明日、19日(土)大阪で開催されている中之島グリーンマーケット周辺で、アーサナのデモンストレーションとキールタンを行います。14時半頃〜16時半頃を予定しています。
http://www.suito-osaka.jp/enjoy/machiasobi_gm/
お近くに起こしの際はぜひ遊びに来てください〜!
明日、19日(土)大阪で開催されている中之島グリーンマーケット周辺で、アーサナのデモンストレーションとキールタンを行います。14時半頃〜16時半頃を予定しています。
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ガネーシャ庵には、ガネーシャ神のような風貌の友人が住んでいます。
京町屋の昔ながらの長屋のような建物で、三軒がつながっていて、その真ん中にガネーシャ庵はあります。よくお邪魔してヨーガの話をしたり、打合せに使わせていただいたりしています。
先日、いつもバクティ・サンガムをしているミラバイとガネーシャ庵に伺った時に、少しだけキールタンを歌う機会がありました。
ゆったりとした夕暮れのひと時の中でミラバイが歌うキールタンを聴きながら、ふとずいぶん昔に訪れたエジプトを思い出しました。
夕暮れ、礼拝の時間にイスラムの音楽が朗々と街に流れるのを聴いて、あぁ、こうやって忙しい生活の中でも神への讃歌を耳にすることで心は神に戻されるのだなあと思いました。あるインドの日常の映像の中で、キールタンを歌う素朴な歌声を聴いた時にも同じ印象を持ちました。
本当に日常の中に神があり、神への信仰とともに生きているのだなあという印象です。
次の日、隣の住人の方から、「美しい歌声が聴こえていました〜突然のプレゼントに癒されました」との感想がありました。長屋ならではのプレゼントですね〜 ヾ(=^▽^=)ノ
京町屋の日常の風景の中で、普段着で歌うミラバイのキールタンを聴いていると、心は日常の喧噪から引き戻され、私たち自身の原点である神の下へ駆け寄るような気がしました。ずっと聴いていたいなあと思いました。そして、毎日夕暮れにほんのひと時でもいいから聴きたいと思いました。そうすれば、忙しい生活の中でも、心は神への愛を忘れることはないでしょう。以来、家でもキールタンをよく聴き、歌うようになりました。
来月は、大阪10月2日(金)、京都10月25日(日)にバクティ・サンガムがあるようです。キールタンを学んで、日常の中で歌い、神への愛を思い起こし、心を常に原点にリセットしたいですね。
それでは、ミラバイが弾いてくれたハルモニウムの音色をほんの少しだけお届けします。ハルモニウムって今回初めてじっくり見たのですが、素朴な作りながらもとても綺麗な楽器で、さまざまな音が重なった素敵な音色だと思いました。結構大きな音ですが、すごく瞑想的だなあという印象を持ちました。今回はハルモニウムの音色だけになりますが、ミラバイのキールタンを聴きたい方はぜひバクティ・サンガムに参加してお楽しみくださいね。
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サーナンダ
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いつでも、
どんな場所でも、
どんな人に対しても
心は常に真理のもとになければなりません。
サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ
ずいぶん昔(1990年頃)に師から授かった教えです。その頃の私は、日誌をつけていました。先日昔の日誌を見ていたら、印象に残った師の教えがいくつか記されていました。それをご紹介したいと思います。
その頃は、サットサンガで心に留まった教えを必死で記憶し、家に帰って書き留めていました。サットサンガ中は師の言葉に集中していたのでメモをとってなくて、サットサンガが終わると必死で教えを頭の中で繰り返して記憶に定着しようとしていたことを思い出しました。
私はこの教えが大好きです。(教えに好き嫌いがあるわけではありませんよ)どこが好きかというと、「いつでも、どんな場所でも、どんな人に対しても」という無条件、無限定なところなんです。限定付きならできるかもしれませんが、無限定という限定解除されているところがヨーギーなのです!
ところが、今回この教えをずっと見ていたら、この教え、とてつもなく深いなあと思いました。ものすごくシンプルなんですけど、今更ながらその無限定の意味を感じてしまい、姿勢を正してしまいました。これができて初めてヨーギーなんだと真剣に考え込んでしまいました。
真理をアートマン(本当の自分)や神、真の愛に言い換えてもいいかもしれませんけれど、心の側から見れば、単純に言えば、私心がなく、平静だということです。自分を振返れば、まだまだまだら模様で無条件、無限定ではないと言わざるを得ません。条件付きです。
これは生活全般、言動全般、思考全般を総点検し、調えていかんと到底無理だと思いました。思い浮かんだのは、師の御姿でした。いつでも、どんな場所でも、どんな人に対しても、無条件の行為と無限定の喜びにある御姿が浮かんできました。
やっていこう!ヨーギーになりたいから!
その昔、記録したのは何か自分の印象に残ったからなんだと思います。短い言葉ですが、私がこの教えの向こうに見たのは、真のヨーギーの御姿でした。
サーナンダ
さて、前回のギーターカードの続きです。あのカードを見て何を思い出したのか、それを書きますね。読んでいない方は前の記事をご覧ください。
私がヨーガを始めて京都の千本丸太町にあるヨーガ・ヴィハーラという一軒家でに引っ越して来たときのことです。そこはヨーガのクラスをしたり、ヨーガをしている人が集まるお家で、そのころは先輩3人との4人の共同生活でした。
ちょうど『悟り』の出版記念イベントが間近にあり、ヨーガ・ヴィハーラではそのイベントに向けて毎日準備が行われていました。キールタンの練習や聖劇の練習、会の進行のミーティングなど、家に帰るとたくさんの人がいるという毎日、私は縁あってこの家に引っ越してきたのですが、仕事先が遠く、毎朝6時に家を出て、夜の7時か8時頃に帰宅していました。私の部屋は玄関のすぐ横だったこともあり、みんなの荷物置きに使っていたので、帰宅して部屋に入るとたくさんの荷物が置かれていたことを覚えています。
ヨーガに邁進しようと思い、この家に引っ越してきたのだから、毎日アーサナをしたいと思っていた私は、帰宅してすぐにアーサナがしたかったのです。(ご飯を食べてしまうとアーサナができないし、朝が早いので、さっさとアーサナをして寝たかったのです)でも、私の部屋には荷物があり、アーサナをするスペースはなく、家にたくさんの人が出入りすることも相まって落ち着かずにいました。「こんな状態ではアーサナも瞑想もできない」と思っていても、クラスに行けば「アーサナや瞑想は毎日する方が良い」と言われます。
絶対の絶対にできないという訳ではないのです。例えば荷物を部屋の端にまとめてスペースを作るとか、時間が遅くなってもみんなが帰るまで辛抱強く待つとか。でもスペースを作ってアーサナを始めると、その荷物を取りに人が出入りし、その度にアーサナは中断します。また私がアーサナをしていることで、邪魔してしまったという思いを相手に持たせてしまい「ごめんね!」と言われるたびに、謝らせてしまったという思いがありました。自分の意志を通そうとすればするほど上手く行かないような気がする……だけどアーサナはしないといけないと言われている。私はその狭間でとても窮屈になり、イライラする日々が続いていました。
ある日、何気に話をしていたヨーガの仲間が「忙しくてもアーサナや瞑想は毎日しないといけない」と言われたことに端を発し、私の思いは爆発します!
もう限界だと思った私は、ヨーガの先生に質問に行きました。今の自分の状況を話し、「毎日アーサナや瞑想をしなくちゃいけないことは十分かっているけれど、今の状態ではできない!それでもヨーガをするにはアーサナをしなければいけないのですか?」と尋ねました。
先生は言われました。
「そんなときにはアーサナや瞑想はしなくてもいい。それよりも家に来ている人たちが気持ちよく家を使えるようにして上げなさい。それがヨーガです」
その言葉は本当に目からウロコでした。
その瞬間、心がホッと落ち着き「それがヨーガなら、私はヨーガを続けることができる」そう思ったことをよく覚えています。先生の言葉を聞いて、ヨーガは自分のことを優先するのではなく、常に相手を優先することなのだと分かりました。たとえヨーガを深めるために必要だと言われているアーサナや瞑想であっても、例外ではないということです。
先生はホッとした私を見て「アーサナや瞑想はまたできる時が来るから、そのときにしたらいいよ」と優しく言われました。
そのとき言われた「それがヨーガです」という言葉、私はそれによってヨーガというものを理解していきました。それはまったく複雑ではなく、落ち着いて考えたら当たり前のことだと思いました。動揺すると、すぐに真実が見えなくなってしまいますが、そういうところを変えていくことがヨーガだと知りました。自分にとって指針となり、いつも心にとどめている言葉です。前回紹介したギーターのカードを見ながら、その時のことを思い出しました。
久しぶりにギーターのカードシリーズです。バガヴァッド・ギーターの教えが書かれている美しいカードを1枚選んで、その教えを紹介しています。今回選んだカードには、
「アルジュナよ 義務を忠実に行え
そして成功と失敗を等しいものと見て
あらゆる執着を捨てよ
このような心の平静をヨーガという」
下のタイトルがいいですね。「SUCCESS in YOGA」この絵はヨーガが成功した状態を現しているのでしょうか。私がこの絵から受ける印象は「平安、静寂」です。
ヨーガとは何ですか?と言われたとき、たくさん答え方がありますが、ここでクリシュナは「あらゆる執着を捨てた心の平静がヨーガである」と言っていますね。執着しているものって、分かりやすいものありますが、時には見えないものもあります。このカードを見たときに思い出したことがありましたので、それはまた次回に書きますね。
先日、長岡京ヨーガ・瞑想クラスのさまらさ納涼女子会をしました。長岡京近隣在住の方が多いので、同じ長岡京市民である私の家に会場を設えて行ないました。もちろん料理は手作りです。
全員で9名が参加し、さまらさパーティ・メニューを堪能しながら、ヨーガの話を楽しみました。クラスに通われている方もそんなにお互いのことはよく知らないので、自己紹介から始まったのですが、その一人一人の自己紹介からたくさんの日常でのヨーガの取り組みを伺うことができ、そしてヨーガの教えを話し合うことができて、本当に楽しかったです!
なぜヨーガのクラスに通い始めたのか・・・みんなそれぞれのその時の理由(動機)があり、それは個人的なことでもあるし、なかなか人前で積極的に話す機会もないものですが、その日はクラスでは顔なじみになってきたこともあってか、その時の自分の思いを話してくださいました。そして、今どのように仕事や生活に向き合い、その中でどのようにヨーガを取り組んでいるのかを垣間見ることができました。
私が印象的だったのは、それぞれ具体的な状況は違いますが、「この状況や苦しさを何とかしたい!」というところに共通的な動機があって、不思議な縁でヨーガ(チラシ?)に巡り会って、一筋の光明を見いだしたのだと感じました。
そして、皆さんの生活の中にヨーガの実践が根付いてきている様子を伺うことができたのが、とても嬉しかったです。特に仕事上の人間関係のトラブルの話が多かったですけど、それにどのようにヨーガの教えをもって向き合っているか、実体験を話し合って、互いにヒントになったのではないかと思います。来年からの講座でカルマ・ヨーガをやってほしいと強い要望があったことも嬉しい驚きでした!
そんなこんなで話が盛り上がり、自己紹介が終わる頃には、予定時間を大幅に過ぎていましたのでお開きになりましたが、皆さん後片付けも手伝ってくださり、あっという間に片付け終わりました。
納涼会が終わってから、何人かの方から、みんなそれぞれ違う日常を送りながら、同じように悩んだり迷ったり色々あるんだ、その中でヨーガの教えを実践していっているんだということがわかって、とてもよかったという感想をくださいました。
話に夢中になって残念ながら皆さんの写真を撮るのを忘れてしまいましたが、納涼会が始まる前の調理の様子を撮影していたので、今回はさまらさ納涼会なので、さまらさの調理の様子と完成品を掲載したいと思います。さまらさメンバーでもあるマードゥリーとサラニーが調理し、あっという間に出来上がりました。さすがさまらさという感じでした。本当に手作り感満載のさまらさらしい納涼会でした。ありがとうございました!
次は、男子会をやりたいなあと思いました。
サーナンダ
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仕事の帰り、オッチャンに道を聞かれた。オッチャンの一言二言で、その人が関西人であることが分かり、「ごめんなさい。私も関西人なんで分からないです」と言った。オッチャンはまるで相方を見つけたように嬉しそうに目を輝かせて話し始めた。「そうか、関西から来たんか。ここら辺の人はどうや?」と聞いてくるので、「皆いい人ですよ」と答えた。
それを聞いたオッチャンは、「ふーん」と何か言いたげな様子だった。除染の仕事のためにやって来て、浪江は線量が高くて半袖を着られないとか、色んな状況を説明してくれた。そしてその後、「でももう再来月くらいで帰ろうかと思ってる」と力なく言った。「何か問題がありました?」と聞くと、「人間関係や」との返事。オッチャンは東北の人の仕事のやり方が粗くて嫌なのだそうだ。仕事のやり方が合わないと相手の人間性まで否定したくなる。
人間関係。人は、いつでもどこでもこの問題に悩まされる。この地域の看護師の仕事のやり方が雑で合わないとか、看護のレベルが低いと言って怒っていた人、そう言って帰って行った支援の人を私は一体何人見てきただろう。人はどんなに大きな志をもってやって来ても、こんなちっぽけなことで挫折する。ちっぽけだけれど、かなり手ごわい。むしろ情熱が大きければ大きいほど思い通りに行かなかった時の怒りは大きいのかもしれない。私自身も当初はこの地域の人の仕事のやり方や独特の性質に戸惑ったしよく悩んだ。(たぶん外から京都に来た人も京都人の独特の気質に困ってるんだろうなと時々考えるようになった)でも、そのことは今ではほとんど問題ではなくなり、仕事をする上で障害にはなっていない。オッチャンには「地域性もあるかも知れないです。でも、時間が経てば慣れますよ」とたいした助言もできなかった。
ここに私が来た時、最初はただじっと耐えた。毎日言いたいことも怒りたいこともいっぱいあった。でも、きっと周りも私に対して色々思うことはあったはずだ。実際によく周りは私のやり方をじっと見ていたと思う。でも、人間って時間が経てば慣れてくる。ああ、ここはこういう所なんだと知ると受け入れられるようになってくる。もしかしたら、これができるようになったのもヨーガの効果なのかも知れない。執念深かった私は、そういう風に周りをすんなり受け入れることのできる人間ではなかったから。そして慣れると言っても、全くそこに染まって同じようにするわけではない。ただ、正しいからこうしよう、そう思うことがあっても、周りの状況に合わせながら進めていくことが大切なのだとここで学んだ。今こういう状況で自分がどういう立場を求められているのかをいつも考えるようになった。それにしても沈黙と忍耐、私はもっともっとこれが欲しい。
一昨年、私がここに来てから数か月後、ヴィハーラのブログを見てSさんと言う人が連絡をくれた。Sさんも近くの病院に支援看護師としてやってきていた。初めてSさんを見た時、なんて暗そうな人だろうと驚いた(Sさん、ごめんなさい!)。でも話しているうちに、彼女は行動力があってとても頭のいい、自分の意見をしっかり持った人なのだと分かった。そして彼女が直面していたある問題が彼女の精神を疲弊させていたことを知った。外から来た看護師と中の看護師の関係がうまくいかない、外の人間が集まればここの悪口になり、辛いと打ち明けてくれた。そして「違う空気が吸いたかった」と私に連絡をくれた理由を語ってくれた。
一か月後彼女はまた連絡をくれた。「あなたが言ったように、周囲の状況は変わっていくものだと最近思います」そうメールに書かれていた。そんなことを私は言ったのか。食事に誘ってくれて、しばらくぶりに会った時、彼女の表情は変わっていた。
Sさんはその病院のスタッフからはあまり好まれない部署に置かれていたが(優秀な人しか働けない部署ですが)その病院でそれまでで一番長く支援看護師として勤め、期限が来て帰って行った。そして今年から救急医療体制の充実を図ろうとしている福島県内のいわき市にある病院を支援するために就職した。原発近辺の地域は人が流出したが、逆に仙台やいわきなど周りの地区は人口が急増。しかし救急患者を受け入れるいわきの中核病院では医師や看護師の数は減ったため、人口増加に見合う病院の機能が整っていないのだ。「これからの人生を考えると、いわきの病院に行くとしたら、骨を埋める覚悟で行かないといけない」と言って彼女は悩んでいたが、結果的に行くことを決心したようだった。
そういえば、観葉植物界のエキスパートが言っていた。「植物は環境の変化にとても弱いけれど、半年間枯れないで葉を出し続けるとその場の環境に適した植物に生まれ変わる」と。
人間も同じなのだと思った。Sさんは今また新しく生まれ変わろうとしている。あのオッチャンにも是非頑張ってほしいと思う。
二元性ってなんでしょう? この言葉、私はヨーガをして初めて聞きました。調べてみると「一つのものが二つの原理によって構成されていること」とあります。これでもなんのこっちゃ?と私は思います。ヨーガでは、二局対立したもの、例えば「好きと嫌い」「暑い寒い」など教えてもらいました。例があるとちょっと分かりやすいですね。
ヨーガはその二元性を超えると言われます。じゃあ超えるってどういうこと、それらがなくなるということでしょうか?
今年の夏は暑かったですね。(まだ続いていますが)今年「ヨーガはやっているけど、私は決して二元性は超えられない……」と思ったのです。この暑さを超えるなんて絶対に無理!!
前回のクラスで、二元性を超えるのに一番効果的なポーズは前屈(パシュチモーッターナ・アーサナ)だと教えてもらいました。前屈のポーズ、知っていますか?
前屈する時は足を前に伸ばして座り、つま先は天井に向け、膝はしっかりと伸ばします。
背骨をまっすぐに伸ばしたまま足の親指を持ちます。この時、もう一度しっかり腰を伸ばし、吐く息とともにお腹を太ももに近づけるようにして前屈します。
お腹が太ももに近づいて来ると、だんだん体が2つに折れているのでお腹の辺りは圧迫され、呼吸が窮屈になります。お腹の辺りに熱を感じて暑い!顔が足に近づくと吐いた息が顔に跳ね返ってまたまた暑い!ここでゆっくりと呼吸を繰り返すのですが、なんて窮屈なポーズでしょう!?でもこの窮屈さに耐える!?受け入れることで二元性を超えていけるのだと言われたのです。
(写真の私、ちょっと力んでますね。そして、足の先見てください、少し逃げています。難しいな〜)
二元性を超えるというのは「暑くない、寒くない」というふうに無感覚や鈍感になるのではなく、感じるけれど心がそれに振り回されないことだと教わりました。
「なーんだ!暑いとは感じてもいいんだ!」と喜んだのもつかの間、それに心が振り回されないと言われ、うーん 🙄 、私の場合は振り回されまくりだな〜と思いました。
写真の前屈の形、なかなかきついですが、それを行うときにはただ呼吸に集中して行います(「痛い!とか、もうやめたい!とか思ってもすぐにストップ! 呼吸、特に吐く息に集中します」)それによって耐える力、ただ耐えるだけでなく、心が不動になる力を養ってくれるということです。日常では、一つの思いが浮かぶと、それに関連して連想ゲームのように思いがつながります。「暑いな→汗だくで気持ちが悪いな→涼しいところにいたいな→仕事に行くのが嫌だな→アイスでも食べようかな……」でもアーサナをしていくことで新しい回路ができると言われました。それは、感じるけれどそれによって余計な思いは出ないという回路です。「今日も暑い!以上!(夏だから当たり前的な?)」こんな感じでしょうか。
もちろん、前屈の形だけでなく、それはアーサナ全体を通してできるようになるのだと思います。今年のような暑いときにも、まったく暑さに翻弄されなくなったとしたら、それはたいしたものだな〜と思います。来年の夏のためにも、がんばってアーサナしておこう !
8月1日から京の七夕というイベントが行われていますが、今年もイベントでにぎわう三条河原でアーサナのデモンストレーションを行ってきました。
河原には竹籠のライト(風鈴灯)が置かれています。毎年そうなんですが、ここでデモンストレーションをすると、その空間にバッチリととけ込み、まるで自分たちのためにセッティングされた舞台であるかのように感じます。通りすがりの人たちもこのデモンストレーションがイベントの一環であると勘違いしている人も多いのです
今回は早速、マハーヨーギーオリジナルTシャツをそろえて着てやりました!
では、ご覧ください。
気迫のあるアーサナに吸い寄せられるように人が集まって見ていました。
次回は8日(土)の夕方に行く予定をしています。