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ヨーガ・アーサナの力 その1〜アーサナは瞑想のためにある

こんにちは! ヨーガ・瞑想クラスを担当しているマードゥリーです。
今回から、クラスで行なっているヨーガ・アーサナ(ポーズ)について、その実践がもたらす力がどのようなものか、これまで師から教わってきたことや自分自身が感じてきたことをもとに、4回シリーズ(予定)で書いてみたいと思います。皆さまどうぞお付き合いください〜。

ブジャンガ・アーサナ

黄昏時のヨーガ・ヴィハーラのクラス(京都・千本丸太町)

ヨーガ・瞑想クラスは、マハーヨーギー・ミッション(MYM)の各クラスの中でも最もクラス数が多く、開講歴も長いレギュラークラスです。
師が京都にアーシュラマ(道場)を開設されたのが1976年。師の下で学び、ヨーガの素晴らしさに感銘を受けた先輩たちが、一人でも多くの人に提供しようとクラスを始め、それから25年以上が経ちますが、現在に到るまで、クラスはず〜っと同じスタイル(内容・プログラム)で行なわれています。

私自身、MYMのクラスに一受講生として参加したことがヨーガの始まりでした。目まぐるしく日常が過ぎる中、立ち止まって生き方を見つめるきっかけを与えてくれたのがクラスであり、アーサナは自分と向き合うヨーガの第一歩でした。軽い気持ちで足を運んだつもりが、私たちの身体の神秘や呼吸の深まり、さらには心の紐解きなど奥深い内容があることを知り、ヨーガの世界に惹きつけられていきました。

*  *  *

さて、ここからはアーサナの役割について少し触れてみたいと思います。
全クラスでは、当初から変わることなく、師が厳選された基本アーサナ十数個と瞑想を行なっています。来られる方の体調や進み具合に応じてプログラムは組まれるので、中にはプラーナーヤーマ(呼吸法)や瞑想を中心に行なっている人、より高度なアドヴァンスなアーサナに取り組んでいる人もいます。しかし、どのようなアクロバティックなアーサナであったとしても、アーサナは瞑想のための準備段階として位置付けられています。

『アーサナは堅固で快適でなくてはならない』という格言的な言葉が、聖典『ヨーガ・スートラ』にはあります。本来「アーサナ」とは瞑想の「坐法」のことを意味し、生き物の数ほどたくさんあるともいわれている全てのアーサナ(ポーズ)は、瞑想にしっかりと座るために開発されてきたのだそうです。えっ、座る方が簡単で楽じゃないの?と私も最初に聞いた時は驚きました。しかし、実はシッダ・アーサナ(達人坐)やパドマ・アーサナ(蓮華坐)で両膝が床に付いて安定し、背骨を真っ直ぐにしてどこにも力が入っていない不動の状態で長時間保つことは、とっても難しいのです。坐法の完成は、座ると自然に呼吸が静止し、それによって心も静止することだといわれます。やっぱりそれには相応の修練が必要なんだなと思います。

アーサナは、柔軟性を競うものでも、単に肉体の健康のみを求めるものでもなく、また身体表現の美しさを見せるためのものでもありません。伝統的にも、ヨーガ=「瞑想によって本当の私に目覚める」というゴールに向かっていくための霊的な修練であり、内側から強くてしなやかな身体へと改造し、深く安定した呼吸に変化させることによって心を静寂へと導く、瞑想のための土台を築いてくれるものなのです。

一連のアーサナをやりこんでいくと、プログラム最後には身体と呼吸と心が統一され、坐法がまさに定まったという感覚、研ぎ澄まされた集中感が生まれ、自ずと瞑想へと連れていってくれるのを感じることができます。

 ハタ・ヨーガは高遠なラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって、素晴らしい階段に相当する。(『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』より)

*ハタ・ヨーガとは、アーサナや調気法などの修練を中心に行なうヨーガの道。ラージャ・ヨーガとは、瞑想によって真の自己を実現することを意味します。

また、アーサナの実践を続けていくと、毎日の食事が(欲するものがより良質で軽やかなものへ)変わっていったり、環境が調えられていったり(部屋が綺麗になったり?!)もします。不思議に思われるかもしれませんが、それらは心身が調ってきた結果、起こることでもあります。さらには真理を理解する力が養われてくるともいわれます。アーサナによって心が落ち着き、受け入れ態勢ができてくるような感じでしょうか。瞑想するには、まず真理の教えを聞いて、学び、深く考えていくことが基本にあると常々師から教わっていますが、真理の理解を育むことや日常生活を調えることも含めて、瞑想の土台となっていくのだと思います。

ある受講生の方が、クラスに通い始めて3年ほど経った頃、「アーサナをすることが今の自分にはとても大切で、教えが身体を通して入っていく感じがします」と言われたことがありました。アーサナの力は偉大だなと改めて感じました。もちろん、呼吸や心身の変化もあってのことと思いますが、身体を動かして修練を積み重ねることで、ヨーガの教えも頭だけの理解ではなく、自分のものとしてしっかりと身に付いていく、そして着実に瞑想への道筋ができていくのだと思います。
(つづく)

 

マードゥリー 


木陰の下で〜グルとサンガ〜

私は介護の仕事で車椅子の方と外出する時、休憩する小さな公園があります。暑くなり始めた先週、その公園の蔦が絡まる木陰のベンチに座ると、その場所がとても涼しく、一瞬にして癒されました。その瞬間、野口美香さんのブログで「木陰は涼しい」と書かれていたのが思い出されました。隣の車椅子の方もその涼しさに癒されたのか、笑顔で嬉しそうでした🍀


さて、そんな5月の終わり、名古屋近郊からはるばる京都のアーサナ・瞑想クラスに一人の女性の方(以下:Yさん)が見学に来られました。Yさんは私たちのブログ『ヨーガを生きる』を1年半ほどずっと読んでくださっていたようで、なんと2週間前、まだ会ったことのない私たちにブログ内でコメントを寄せてくれたのです!それがきっかけとなり、「ぜひ、お会いしてお話しましょう!!!」ということになり、コメントをくださってから1週間後、すごいスピードで交流が実現しました。
クラスの見学も含め、その前後でもたくさんのお話ができ、とっても楽しく素晴らしいひとときでした!!!

5/28(土)京都アスニーのアーサナ・瞑想クラス

Yさんはインドにグルがおられ、その教えを日本で毎日欠かすことなく一人で実践されています。
1年半ほど前にYさんは、私たちの師シュリー・マハーヨーギーのYouTubeを見つけ、そこで紹介されている教え「ヨーガの瞑想は、一生涯のその結果に留まらず、何百、何千生涯を通過するぐらいの威力をもってなされなければならない」に触れてとても感じるところがあり、それがきっかけで私たちのブログを読み始めたそうです。【師のYouTubeはこちら💁‍♂️『サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ:現代に生きる真正のヨーギー』】彼女はグルも仲間もいない日本でたった一人で実践し続けることが本当に苦しかったそうですが、ブログを通して、自分と同じようにグルへの思いをもったマハーヨーギー・ミッションの修行者の存在やその情熱に励まされながら実践を続けていたと話してくださいました。

今回の交流中、1秒たりとも真理・神以外の話をされなかったYさん。そんな大変熱心で信仰心の厚い彼女と交流して、私たちもとてもインスパイアされました!!!そして、グル(師)とサンガ(仲間)が修行者にとってどれだけ大きくかけがけのない存在なのか、改めてその有り難さを教えていただいたように思いました。本当にグルとサンガは、この世界における木陰のような避難所です!!!


私自身、木陰の一枚の葉っぱになれるようにと願い、これからその木陰の下に多くの人が集い、休足し、語らい、そして遊び戯れることを心から願った今回のYさんとの出会いでした。
Yさん、この度はご縁をいただき、たくさんのお話ができたこと、本当にありがとうございました🙏🙏🙏ぜひぜひ、また京都にいらしてください!!!一同、心よりお待ちしております😇

ゴーパーラ


「私を愛している?」

黄緑色だった若葉も濃い緑に変わり初夏の陽気を感じます。生い茂る木の下を通ると、葉と葉の間から届く満ち足りた光や空気に、気持ちがスーッと静まります。
以前よく一緒に歩いた目の不自由なおばあさんが、建物の陰と木の陰とでは心地良さが全然違うから見えなくても木の陰に入ったらすぐに分かるわ~とよく仰っていました。それまで私は木の陰よりも建物の陰の方がしっかりした陰で涼しいのでは?と思っていたのですが、意識して感じてみると本当に仰る通りで、なるほど!と一緒に喜んだものでした。また、おばあさんは整備された歩きやすいアスファルトの道よりも不安定で危なそうな河原や砂利道などを好まれる方で「土とか石のデコボコ道の方がしっかりと踏み込んで気ぃ張って歩ける。天然の足裏マッサージみたいで気持ちいい~」とも言われていました。私の固定観念を次々と壊していただき(笑)自然を感じて豊かに生きる、ということを実地で教わった方でした。自然に抗わずその時々を楽しまれ、また暮らしぶりや持ち物が驚くほどシンプル身軽で、闊達な方で憧れでした。今も木陰に入ると、あのおばあさんのクシャっとした笑顔が浮かび嬉しくなります。

大きな木陰

包み込まれるような大きな木陰

ところで、まだ福祉的な仕事とは無縁だった頃、目の不自由な方に拙い道案内をしたことがありました。その時、お相手がとても素朴であたたかい感謝を示されたため、その御恩をお返ししたくて、しばらく気持ちがずっと落ち着きませんでした。どうすればいいのかが分からなかったからです。でもその時、以前に『パラマハンサ』(機関紙)の紙面で読んだ『ホーリー・マザーの生涯』からの大好きなお話に導かれるように私はある方法を見つけられました。これからは道で出会った目の不自由な方へ、みんなへ同じようにしていこうと。
時には、さまざまな事情から会いたくても会えない人や状況があるかもしれません。人とは本当に一期一会だなと感じます。そのお相手には直接出来ないことを別の方へ、他のみんなへ、同じようにする、ということを意識するようになりました。

きっかけとなったホーリー・マザー(ラーマクリシュナの御伴侶であられたサーラダー・デーヴィー)のお話はこんなお話です。


たいへん手のかかる家庭の厄介者だったという女の子が、お母さんと一緒にホーリー・マザーをよく訪ねていました。女の子はホーリー・マザーが大好きでしたが、ある日ホーリー・マザーが別の場所へ発たれる日が来て、少女へおっしゃいます。

いい子ね、私のところに来るようになって、もう随分になりますね。私を愛している?

「はい、とっても。大好きです」

どれくらい?

女の子は思いっきり両腕を伸ばして言います。「これくらいよ」

・・・遠くなってしまっても、それでも愛してくれる?

「はい、同じように愛します。忘れることはありません」

どうしたらそれが分かるかしら

「マザーに分かってもらうには、どうしたらいいかしら」

もしあなたがお家の人をみんな愛することができれば、私を愛してくれていることもきっと分かるわ

「分かったわ。家族のみんな愛します。わがままはもうやめにします」

それはとっても良いことですよ。でもあなたが分け隔てなくみんなを平等に愛するってことが、どうしたら私に分かるかしら

「みんなを等しく愛するにはどうすればいいの」

平等に愛するには、愛する人々から何も求めないことですよ。もし求めれば、もっとたくさん与えてくれる人とそうではない人ができるでしょう。そうなれば、もっとくれる人たちを好んで、少なくしかくれない人たちは愛さないということになってしまうわ。そしてあなたのみんなへの愛は平等ではなくなってしまうでしょう。偏りなく皆を愛せなくなってしまうわ

少女は何の見返りを求めることもなく、みんなを愛することを約束したそうです。

*参考・引用:『ホーリー・マザーの生涯』


2020年にコロナが蔓延し始めサットサンガ(真理の教えを問答形式で学ぶ場)もお休みになり、マスク生活で息を潜めるように過ごした3月、コロナ禍で初めての『パラマハンサ』が郵便で届きました。サットサンガの記事に、いちばん聞きたかった師のお言葉がありました。

質問者「ヨギさんのことはとても好きですが、自分のことをもっと愛していることに気付きました。このような自分は嫌です。どうしたらいいでしょうか」

師「そうして気付いたことは良かったです。これからはそれを改めていけばいい。そして本当に私を愛しているのならば、あなたの周りにいる人たちを愛して、奉仕してください

師のお言葉は、ホーリー・マザーのあのお言葉と全く同じものに感じ、以来、大切な指針となっています。ホーリー・マザーが少女に仰った「私を愛している?」。その問いかけは、その時々の目の前の人、一(いち)なる「あなた」からの声なのかもしれません。

長岡京の花

クラスへ行く道すがらの一期一会

 

 野口美香 


一点集中

前回のブログで「大いなる真剣さ」とは、カミソリの刃の上を渡り切るほどの強い信念を持ち、一分の隙もなく集中し続けることではないか、と書きました。 
ヨーガではこの状態のことを「一点集中」といいます。常に一点集中の状態でありたいと願うものの、日常生活の中で起きる様々な出来事や、自分の心に振り回されて、持続することができないことが多々あります。 
葛藤したり悩んだりしながらも、その境地への憧れの思いだけは強く持って実践を続けていますが、強烈な一点集中状態になっていたのだと後で気付いたことが何度かあります。 

最初にそれを体験したのは、乗り越えられると思えないような大きな問題が起きた時でした。 

あらゆることが信じられず、真理の教えも無意味に感じてしまい、ヨーガの実践を続けることが苦しくなりました。かといって元通りの生き方に戻るのは怖く、寄る辺ない思いで過ごしていました。教え導いてくださっている師に対し、心の中で申し訳ないと詫びながらも、何とかしてほしいと助けを請うような日々が続きました。 
ある日、息をするのも苦しくなり、体を動かす気力もなくなり、自分の存在を今すぐ消してしまいたい、そんな思いに支配されました。 
私自身のことも世の中のことも真理の教えも、何もかもどうでもいい! 
そう思った瞬間、私という意識や思い煩っていたこと全てが消え、ただ師の存在だけを感じました。 
大量の涙とともに抱えていたもの全てが流れ出て、久しぶりに息ができたような感覚になり、他には何もいらないから師への想いだけは失いたくない!!と必死に願いました。 

それからしばらくの間、師に意識が集中した状態が続き、不安も恐れも全くない、これまで感じたことがないほどの平安な気持ちで満たされました。 
何がそんなに苦しかったのかも思い出せなくなり、気力が戻って普通に動けるようになりました。 
問題が解決されたわけでも、状況が改善したわけでもなかったけれど、意識が師からそれることがなかったため、心が何にも反応しなくなり、やるべきことを淡々と行えるようになっていったのだと思います。

 苦しかった時、光り輝く真の自己が私の中にもあると信じたい一心で、タペストリーを見つめ続けていました。

 

その時の師の存在だけがあるという感覚は、今もずっと胸の奥にあります。 
そして、私の意識が師に集中されている時に平安な気持ちを感じたのは、師が永遠に変わることのない純粋な存在そのものだからだと思います。 
これからも、どのような状況にあっても真実に憧れ向かっていこうとする想いだけは手放さず、強く求めていきたい。それによって、私たちの中にある永遠に変わることのない純粋な存在、それだけになることができるまで。 

ハルシャニー


ヨーガ・瞑想 オンライン体験コース もうすぐスタート!

生命力溢れる木々の緑が眩しい季節になってきましたね。
さて、今日はゴールデンウィーク明け5月12日(木)から始まる「ヨーガ・瞑想 オンライン体験コース」についてPRさせてください。

初心者の方や久しぶりという方向けのこのコース。全4回でヨーガ・アーサナ(ポーズ)と瞑想の基本を学んでいきます。10程度のアーサナを行ないながら、深く安定した腹式呼吸を習得していくための呼吸法、チャクラ(気の集まるセンター)への集中やプラーナ(気)の充実から得られる効果、瞑想に大切な坐法や集中力の養い方などをお伝えする予定です。

コロナ禍が続く中、クラスへ足を運ぶのを躊躇されている方や、遠方で受講が難しいという方もおられるのではと思い、昨年からオンラインでのコースを企画しました。
前回は、10年ほど前にマハーヨーギー・ミッションのクラスに通っていた方の参加がありました。遠くに引っ越して続けられなくなったけれど、クラスでの体感が印象に残っていて、いつかまたやりたいと思っておられたとのこと。再会も懐かしく、とても嬉しかったです〜。
体験コースを受けた後に、レギュラーのオンラインクラスで継続している方もおられます。アーサナの基礎が身についてきて、よい変化を感じておられるようです。呼吸の深まりは画面越しからでも伝わってきます。

アーサナを続けることによって身体が軽やかに快適になっていくとともに、呼吸の変化に伴って現れる精神面での変化は、誰もにとって大きな贈りものとなると思います。ストレスやダメージを受けにくくなり、さまざまな出来事に反応して湧いてくる怒りやイラ立ち、不安や恐怖、焦りや緊張……といった感情の起伏をおさめていくことができていきます。
心身に調和をもたらすアーサナは、本来の私へと立ち返ろうとするヨーガの道の第一歩。少し踏み出せば、そこには大いなる恩恵と、今をより良く生きるための智慧と力があることが感じられるでしょう。一人でも多くの方にご体験いただけたら!と願っています。

オンラインってけっこう勇気がいるかも?!と思われるかもしれませんが、少人数で行ないますし、見本も見ていただきながら、ゆっくりとムリなく進めていきますので、どうぞご安心くださいね。

図解ヨーガ・アーサナ

「図解ヨーガ・アーサナ基本編」(アーサナのポイント、視線、力点、集中するチャクラが一目でわかる)をもとに、柔軟性に関わらず誰もができる内容を実践していきます。

日時:5/12, 19, 26, 6/2 木曜日 20:00〜21:00 
*最終回6/2は21:30まで
受講料:4回 6,000円(税込)
<各回のテーマ>
1回目:体と呼吸と心を調える 
2回目:自己治癒力を高める 
3回目:集中力を養う 
4回目:瞑想で静けさを味わう

詳しくはこちら

次回は秋に開講予定。今後は瞑想中心の体験コースも企画しています。

マードゥリー 


真理を実現する道〜アーサナ

「ヨーガのアーサナ(体位法)や内容は、すべて生理的にも心理的にも哲学的にも科学のように説明が可能です。いつでも簡単にできます。しかし大事なことは、それらを知的に理解するよりも、体験によって良い変化を身体と心に与えてやることです。悟りとは単に知ること(知識)ではなく、成ること(体得)なのです。これが何千年にもわたる東洋の霊的修行なのです。真理はすでにあなたの中に在ります」——『悟り』より

思い返せば、アーサナの体験によって良い変化を身体と心に、ずっと与えられ続けてきたのだと思います。

七年前、ヨーガへの信頼はすでにありましたが、ヨーガを生きるということに対して、難しいから私には無理なのでは? 何かを失うのではないか? という思いも同時に抱えていました。度々、表面的な心の動揺に心が占められてしまい、苦しくなることがありました。
そのような中、京都でのアーサナのデモンストレーションに参加する機会をいただきました。いつもより自然と集中した中、アーサナを行なっていると、「真理の道とそうでない道」という言葉が浮かんできました。その瞬間、師から伝えられたアーサナは「真理を実現する道」であると直観的に感じました。真理に反する思いがあれば、抗うような力が内にあり、もうすでに私の身体と心は真理の道を歩むためのものに大きく変化させられているということが分かったのです。私自身、本当は真理の道を歩みたいと強く思っていることにも気付かされ、涙が溢れました。

今、私はアーサナを行なうことで心が内向きになり、すでに在る真理に近づいていけることを実感しています。このような具体的な方法を教えられ実践できることは、何と恵まれていることでしょうか。そして、真理の道を歩みたいと心から願うようになりました。それだけが本当の幸せになれる道だと確信しています。
師への感謝を胸に、日々実践を続けて深めていけますように。

師が歩かれた松山の大街道。私にとっては真理の道!

りょうこ


大いなる真剣さで実践し、堅固な基礎を持つ

 

〝修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣さをもって励まれるならば、
 堅固な基礎を持つものとなる”   
 

『ヨーガ・スートラ』第1章-14 

アーサナ・クラスに通い始めたばかりの頃、『ヨーガ・スートラ』という聖典があることを知りました。読むと、見慣れない言葉が並んでいる中で、この一節がすっと目に入ってきました。 

当時、鍼灸の技術を身に付けるための基礎訓練がうまくいかずに悩んでいたので、惹かれたのだと思います。この言葉の通りにやればしっかりと基礎的な技術が身に付くかもしれない、と、実践してみることにしました。 
諦めそうになったらこの一節を読む、それを繰り返すうちに気付いたのは、長い間休みなく続けることは比較的実践しやすいけれど、真剣さをもつのは、そう簡単ではないということです。元々あった思いをもっと強くして、退路を断つ思いでひたすら練習を続けることで、次第に訓練することが日常生活の一部となり、少しずつ技術を習得していけたように思います。
 

数ヶ月前、ふとしたことをきっかけに、この一節を思い出しました。 
今私はこの一節の通りに実践できているだろうか。アーサナ、瞑想、仕事…長い間休みなく続けてはいるけれど、大いなる真剣さをもって臨めているか? 
「大いなる真剣さ」とは何なのか? 

悟りへの道はカミソリの刃をわたるようなものだと言われますが、「大いなる真剣さ」とは、カミソリの刃の上を渡り切るほどの強い信念を持ち、一分の隙もなく集中し続けることではないかと思い至りました。 

私にとって悟りとは、師です。悟りへの道を歩むということは、師に少しでも近づいていくために一歩一歩進んでいくということ。 

師のように、ただ他者への愛ゆえに、いついかなる時も誰に対しても、優しさを持って行為できるようになるには、私も悟らなければなりません。それがどんなに難しくても、師が私にしてくださっていることを同じように誰かにするためには、悟りを目的地として進むしかないのです。 

そして、私には治療をする上での理想があります。 
師の目で見て、師の耳で聞いて、師の口で語り、師の手で触れる。 
「あなたの中にも真実がある」 
私が関わる全ての人に少しでもそれを感じてもらうために、外側から見える姿形は私であっても、内側は全て師に明け渡して、師のみがおられる状態であり続ける。 

そうなれるように、あらゆる行為に対して「大いなる真剣さ」もって励み、堅固な基礎を積み重ねて、悟りへの憧れをもっともっと高めて向かっていきたいです。 

ハルシャニー


悟りを頭で難しく考えない

沈丁花

沈丁花。ふわりと届く春の香り

3月21日は春分の日ですね。昼と夜の長さがほぼ同じになり大気のプラーナ(気)が整い、私たちもその恩恵を受けヨーガの修練も行ないやすくなるといいます。また、春分の日は、自然を称え、生物を慈しむ日だそうです。
電信柱の上にある雀の巣に、代替わりした新しい雀たちがやってきたようで、朝からチュンチュンチュンチュン・・・と可愛らしい声が聞こえてきます。私がよく通る道にはたくさんの街路樹があり、中でも多いのが桜の木。枝先の花芽が日に日に膨らんでくる様子がよく見えます。

バス停までの道すがら、その桜の枝を見て、もうすぐ春だなぁ~とホッとして嬉しくてスキップぎみで歩いていました。すると、やけにきれいさっぱりと明るい場所があり、あれ?こんなんやったかな?と立ち止まりました。下に目を落とすと、地面ギリギリに大きな切り株が幾つか残されていて、大きな木々がすべて伐採されたことに気がつきました。
でも木は、そんな姿になっても、じっと沈黙を守っているように見えました。この世界に次々と出来事が起こっても、いつも木々が同じようにただ在ることに私は安心を感じてきました。季節が巡り、鳥が歌い、虫が蠢き、木は葉を付けたり落としたりしながらも静かに佇み、変化する中にあっても一定の同じで在る何か、たった一つの絶対的なものが続いているということを教えてくれます。それがどれほど尊いものか……。切り株を見ていると、幹が無くなっても、やっぱり木は、あなたは同じだ、と思えました。姿、形が無くなっても無くならない、ずっと在る、と木が無言で教えてくれた気がしました。子供たちや生き物にはどんぐりを、鳥たちや虫たちには住処を、また真夏の暑い日には木陰を提供し、時々そこで腰かけて休憩しているおばあさんもいました。一本の木の存在に、どれほど私たちは恩恵を受けてきただろう、ありがとう!と思いました。

そんなことを考えながらバス停に着き、乗車した市バスの窓から景色をボーっと眺めていると、一軒のお家の庭に、赤と白の見事な梅がぱぁ―っと咲き誇っているのが目に飛び込んできました。あまりにも元気いっぱいに咲く力強さに圧倒され、その生命の力に感動しました。次はお葬式をする会館があり、前には黒光りした長い霊柩車が停まっています。こんなうららかな春を予感させる日にも・・・当然ながら死も生も同じようにあると思いました。すると今度は、保育園のまだ2歳か3歳くらいの子供たちがぞろぞろと先生に連れられて、子供同士で手をつなぎ合いながら、おぼつかない歩き方でニコニコ「バチュ(バス)バチュ~」と無邪気に手を振ってきます。思わず満面の笑みになりました。そしてバスが終点の駅に到着すると、少し離れた所に総合病院の送迎車が来ていて、大勢のおじいさんおばあさんたちが、ぞろぞろと送迎車に乗り込んでいくのが見えました。バスの窓を通して、自然の営みという一つの映画でも見たような気分でした。

水仙

春風に可憐にゆれる水仙

バスを降り歩きながら、これが自然の様相なんだと思いました。季節は止まることなく進み、そして世界も変化し、生まれる命があって、成長する命の育みがあり、死にゆく命もある。すべてが神の顕れ。どれも本当に同じなんだなと思いました。

最近、悲惨な出来事を目にしてから、胸の奥で騒めきが静まらないことを自覚していました。でも、そうやって感情的になることで、それで私は正しい判断や何かより良いことができるのか?と歩きながら自分に問いました。感情が際立ってしまったら肝心なものを見失ってしまう、平常心でいられない時こそ平常心で、と自然の様相を通してなぜかその時、思いました。そして万物の背後にある見えざる存在を思い、そうだ木のように不動でありたいと思いました。

師から教えていただいたことがあります。
悟りとは不安や苦悩の無い安心。平安な満ち足りたムードが壊れないようにすれば、それが悟りとも言える。だから悟りを頭で難しく考えないように

常に安らぎにあり、常に同じである存在は他者にも安心を与えることができる。木のように。
いつか師が仰っていた、ヨーガとは真人間になることーー正直で、人に優しく、慈悲深く
それこそが悟りにある人の姿であり、私にとって単純に人間としての理想です。
私たちは人間として生まれました。だから、誰もが真の人間、真人間になれると思います。正直で、人に優しく、慈悲深く。

木蓮のつぼみ

春を待つ木蓮のつぼみ。触るとふっくらフワフワしていました。

 

 野口美香 


真理を愛す

バクティ・ヨーガは「感情も五感も全てを愛する神に向け、愛そのものである神との合一を果たす」と表現されていて、ヨーガを学び始めた頃、私はこの強烈なイメージに漠然とした憧れを持っていました。何となく魅力的だなとしか思えなかったのは、瞑想の対象は神というよりも真我や真理の方が集中しやすく、神に瞑想するということがどういうことか私にはピンとこなかったからです。
もう何年も前のことになりますが、それまで誰かを好きになるとか愛するという感情に縁なく(興味なく?)生きてきて、グルバイ(仲間)が嬉しそうに「ヨギさん(私たちの師)の夢を見た」と話しているのを羨ましく思い、「あぁ、私にはバクティがないのだろうか」と不安が募り、勢い余ってヨギさんに尋ねたことがありました。この時、ヨギさんは何も仰らずに、静かに微笑んでいらっしゃるだけでした。何か答えてくださるものと期待していた私は拍子抜けして、それ以上尋ねることもできないまま、もやもやした思いが心の隅に残ったのです。
その後の数年間はキールタンを歌う機会やバクティ・サンガムに参加することで、少しずつ神に触れ学ぶ時間も持てましたが、結局それ以外の時間は神を忘れることが多くて、その存在を身近に感じるという実感はあまり持てなかったように思います。

けれど少し前からバクティ・ヨーガへの憧れが次第に強くなってきたのです。ちょうど瞑想専科のバクティ・ヨーガ編が始まり、この講座で多くの仲間と学べたことは大きな支えとなりました。日常生活で神を忘れることはしょっちゅうでしたが、そのたびに思い出すの繰り返しです。課題の聖典とともに、大好きな本である『悟り』の中のバクティ・ヨーガに関する記述も何度も読み返したりしていました。そうしていくうちに自然に神を思う時間も増えていき、いつの間にか、自分にはバクティがないのでは、という思いは消えていました。そして『悟り』の中のある箇所が目に飛び込んできました。

「クリシュナという神の化身を普遍の神に置き換えてもよろしい。アートマンでもいい。またブラフマン、真理に置き換えることも可能です」

そうか、神を愛するとは真理を愛することでもあるのだ、それならすごく分かる。今まで何回も読んでいたはずだったのに、初めて目にしたような言葉でした。
かつて質問をした時に、ヨギさんが答えてくださらなかった理由が今なら分かります。言葉で説明されたなら、きっとそれに執らわれてしまっていたでしょう。
それよりも、「バクティは既に、その胸の奥にあるよ」と伝えてくださっていると感じます。

祭壇のヨギさん。 私もいつも笑顔でいたいと思います。

マイトリー


置かれた場所で生きる

風の中の落ち葉のようにこの世に生きなさい。そのような葉はあるときは家の中に、あるときはごみの山に吹きやられる。木の葉は風の吹くままに飛んで行く…ときには良い場所に、ときには悪い場所に。いまや、神がお前をこの世におおきになったのだ。けっこうなことだ。ここにいなさい。また、彼がお前を持ち上げてもっと良い場所に置いてくださったら、今度はどうしたらよいかその時に考えても十分に間に合うことだ。

神がお前をこの世においてくださったのだ。そのことについてお前に何ができるのだ。彼に全てをお任せしなさい。彼の足下に自分をささげきりなさい。そうすればもう困ることはない。そうしたら、いっさいのことを行うのは神だ、と悟るだろう。すべては「ラーマの思召」にかかっているのだ。”

                       『ラーマクリシュナの福音』より抜粋

 

 木などの植物は自ら動くことはできませんが、生命を繋ぐために種子をつくり、その場に落下したり、鳥など動物が食べることで新たな場所に運ばれたりします。その場所で芽を出し、葉を茂らせ、時期が来ると枝から離れ、そこに留まるものもあれば、雨や風などによって遠くに飛ばされるものもあります。
天候や環境がどうであろうと身を任せ「置かれた場所で生きる」植物からは、逞しさ、あるがままに全てを委ねて生きるしなやかさを感じます。

人の場合はどうか。
風に舞い上げられた木の葉のように飛んで行った先が、良い場所であれば感謝し、悪い場所であれば不満を持つ。
置かれた場所やそこで起きる出来事によって感情が揺らいでしまう私たち人が、植物のようにあるがままに生きるには、何が必要なのでしょう?
それは謙虚さではないかと思います。
この一節を繰り返し読み、ラーマクリシュナが神を熱烈に愛し全てを任せられたのは、ご自身をより小さな存在として神に捧げきる謙虚さが必要であることを、示してくださっているように感じました。
読む毎に、ラーマクリシュナの限りない優しさと強さに圧倒され、この言葉を素直に信じて生きていきたい、強く思いました。

それにはまず、私たちが日々考え行動する力も何もかも、神から与えられたものだということを知ること。そうすれば、自ずと今その場にあることを感謝し、謙虚でしかいられなくなる。

自分のものなど一つもなく、全てが与えられたもの。
この感謝の想いを一瞬も忘れることなく、置かれた場所で神に自らを捧げきりたいと思います。

写真/侘助(ワビスケ)が咲く姿からも、謙虚さを感じます

ハルシャニー