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台湾グルバイの滞在記

前回のブラヨーヘイで、3人の台湾グルバイ(仲間)について紹介しました。
彼女たちは京都を訪れる時には隆君と僕が住んでいるシャーンティ・クティーラという庵(いおり)に宿泊します。

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ヨギさんがデザインされ、作ってくださったシャーンティ・クティーラの表札。

今回は2泊3日と短い滞在でしたが、その時の彼女たちの様子を少しお伝えしたいと思います。

庵ではまず、早朝に30分ほど瞑想を行ないます。

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次に掃除をします。

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続いて朝食をとりながら、ヨーガ・トークスをします。
瞑想と掃除をした後は心がすっきりしていて、静かに落ち着いて話せます。
1日目の朝、その話題は「瞑想」についてでした。
台湾で映画の脚本家や小説の作家をされているエセーさんは、シヴァ神に瞑想しているとのことで、「アーサナの後、シヴァ神に瞑想すると、とても集中しやすい」と話していました。
この話を聞いた時僕は、「シヴァ神はヨーガ行者の守護者」とヨギさんがおっしゃっていたことを思い出しました。
台湾でヨーガのクラスをしているリンは、「私は誰か?」という「アートマン・ヴィチャーラ(本当の自分の探求)」の瞑想を行なっていて、その瞑想の中で、過去の経験によってつくられた自分や、変化する世界やそこで味わう幸福は本当のものではないと感じるようになり、それによって心がとても楽になったと目に涙を浮かべながら話していました。
ただ、本当の自分であるアートマンにどのようにアプローチしたらいいか分からないとも話していました。

今回の短い滞在の中、ヨギさんは彼女たちの要望に応えてプライベート・サットサンガを開かれました。
そのサットサンガの中でアートマンについて質問したリンに、ヨギさんは以下のようにお答えになられました。

ヨギ「アートマンの別の呼び名はサット・チット・アーナンダ。サットは存在、チットは意識。なぜならサットを知っている者は自ら自身だから。そしてアーナンダというのは至福と訳される。このサット・チット・アーナンダというのは絶対にして永遠の存在。この肉体は両親から生まれてきて何十年か経ったらなくなります。心もその人生の中でいろんな経験をしながら変化をしてやまないもの。だから身体も心も永遠のものではない。エゴ意識というのは心の一部分なのでこれも永遠ではないから、心を知っている、あるいは心を見ているという純粋な意識が誰もの本質にある。これが本当の自己」
リン「例えば瞑想する時、いろんな思いに気付きましたが、その思いを気付くのは心ですか、アートマンですか」
ヨギ「それはアートマンの意識によって心がそれらを認識している。そのシーンでは心の思いもいつも変化しているし、対象に応じて変化するけれど、アートマンは変わらない、いつも同じ。だから心がいろんなことを経験します――楽しかったり、悲しかったり、嬉しかったり、苦しんだり――でもそれらは常に変化をしているこの宇宙、この世界の晴れの日、曇りの日、雨の日みたいなもの。でもその五官で感じる世界より奥にある本質は、変わらないアートマンだけがある。その真理を学ぶこと、覚者の言葉を学ぶこと。そしてそれに真剣に心の耳を傾けて、そして本当のものを求める気持ちが高まってきたら、それはアートマンに近づいていっていることになる。昨日のジャヤンティーで最初にメッセージを読んだ女性は、保育園でクッキングをしている時に隣の部屋の子供たちの声や様子が感じられて、その子供たちがみんなアートマンだということを直感的に感じたという話だった。そんなふうにアートマン、アートマンと集中している時はなかなかそれをつかむことはできないかもしれないけれど、だけど普段そうやって集中しておくことによって仕事をしている時とか、あるいは何でもない風景の中にそういうものを直感的に感じることが起こります。そして何よりそのアートマンは本当の自分自身だから、それをありありと体験することができる。必ずできる。それには普段から心を軽く、空に、空っぽにしておくことね。アートマンを体験することは目覚めることと例えられる。だから目覚めるタイミングを早くするためには、心に何もないようにしておくこと。もちろんアートマンは神という別名もあります」

――普段からアートマンに集中し、心の思いに執らわれず、常に心を軽くしておくことがアートマンの目覚めにつながるーー
リンは、年に1度か2度しかヨギさんにお会いできない状況にもかかわらず、この世の楽しみへの感心が薄れて本当のものを求める気持ちがますます強くなり、アートマンに近づいているのが感じられ、僕はとても感化させられました。

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下鴨のアーサナ・瞑想クラスにて。左からエセー、ルー、リン。

彼女たちの純粋で直向きな姿は、本当に美しいです。
僕ももっとアートマンへの思いが高まるように精進していきたいと感じた今回の彼女たちの滞在でした。
またお互いに成長して会いましょう、再见(ザイジェン)!!!

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瞑想専科後に撮影。この日はヴィヴィ(薄紫のコートの女性)もいました〜😃

飯尾洋平


「ブラヨーヘイ」vol.10 京都御所編

今回のブラヨーヘイは「京都御所」です〜😎

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家々が軒を連ねて小路が多い京都ですが、京都御所は天皇の住居だったということで、敷地はとても広くて解放感があります。
また自然も多く、いちょうやもみじの紅葉もピークを迎えて、とてもきれいです🍁

そして今回はなんと台湾グルバイ(仲間)のリン、エセー、ルーが撮影に同行してくれました〜‼️

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左からリン、エセー、ルー。京都御所がブリンダーヴァンの森に(笑)

先週の11月23日は私たちの師ヨギさんの御聖誕日でした。
台湾の彼女たちはこの日のために来日し、師への溢れる感謝の思いを祝辞やキールタン(インドの歌)で伝えました。
その御聖誕祭の様子は前回のブログに掲載されています。

それで、今年の御聖誕祭で僕は聖劇に出演させていただいたのですが、人生初の主役にチャレンジしました😆🎬
といっても、ヨーヘイというそのままの名で、しかもかなりひ弱な役柄……聖劇後ヨギさんには「洋平は地(じ)やったな」と言われました……😅
まあ、それはさておき、この聖劇は『アドヴァイタの剣』というタイトルの近未来のお話で、主人公ヨーヘイがバーチャル・リアリティのブッダの仮想世界に行き、そこでマーヤーという悪党に恋人を奪われ、家族を殺されるも、女剣士ブッダと出会い弟子入りし、修行をして最後にアドヴァイタ(唯一無二)の剣を継承され、マーヤーを打ち破るというストーリーです。
このブログでは劇中の修行の1シーンをご紹介させていただきます。

ヨーヘイは女剣士ブッダに弟子入りした時、剣ではなく帚(ほうき)を渡され、掃除を命じられます。

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「掃除ばかりしていても、強くはなれません!」と反発するヨーヘイに、ブッダは次のように教えを説きます。

ブッダ「そう思うか? 激情に任せて剣を振るえば、マーヤーと同じではないか。彼らは常に愛する人を傷つけ、恐怖を抱かせ、欲望を煽ることによってお前を苦しめようとする。しかし、何が起ころうとも、心を静かに保つのだ!無知に支配されるな!」
ヨーヘイ「無知・・・とは何ですか?」
ブッダ「例えて言うなら、この枯葉が落ちないようにと願うことが無知だ。すべては生滅を繰り返しながら変化していく。マーヤーは風に舞う枯葉のように、お前の目を眩(くら)ませるだろう。心を静めて、マーヤーの正体を見破らない限り、討ち滅ぼすことはできない!だから、愚痴が出てこなくなるまで、掃除をしなさい」

ヨーヘイは長い年月に渡って掃除を続けました。
するといつの間にかヨーヘイの心は洗われて空っぽの状態になり、そこで天からの啓示――「師のなさり方を真似なさい。成り切りなさい」――がやってきます。
そしてヨーヘイは掃除をしながら師の剣さばきや日常の仕草を真似ていくのです。

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日本に留学して日本語が理解できるルーはこの1シーンを見て、自分も掃除をしていて同じような心境になったことがあると感想を語ってくれました。
大学を卒業して今年から仕事に就いたルーですが、職場で悩むことが多く、また職場のトイレはきれいではなく、それを見ていつも嫌な気分になっていたそうです。
でもルーはある時、「汚れているなら自分で掃除をしよう」と思い、職場のトイレ掃除を始め、それを続けているとブツブツと愚痴や不平を言っていた心が静かになり、軽くなっていったそうです。

実践からくる体験談で、とても感心させられました。
ヨーガの仲間で数少ない後輩のルーですが、ルーも成長しているなと感じるエピソードでした〜😏(ちょっと先輩面)

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「私たちのアモーレはヨギさん💓」とのことです(笑)

洋平


「ブラヨーヘイ」vol.9 六角堂編

今回のブラヨーヘイは「六角堂」に行ってきました〜😎

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この六角堂は、聖徳太子が587年に創建したと伝えられ、華道家元池坊が住職を務め、いけばな発祥の地としても知られています。

ところで皆さん、京都の地理上の中心地ってどこかご存知ですか?
「う〜ん、御所かな? いや、二条城?」と思うかもしれませんが、実はこの六角堂がその中心地なんです〜😲‼️
僕は京都に住んで15年目ですが、つい最近、師のヨギさんからこのことを教えていただき、知りました〜😁

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六角堂の敷地内にある「へそ石」。六角堂が京都の中心とされたことから、体の中心であるへそになぞらえて「へそ石」と呼ばれています。

それで、この六角堂はその名が表しているように、本堂が六角の形をしています。

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それは六根が清浄になり、角が取れて円満な悟りが成就するようにという願いが込められているそうです。
六根というのは眼・耳・鼻・舌・身・意――人間の五つの感覚器官と心のことですが、じゃあ、それらが浄化されるためには具体的にどういう実践をしていけばいいのかが、修行者としてはポイントになりますよね。

ヨーガの根本聖典『ヨーガ・スートラ』には、感覚器官を制御するプラティヤーハーラ(制感)が説かれています。
以前ヨギさんはこのプラティヤーハーラの実践で大切なこととして、「知足」の教え――真理を悟るために最低限度の物質や環境があれば足りている――それを基本としているとプラティヤーハーラも進めやすくなり、そして「徹底した識別」がプラティヤーハーラの最も大きな要素であると述べられました。
以下がその徹底した識別について説かれた内容です。

「徹底した識別によって感覚器官も行動様式も変化します。生活面における人間関係であれ、さまざまな状況の変化であれ、やはり何かに反応する、動揺してしまうということは、心の中にそれを受け取る要素があるということを意味しています……ヨーガの完成への熱情に一点集中されてくると、その他の世間的な物事に対しての識別が正しくされ、放棄されていきますから、反応する要因が無くなってしまうということになります」

このヨギさんのお言葉から、当たり前のことかもしれませんが、「悟りへの熱情」、それがプラティヤーハーラの実践はもちろんのこと、ヨーガ行者として最も大事な「中心」であると改めて感させられました。

僕は小さい頃からお菓子が大好きだったのですが、疲れたり嫌なことがあったりすると、お菓子を食べることで気を紛らわせることも多く、その行為が悪い習慣性になっていました。
ヨーガを始めた頃はやめたいけれどやめられないという状態、言い換えれば、舌と心が制御されていない不浄な状態でした……😓
そんな時、ヨギさんは次のように話されました。

「昔のヨーガ行者がそんなもの食べたと思うか? 悟るために、木の実や川の水で命をつないでいた。だからお菓子は必要ない」

当時はこの言葉の意味が理解できませんでしたが、今振り返ると、とても分かりやすく知足と識別、そして悟りへの熱情というヨーガの真髄について教えていただいていたんだなと感じました。

飯尾洋平


「ブラヨーヘイ」vol.8 イノダコーヒ編

今回のブラヨーヘイは、イノダコーヒ本店に行ってきました〜😎☕️

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正式名称はイノダコーヒーではなく、「イノダコーヒ」らしいです。

京都の珈琲店といえば、やっぱりイノダですよね。
創業1940年の老舗で、お店の雰囲気もクラシックでよい感じです。
師であるヨギさんもお父様と絨毯の卸しの仕事をされていた頃、仕事終わりにこのイノダで一服されていたそうです。

ヨギさんは毎年ニューヨークに3カ月ほど滞在され、アメリカの弟子たちにヨーガを教えておられますが、僕は6年前、そのニューヨークの滞在に同行させてもらい、約3カ月ヨギさんと共同生活をさせていただきました。
滞在中は毎朝、ヨギさんが淹れてくださるとても美味しい珈琲をいただくのですが、滞在の途中(わりと前半)から話題も尽きて、とても困っていました。
そんな時僕は苦し紛れに、「京都で珈琲といえばイノダがありますよね」と話題を振ると、ヨギさんはとても嬉しそうにイノダコーヒの話をしてくれました。
このイノダの会話が、3カ月の滞在の朝食でいちばんヨギさんが楽しそうに話をしてくださった時でした。

今年もヨギさんは6〜9月の3カ月間、ニューヨークに滞在されましたが、今回同行したのがクリパールさんでした。

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クリパールさん。サングラスは僕のですが、似合っています〜

クリパールさんは僕のちょうど一回り上の子(ねずみ)年の先輩ですが、12歳も年が離れているとは思えないくらい若々しい方です。
珈琲をいただきながら、クリパールさんはニューヨークでの出来事をたくさん話してくれました。
その中で僕がいちばん印象に残ったのは、ヨギさんが選ばれたTシャツの言葉――「FIGHT LIKE HELL(死ぬ気で闘え)」――です。
ヨギさんはクリパールさんが頑張っている姿を見ると、このTシャツの言葉をおっしゃって喜んでいたそうです。

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クリパールさんからニューヨークの話を聞かせてもらい、僕も6年前のことが思い出され、本当に身が引き締まる思いでした。
僕自身、ニューヨークの滞在は自分の不甲斐なさに直面した苦しい日々でしたが、いろんな気付きを与えていただいた貴重な機会でもありました。
「珈琲」もその気付きを与えてくれたことの一つでした。
僕はニューヨークに行く前まで、甘いものが好きで、珈琲が苦手でした。
でもヨギさんが毎日珈琲を淹れてくださるので、がんばって同じようにブラックで飲んでいました。
すると1カ月ほど経った時に突然、珈琲の美味しさが感じられ、それから珈琲が好きになりました。
「味覚って変わるんだな」っと思った瞬間でした。
「自分は甘党」とか、はたまた「自分はダメだ」とか、つい「自分は〜」とレッテルを貼ってしまいがちですが、そんな自分って曖昧なものですよね。
そんな幻想なんて打ち破って、それこそ「FIGHT LIKE HELL」の精神で、本当にリアルなものに目覚めたいですよね〜😁👊‼️

最後になりましたが、クリパールさん、長時間お付き合いいただき、本当にありがとうございました😇🙏

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「ブラヨーヘイ」vol.7 北野天満宮編

本日の京都は、台風の影響もあって、雨が降ったりやんだりのお天気です☔️☁️
ここ最近、パッとしないお天気が続いていますが、今回の「ブラヨーヘイ」は、北野天満宮に行ってきました〜😎

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といってもすぐ近所なのですが、ここは学問の神様である菅原道真が祀られている由緒ある神社で、この北野天満宮の前を通ると修学旅行生を見ない日はないくらい、多くの学生が参拝して学業成就を祈願している人気の観光スポットです。

ところで、この北野天満宮にはたくさんの「牛」が奉られているのはご存知でしょうか?
参道から本殿に至るまで、本当に多くの牛を目にします。

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ではなぜ、こんなにも牛が奉られているのでしょうか?
牛が菅原道真を助けたというような逸話もあるようですが、実は今接近中の台風🌀、もう少しいうと暴風雨⚡️と深〜い関係があるというのです👀
師であるヨギさんは、北野天満宮について次のように話されたことがありました。

「あの天満宮の祭神(ルビ:さいじん)、奉られている御本体というのは菅原道真という名前の学者さん、賢く偉い人なんです。彼は千年くらい昔に、この京都の天皇がいて大臣がいてという都の中で出世したのね。でも、別の力のある貴族が嫉妬して彼をおとしめた。それで彼は九州の太宰府という所に流されてしまう。その頃から、この京都の都に雷がたくさん落ちて貴族たちが死んだり、大変な騒ぎになって、その流された菅原道真の魂が怒っているに違いないとみんな畏れて、それでお祀りをしたの。こういう伝説が北野天満宮にあるのです。昔は雷とか暴風雨とか天災、天候の厳しい、そういうものがとっても大きな出来事だった。このあたりも、たぶんその頃は畑とか食べ物を作ったりしていたところがいっぱいだったと思う。
シヴァはインドにおいて、そのルーツはルドラーという名前の神様で、それは雷とか暴風雨の神様だった。インドも農耕社会ですよね。牛は大きな力をもって人の仕事を助けてくれていた。だからその暴風雨や雷の神様のシヴァと牛はとっても仲の良い関係だった。だから北野天満宮も菅原道真の怨霊――怖い恐ろしい魂の怒り、恨み――そういうものをなだめる、鎮める。でも実際は、暴風雨とかそういうものに対する恐れとか、それからできるだけ平和な都であってほしいという祈りが天満宮の本質かな。本来、菅原道真という学者、あるいは政治を行なっていた人と牛は直接的関係はないのだけれど、今言ったような話で、その当時の様子から見ると、やっぱり暴風雨とかそういうものと牛との関係は深いわけ。それが北野天満宮にたくさんの牛が奉られている理由でもあるし、インドにおいてはシヴァとナンディーがいつも一緒にいる理由でもある」

菅原道真が北野天満宮に祀られている理由って、天災の恐れからだったなんて……😳
それでいて、日本の神社の北野天満宮とそこに奉られている牛が、インドのシヴァ神とナンディーの関係性と共通しているなんて、とても驚きですよね😵‼️

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ヨーガ・ヴィハーラに飾られてあるシヴァとナンディー

また北野天満宮では、毎年10月初めに「ずいき祭」というお祭りが行なわれています。
祭神である菅原道真を西ノ京にある御旅所へお迎えして、ずいき御輿を奉り、その年の収穫に感謝を捧げる祭事であります。
それで「ずいき御輿」というのは、芋茎のずいきで御輿の屋根を葺(ふ)き,柱などを米・麦・豆・野菜・花などで飾って作られる珍しいお御輿です。
御輿の四面には歴史や伝承、その年の大河ドラマの1シーンがお野菜などを使って表現されるようです。
やはり、この農作物の収穫祭のずいき祭からも、農耕を助けた牛が北野天満宮に多く奉られている理由が見て取れますよね。

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西ノ京の御旅所に駐輦(ちゅうれん)していたずいき御輿。真田の家紋「六文銭」は、とうもろこしの粒で作られていました🌽でも、源義経の鵯越の1シーンと一緒になっていて、ちょっと混乱しました……😅

最後に、牛に関するヨーガの教えを紹介したいと思います。
インドの聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、尊敬していたパヴハリ・バーバーという聖者の言葉で印象に残っていることの一つに、「グルの家には牛の如く暮らしなさい」という言葉をあげています。
これはどういう意味かというと、牛は重い荷物を持って畑仕事をしても愚痴一つ言わない謙虚さ・従順さを象徴しており、そのような態度でグルの家(心)に仕えなさいということで、このことも師のヨギさんから教えていただきました。
つまり牛の心は、「マウナ(沈黙)」の境地ということですよね。
心はあれやこれやうるさいですが、そんな雑念や心のツイッターにはうんざりですよね、もう🐮(おっと、失礼しました……)
牛のような心になりたいと願う、今日この頃です😑🙏

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飯尾洋平


「ブラヨーヘイ」vol.6 京都駅編

img_1129今回の「ブラヨーヘイ」は京都駅編――『瞑想専科』のお知らせです〜😎📢
来月の10月20日(木)から京都駅のキャンパスプラザで瞑想専科がスタートします。
昨今、ヨーガといえばいろんなポーズをするアーサナが主流になっていますが、本来は瞑想がメインなんです。

「ふ〜ん、そうなん。でも瞑想って、インドやどこかの山に籠ってせなあかんのちゃうの?」

と思う方もいるかもしれませんが、そんなことはないんです。
どこでも、誰でもできるんです😎☝️

今回、瞑想専科で講師をされるのは、サーナンダさんというヨーガを25年以上されている最古参の先輩グルバイです。
サーナンダさんは、今はお子さんが独り立ちし、企業を早期退職してヨーガの講師をされていますが、以前は大企業に勤めながら20年以上ヨーガを黙々と実践されてきた方です。
この瞑想専科に僕は見倣い&助手として参加させていただくことになり、会場選びから企画まで少しですが携わっていますが、その会場選びの途中、空き時間ができたので、サーナンダさんと京都駅近くの銭湯「白山湯」に行ってきました♨️
入浴後、僕たちは瞑想について話をしたのですが、サーナンダさんは次のように話されました。

「瞑想は人それぞれ、集中しやすい、入りやすい対象がある。それはこの男湯の入り口と女湯の入り口があるようなもの。でも最終的にはみんな服を脱いで裸になる、つまり無になる」

まるで19世紀インドの大覚者シュリー・ラーマクリシュナのように、その場にあるものを巧みに喩えにして分かりやすく瞑想の話をしてくれました。
流石ですね〜✨

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入浴後のサーナンダさん♨️

「どんな人でもどんな環境でも、瞑想はできる」ということをサーナンダさんは身をもって教えてくれています。
サーナンダさんはこの瞑想専科を3年のスパンで計画立てており、少しづつヨーガの歩みを実感できるようにプログラムを考えています。
学生、社会人、主婦、定年退職された方、いろんな方に参加していただきたいと思っています。
瞑想を生活に、そして人生に取り入れていきましょう〜😁👊

日時:10月20日(木)〜毎週木曜日 19:00~20:30(18:45開場)90分クラス
会場:キャンパスプラザ京都2F和室
京都駅烏丸中央口より徒歩5分
※1/12,1/19, 1/26のみ、以下の会場にて行ないます。
ニュー末広ビル7F 京都駅烏丸中央口より徒歩1分

詳細はホームページをご覧いただけたらと思います。

飯尾洋平


ヨーガの醍醐味 ギャーナ・ヨーガ

今月10日に発刊された『パラマハンサ』、みなさんは読まれましたか?久しぶりにヨーガの醍醐味シリーズが再会しましたね。ご存知ない方もおられるかもしれませんが、『パラマハンサ』では2008年〜2009年頃にも連載がありました。私がちょうど『パラマハンサ』を購入し始めたのもこの頃です。
ヨーガには、ラージャ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガと4つの特徴的な道がありますが、それぞれ連載がありました。そのころ私はヨーガの教えの理解が乏しく、4つのヨーガの特徴も理解できておらず、教えがこんがらがっているような所がありました。また、ヨーガの教えを具体的に実践するということがどういうことなのかが分かっていませんでした。
ヨーガの醍醐味を読むと、先輩方の体験とともに、どの教えを元にそれを行ったのかが具体的に書かれてあり、教えを実践するということがとても分かりやすかったのです。自分のヨーガの歩みにとても助けになり、毎回楽しみにしていました。なので、連載がスタートしてとても嬉しいのです〜!!執筆者の方、ハードルが上がったかもしれませんが頑張ってください。楽しみにしています!

さて、今回はギャーナ・ヨーガ(前半)でしたね。ギャーナ・ヨーガと言えば「私は誰か」という問いかけ。私たちが通常「私」だと思っているもの、名前とか、体とか心とか、それを含めた全体とか、そういった常に変化するものは本当の私ではないとヨーガは教えます。そして、永遠不滅の本当の私を探求するのがギャーナ・ヨーガです。でも「私は誰か」って、その質問の意味、分かります?私はまったく分かりませんでした。

でも少し前にとても面白い経験があり、「私は誰か」という問いに対してイメージが変わりました。

あるとき、日常の中で心が動揺していることがあり、その原因を考えていました。いったい何に動揺しているのか、どの点が気になっているのか、何に納得がいっていないのか……。じーっとその時の状況や心の思いに集中し、ただ黙って見ていたのです。すると突然、「このように心を見ているのは誰か!!!!?」という問いが自分の中から突然飛び出してきました!そのとき、漠然と自分が自分と思っているものが自分ではない!!!という直感があり、天と地が逆転するほどビックリし、唖然としました。

自分が何者であるのか分かっていないのに、こんなことをして何になるのか???と思った途端、今まで心に引っかかっていた思いはどうでも良くなり、「私は誰なのか」ということだけに支配されました。

その経験があって初めて「私は誰か」という質問の意味と探求する目的と、ギャーナ・ヨーギーへの憧れを感じました。次回のパラマハンサにはギャーナ・ヨーガ(後半)が掲載されますね。楽しみです!!


「ブラヨーヘイ」vol.5 四条河原町編(3)

今回の「ブラヨーヘイ」四条河原町編(3)は、ROUND1でボウリングです〜😎
最近はボウリングの人気も下火でしょうか、「ニューヨークの大きなボウリング場も潰れていた」と、先日アメリカから帰国された師がおっしゃっていました。

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ボウリングの球の輝きに負けていない、僕の頭…😎✨

ところで皆さん、ボウリングでピンを狙う時、どこをめがけて投げますか? ピンをめがけて投げますか?
僕はピンではなく、手前の「印」をめがけて投げます。

img_1060経験上、遠くのピンを狙うとガーターになることが多く、手前にあるこの印を狙うと、自然と真っ直ぐ投げられるんですね。
ボウリングをした人なら誰でもこのポイントは知っていると思いますが、何かと共通していると思いませんか?
そうです、「神への瞑想」なんです‼️
悟りそのものである神は本来、姿形がない唯一にして絶対の存在ですが、その無形の神が姿形をとった存在がシヴァ神やカーリー神だといわれています。
ボウリングで喩えると、手前ある印がシヴァ神やカーリー神ということになります。
つまりヨーガで教える神への瞑想もボウリングと同じで、いきなりつかみにくい無形の存在を瞑想するよりも、イメージしやすい姿形をもった神に瞑想する方が悟りの境地に至り易いというわけなんですね。

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シヴァ神を踏みつけている聖母カーリー。 イメージしやすいかは人それぞれですが、強烈な印象を心に残します😅

「なるほど〜」と納得されている方もいるかもしれませんが、堅苦しい話はそこそこにしておいて、今からはMr.嶋田とのボウリング対決をレポートしたいと思います‼️
20〜30年振り?!のボウリングというMr.嶋田。

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ボールを置きにいって失敗したMr.嶋田(笑)

結果は……

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どっちがユクテスワで、ヨーガナンダなんでしょうかね〜?
まあMr.嶋田は、「すべて今のままでいい」というお墨付きを師からいただいているだけあって、神にお任せ的なことが上手いなと感じました(笑)。

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僕は後で自分のフォームを写真で見て思いましたが、何か格好悪い……😓
ボウリングもそうですが、どうやら僕は神への瞑想だけではだめなようです。
ちゃんとアーサナや識別、無私の働きを徹底しないと、オール・ストライクという悟りの境地は遠いようです(笑)
でも本当にボウリングを上手くなりたいのなら、フォーム修正や心得を教えてくれるボウリング・マスターに倣うのがいちばん良いように、ヨーガもグルの傍で学ぶことが悟りへのいちばんの近道ですよね😎☝️

飯尾洋平

 


「ブラヨーヘイ」vol.4 四条河原町編(2)

「ブラヨーヘイ」四条河原町編(2)は、タワーレコードです😎🎧タワレコ①
最近はiTunesなどネットでダウンロードして音楽を聴く時代になってきていますが、僕はアナログCD世代なもので、ダウンロードはしたことがありません😣
ただ、レコードやCD、ダウンロード配信にと、時代によって音楽を聴くツールはさまざまですが、それらは「音楽が記憶されたメディア(媒体)」と括ることができると思います。そこで今回は「記憶」についてちょっと取り上げてみたいと思います。

人間が記憶という力をもっていることは、誰もが実感していることだと思います。ただその力、つまり記憶力は人それぞれで、程度の差がありますよね。
僕は以前、ヨーガの先輩弟子である京都大学卒のサナータナさんとハワイ大学教授のヴィショーカさんと記憶力について話す機会がありました。サナータナさんは何かを覚えるときは「記憶の引き出し」のようなものを使っているそうで、その力は生まれながらに備わっていて「自分でもズルいと思う」と話していました。ヴィショーカさんは「記憶力というのは筋力のようなもので、トレーニングしたら身に付く」と述べていました。二人は共感するように記憶力について話していましたが、詰め込むだけの勉強しかしてこなかった僕とは次元が違うなと思いました(一応、龍谷大学卒&修士課程修了)😓
この記憶力があるのとないのとでは学歴や職種などにも少なからず影響し、その人の人生が変わるほどの力だと思ってしまいますよね〜😑

虚空蔵菩薩

虚空蔵菩薩坐像 石徹白大師講 平安時代後期(12世紀)頃の作

歴史上においては、日本で高僧といわれている弘法大師空海が20代前半の頃、記憶力を増長させる修行法を行なっていました。それは「虚空蔵求聞持法」という修行法で、智慧の象徴である虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えたら経典の教えをすべて記憶できるというものでした。空海はこの修行に勤しんだ結果、土佐の室戸岬の洞窟で「谷響きを惜しまず、明星来影す」という神秘体験をします。記憶力増長のために行なっていた修行でしたが、この体験後に空海は、この世の儚さと厭離を感じ、慈悲心が生じるようになったと自らの著書『三教指帰』で語っています。この虚空蔵求聞持法は空海にとって記憶力以上の霊的な変化をもたらしたものだったようですが、天才と呼ばれる空海も記憶力を欲していたことが見て取れるエピソードです。

僕自身、ヨーガをして記憶力が格段に良くなったということはありません。なんせ龍谷大学出身ですから😓ただ何年か前、記憶に関係する瞑想体験がありました。ヴィヴェーカーナンダという聖者に瞑想していると、光のようなものに吸い込まれていき、その途中、何かが見えたので引き返すと、そこには「巨大な壁」がそびえ立っていました。そしてよく見ると、その壁一面には「無数の小箱」が整然と埋まっていました。瞑想から醒めた時、これは「心の記憶構造」ではないかと感じました。つまり、膨大な量の記憶をカテゴライズして所有するという記憶の仕組みではないかと感じたのです。そしてその後、タワーレコードの店内――膨大な量のCDがジャンル別にカテゴリー分けされ、簡単に見つけられる仕組みーーが心に浮かび、タワーレコードが心の記憶構造と類似していると思ったのです👀💡
タワレコ②

約2年前に僕は介護福祉士の国家試験を受けました。その時の勉強法は、以前のようにただやみくもに詰め込むのではなく、ざっくりとですがカテゴリー分けを行ないながら整理して勉強を進めるタワーレコード式勉強法を取り入れてみました。そうすることで勉強がしやすくなり、結果的に試験にも通りました😎✌️といっても、合格率60%の試験でしたが……😅

最後になりますが、師であるヨギさんは記憶について次のように話していました。
「空海は若い頃に虚空蔵求聞持法をしていたということで苦労人だったということが分かる……私は中学生の頃、記憶力が良すぎて何でも覚えてしまうのが嫌だった。それで記憶することをやめようと思った。そう思った瞬間、記憶することをやめれた」
あり得ないような話ですよね……物だけでなく記憶やその力の放棄、また思いと行為の完全なる一致を物語る驚愕のエピソードだといえます……😲‼️

飯尾洋平


アーナンダのさとり

みなさん、こんにちは

今日もまた本願寺出版社の「ブッダ」をお伝えしたいと思います。

悟りを啓かれてから四十年以上もの間、真実のみを語り、人々に教えを説いてこられたブッダでしたが、ヴァイシャーリーで自らの死期を悟り、アーナンダを伴って最後の旅に出たのでした。

小康状態を保っていた病状はクシナガラで一気に悪化した。「アーナンダよ、私のために床を用意してくれ」アーナンダは言いつけられた通りに沙羅双樹のもとに床を設えた。ブッダは頭を北に向け、右脇を下にして横になった。

その頃、クシナガラに住む遍歴行者のスバドラは声を聞いた。

「今夜、修行者ガウタマが亡くなるだろう」急がなければ、とスバドラは思った。「今、この時を逃せば、私はもう二度と真実の教えを聞くことはできないだろう。修行者ガウタマこそ、私に道を説くことができる唯一の修行完成者にちがいないのだから」こうしてブッダのもとに赴いたスバドラは、ブッダから真実の教えを授かり、最後の直弟子となった。

ブッダは力尽きたようにぐったりと横になっていた。すでに大勢の修行僧が噂を聞きつけて、ブッダの周囲に集まり始めていた。未熟な修行僧たちは嘆きや悲しみを声に出し、体で表していたが、熟達した修行僧は感情を抑えて、無常の真理をかみしめながらブッダを見守っていた。アーナンダはブッダとの別れが辛く、悲しく、声を殺して泣いた。

「やめなさい、アーナンダ。悲しむな、嘆くな。お前にはもう話したはずだ。愛しいもの、好きなものとも別れ、離れ、生存の場所を異にしなければならない。およそ生じたもの、作られたもの、存在するものは壊れ去る。その理から逃れるものはない」

そのあとでブッダはそっとアーナンダに耳打ちをした。

「お前は特に婦人に人気がある。よく気を付けて、慎みなさい」

アーナンダはブッダの言葉をしっかりと脳裏に刻み込んだ。長年の修行の間に聞いたブッダの言葉は、ひとつとして逃がすことなく記憶に残っていた。その言葉のどれもが金色の清浄な輝きを放っている。

ブッダ (26) 

しばらくの沈黙のあと、ブッダは集まった修行僧たちに最後の言葉を告げ、完全なる涅槃に入っていった。

修行僧たちよ、すべての営みはうつろい、過ぎ去っていく。ひとときも怠らず、修行に励みなさい。

 

ブッダの葬儀後、長老たちが集まり、今後の教団運営について話し合った。長老として長らく教団を率いてきたシャーリプトラとマウドガリヤーヤナの二人はすでに亡く、マハーカーシャパが長老のまとめ役となっていた。

「ブッダの教えと戒律がどのようなものであったのか、確認しておかなければならない。無用な混乱を避けるためにも」

教えについては、二十五年間ブッダの側にいたアーナンダにその大役が任ぜられた。悟りを啓いていないアーナンダは、その日までに悟りを啓くよう、マハーカーシャパから言い渡されたのだった。

早く悟りを啓かなければ、大事な役目を充分に果たせない。アーナンダは心を静めてブッダの言葉を思い起こす作業に没頭した。しかし結集前夜になってもアーナンダは悟りを得ることができなかった。自分は至らなかった。けれど、明日は自分ができる精一杯のことをしよう、私には力はなくとも、ブッダの言葉には力があるとアーナンダは思った。

床に就こうと目を閉じた瞬間、ブッダの声が聞こえた。

「アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた」

心に染みこんでくる懐かしい声だ。ブッダよ、アーナンダはこみ上げてくる涙を抑えてつぶやいた。ブッダは常に暖かく見守ってくださった。自分の至らなさで迷惑をかけたし、心を煩わせるばかりだった。けれど、ブッダは大いなる慈悲で包み込んでくださった。

「お前は善いことをしてくれた」

自分は善いことなどひとつもできていない。それでもなおブッダは、お前は善いことをしてくれたと声をかけてくださるのだ。私はもう迷うのはやめよう。ふっと全身から力が抜け、こわばりが取れた。自由な、軽やかな心持ちになった。翌日、アーナンダは大いなる慈悲に包み込まれている喜びを感じながら、清々しい気分で結集の場に立った。

「私はこのように聞きました。ある時、ブッダは……」

スバドラの逸話からは、本当に最後の最後まで、人々の苦を滅するためだけのために、真実を説いておられるブッダの姿が胸に迫ります。さまざまなカーストの弟子たちを平等に見て導いてこられたブッダ、雨の日も風の日も動じることなく托鉢に出られるブッダ、人々の話を真摯に聞き、誠実に教えを説かれるブッダ、いつも穏やかでにこやかに微笑まれるブッダ、二十五年間、ブッダの側にいたアーナンダでしたが、苦しむ人々のため真実を説かれ続けた、血の通った人間ブッダのお姿、いつも愛深く見守ってくださっていた師のお姿そのものが、アーナンダの心の目をひらかせ、悟りへと向かわせたのだと思いました。ブッダは偉大なヨーギーであったと私たちの師は教えてくださっています。時空を超え、ブッダは今も私たちの側にいて、優しく見守り、助けてくださっている、そんな安心感を胸に覚え、私はこの本を読み終えたのでした。

ダルミニー