの仕事を禁止されたらどうしますか」

面白い質問だと思いました。
以前の私は、とにかくミッションの仕事をすることに燃えていました。今ももちろん燃えていますが、少し違う気がします。

ミッションの仕事をしているとき、「生きている」という充実感がありとても幸せでした。でも介護の仕事をしている時は「死んでいる?」そこまで言ったら言い過ぎかもしれませんが(相手にも失礼ですね)、充実感を求めるこはもなく、ただ生活の糧を稼ぐため、仕事の内容をこなすというように2つは完全に分かれていました。

彼女の質問を聞いたとき、その時のことを思い出すと同時に、今はそうではなくなったなぁ〜としみじみ感じました。

「結果にとらわれず、目の前のことがより良くなるように集中して、ベストを尽くす」というヨーガの教えがあります。

仕事をするとき、集中し精一杯行うという点においてはそれが介護の仕事であっても、ミッションの仕事であっても違いはありません。私を貫いているヨーガの理想の姿はどのようなことをしていようと同じ。だから行為の種類を分けることはなくなってきたのだと思います。

私は

「もちろん、ミッションの仕事を禁止されたら、とても悲しいと思うけれど、どんな仕事をしていてもヨーガを実践することができることを知っているから、それを続けるだけです」

そう答えました。

台湾のグルバイとのお食事会

台湾のグルバイとのお食事会

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何を思いどう生きるのか

 

「行動と思いをより良くしていってください。常により良い理想に心が向けられていくようヨーガを学んでいってください。ヨーガを学び深めることが、カルマを超越する道です」

これは、私が最初に師からいただいたヨーガの教えです。カルマとは過去の自分の思いや行為が原因となって生じた結果のことです。ヨーガを実践すれば、そのカルマを超えることができると師は教えてくださいました。シンプルな教えですが、常により良い思いをもつということを、最初は意識してやっていかなければなりませんでした。心は何かあるとすぐに人のせいにしたり、消極的な思いに執われたりしてしまいがちだったからです。

最近、「シュリ・アーナンダマイ・マーの生涯と教え」という本を手にすることができました。シュリ・アーナンダマイ・マーは「あるヨギの自叙伝」でも至福に浸る聖女として紹介されています。ここにどきっとするような教えが載っていましたので、ご紹介したいと思います。

ある油売りの老女が死の床に就いていた。その老女は生涯バザール(市場)で油を売ってきた。彼女はツケで油を売ったことは一度もなく、ごくわずかな油でさえも決してただでは渡さなかった。乞食が油をくれと頼んできても、彼女はいつも、「一滴もやらないよ、一滴も」と答えていた。老女が死の間際にあった時、彼女の霊的な幸せを心配した親族は、彼女に「ラーマ」か「クリシュナ」を復唱させようとしたのだが、彼女が口に出せた言葉は「一滴もやらないよ、一滴も」だけだった。これが彼女のマントラになっていたのだ。人の生涯を通じての日々の考えと行為が、その人の意識状態と魂の運命を決定するということを示している。

とありました。
油は人間の生活にとってなくてはならないものです。それを売っている老女は他者の幸せを願いながら、それを売ることもできたのだと思います。でもこの老女はお金に執着をして、そんなことも忘れてしまっていたのでしょう。臨終の思いは大切で心が執着をしている思いの下に、また生まれ変わるといわれています。日々繰り返し、心に唱えさせているその言葉が深く印象として心に刻み込まれ、それが彼女の一部となっていたのでした。

 

さて私たちは日々、何を思い、どう行為しているのでしょうか。それが魂の運命を決定するということになれば、日々の思いはとても重要です。私は、より良い思いをもつということを意識すると、それは常に他者のために良き思いをもつということになり、次第に自分のことが後回しになっていくのだということに気がつかされました。常に他者の幸せを願い、他者のためだけに行為する。ヨーガの実践によって、自分自身の心を制御していくことが、自分のもっているさまざまな煩悩をなくしていくことになり、カルマを超越することになるのだということも次第に分かってきたのでした。

心の変革は一足飛びにはいきません。繰り返し、繰り返し、心に良き印象を与えていくことは、日々のヨーガの実践を続けていくことによってもまた刻まれていくのだと改めて感じたのでした。

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常に神とともにある聖女 アーナンダマイ・マー

ダルミニー

 

 

 

 

 


生きるということ

昨日は夜勤でした。(私はヘルパーとして在宅障がい者の支援をしています)朝食のコーヒーを煎れて飲んでもらっているとき、利用者さんRさんがぽろりと言われました。

「私がやってきたことは何の意味もなかった」

彼女は60近い年齢ですが、生まれた時から先天性の障がいがあります。昔は座ったり、膝を使って歩いたり、パソコンを打ったりできたようですが、年とともに障がいが重くなり、今は手も足も自由には動かせません。それでも30年以上一人暮らしをされています。障がい者運動が盛んな時代を生きてこられたので、とても独立心が強く、何でも自分でされます。

たとえば料理は、使う材料から切り方、炒める時間など調理の細かなことにも指示を出されます。調味料の分量も指示されます。味見をして味を整えることはほとんどなく、たいていは言われた分量を入れると美味しくし上がっています。私が手や目を通じてつかんでいる感覚を何も見ず、さわらずつかんでいるのだと思います。

料理だけでなく、自分の生活は自分で責任をもって行うことを心がけて生きてきた彼女は、後輩の障がい者が自立して生きる手助けをするため、いろいろと行動されていました。しかし、彼女が若かった頃と時代は変わり、世の中は便利になり、食事は気軽にお弁当が買えたり、宅配があったり、ヘルパー制度が充実したことで、ヘルパーに頼ることが当たり前になったと言われていました。

自分が後輩に伝えたくても、後輩はそれを望んではいない、それで冒頭に言われていた彼女の言葉が出てきたようです。

今さら便利になったさまざまなものを無くすことはできないでしょうし、ヘルパー制度を変えることもできません。彼女がしてきた通りの自立という姿をとるころは今の時代では難しいこともあります。いつもは元気な彼女も少し寂しそうに見えました。

確かに彼女が教えたかったことは教えたかった人には伝わらなかったかもしれませんが、少なからずヘルパーである私にはとても大きな影響力がありました。

障がいがあり、肉体的には思うように動けなくても誇りをもって自立して生きることができるということ、ヘルパーの仕事は手となり足に徹すること「私ならこうしたい」という思いを持たずにできるだけ相手の思うように動くこと、これは何度も怒られながら徹底されました。でもその態度は他の利用者さんに入るときにも気をつけることができ、仕事が続けられています。またお料理のレパートリーも教えてもらい家で作ることがあります。質素な生活スタイルから自分が余計なものを買っていたことに気付かされたこともあります。彼女の本意からはずれているかもしれませんが、少なくとも私を含め、関わっているヘルパーには大きな学びがあったと思ったのです。それで、思わず!

「何の意味もないことなんてないですよ!!!!!」と力説してしまいました。

彼女は私の話を聞いて少し嬉しそうにされていましたし、私もほっとしました。

「これからどうしていけばいいかなぁ」

と言われるので、

「ただこのまま生きてください。それこそが意味のあることです」

と言いました。

人が生きるってすごいことだと思いました。それは外側ではなく、ただその人の内にある信念だけがその人を作るのだと思ったし、それが他の人への影響になるのだと思いました。

お出かけしたときにRさんと見た美しい空

お出かけしたときにRさんと見た美しい空

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無執着ということ

蟻塚(ありづか)ってご存じですか?

蟻が地中に巣を作るとき、運び出した土や砂が盛り上げられてできる柱状、円錐状の山、また落ち葉や枯れ木で作られる蟻の巣だそうです。私は見たことがないのですが、インドの伝説には、蟻の巣が身体を覆ってしまうぐらい長い間瞑想に没入するヨーガ行者がでてきます。蟻が巣を作っても気が付かないなんて、どれほどの集中なんでしょう。すごいですよね。

今日はそんな蟻塚もでてくる一つの教えをご紹介したいと思います。
————————————————————————————————————————————-ナーダラという偉大な賢者がいました。彼はいたるところ旅をしました。そこで、ヨーガを実践している二人の男に出会いました。

 一人目の男は、白蟻が巨大な蟻塚で周りを囲んでしまうほど長いこと座り続け、瞑想をしていました。彼はナーダラに聞きます。

「あなたはどこにいらっしゃるのですか」

「私は天国に行くところです」

「では、彼はいつ私にお慈悲をくださるのか、いつ私はヨーガを成就するのか、神様にうかがってみてください」

 二人目の男は、飛び回って歌ったり踊ったりしています。彼は粗野な声と身振りでナーダラに聞きます。

「あなたはどこにいらっしゃるのですか」

「私は天国に行くところです」

「では、わたしがいつヨーガを成就するのか、たずねて下さい」

 やがて……

ナーダラはまたあの蟻塚に囲まれて瞑想をしている男の前を通りかかりました。

「おおナーダラ様、あなたは主にうかがって下さいましたか」

「ええ、うかがいました。主は私に、彼はあと四回の誕生のうちにヨーガを成就する、とおっしゃった」

その男は泣き出して、こう叫びました。

「私は蟻塚に囲まれるまで瞑想をしました。それでもまだ四回も生まれなければならないとは」

 ナーダラはもう一人の男にところに行きました。

「私のことを尋ねてくださいましたか」

「ええ、お尋ねしました。ここにタマリンドの木があるでしょう。実は、まだこの木の葉の数だけ生まれなければならない。それからヨーガを成就することができるそうです」

男は喜びに踊りはじめました。

「そんなに早く、自由になれるとは」

 その時、声が聞こえました。

「我が子よ、おまえは今、自由になれるぞ」

無限時間を待ち続ける男の忍耐、その覚悟が最高の結果をもたらしたのです。
—————————————————————————————————————————————-
この話を読んで、私は二人の違いは何なのかを考えました。蟻塚ができるほど瞑想していた男は、誰の目から見ても真剣にヨーガを実践しているように見えます。かたや踊り狂い歌っている男が、真剣にヨーガを実践しているようには見えません。その人がどのような思いで一途にヨーガの成就を求めているのか、端からは全く分からないことのなのだと思いました。でももしかしたら自分自身ですら分からないことなのかもしれません。自分はヨーガを真剣に実践している、そのような思いも邪魔になるのだと思いました。

師は説かれます。

 行為の結果に一喜一憂せず、結果を受け取らないようにしなさい。

蟻塚に囲まれていた男は結果を期待していたのでしょう。踊り狂っていた男のように、私たちはただ一心に結果を気にせず、ヨーガを深めていくだけなのだと思いました。そしてヨーガへの思いが真剣であれば、必ずその思いは神様に通じるのだと思いました。

 ダルミニー


どういうふうにも見ない

クラスなどでよく話題になるのが、職場や家庭における人間関係の悩みです。

生きていく上ではさまざまな人との関わりが生まれますが、そのとき意見の違いや態度が気に入らないなどで色んな摩擦が生まれます。それらの差違がなくなることはありませんから、悩みは尽きません。

心はよくその差違をみて、優劣をつけたり、動揺したりしてしまいますが、師は常に表面的な違いに執らわれないで、本質をみなさいと言われます。

ある時、ある弟子が、師はみんなのことをどういうふうに見ているのですかと尋ねたことがありました。師は少しの間考えられて、次のようなことを言われました。

どういうふうにも見ていません。もちろん心の状態もわかります。でも心の状態は常に変化していますから、その瞬間瞬間に対処しているだけです

そう言われて、師は笑いながらそこに在りました。

私はこの言葉を聞いてとても驚きました。「どういうふうにも見ていない」ってどういうことだろう!?普通は、その人たちとの様々な出来事や経験の印象を通して見てしまうし、色々なレッテルを貼ってしまう。また、先生であるなら生徒を生徒として見ているだろうし、師なら弟子を弟子として見ているのではないかと思うのです。

でも「どういうふうにも見ていない」っていったい・・・

最近、よく思うのは、「こういうふうに見ている」ときは、心はとても疲れるなあということです。その人をこうだと決めつけてしまい、とてもしんどくなります。でもヨーガをやっていくと、確かに様々なものに対する執らわれが薄らいでいって、「どういうふうにも見ていない」ような感じになるときがあります。

一見すると無関心で、薄情に思えるかも知れないけれど、実際はすごく心は自由で、その人の本質を見ているような感じなり、喜びにあるように思います。反対に心が何かその人の印象を持ち、それに執らわれていると、心はとても不自由でしんどくなります。付き合いが長くなるほどいろんな印象を持ってしまいがちになるものですね。夫婦が最たるものです。

面白いことに、執らわれが強ければより苦しいけれど、ほんの微かな執らわれがあったとしても確実に心は動揺するものです。それがわかれば、もう何にも執らわれないようにしようと心は観念すると思います。

サーナンダ