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ちょっとしたグル(師)の行為 ⑵

今日から8月、夏本番ですね〜🌞
梅雨も明け、私は介護の仕事の外出支援も増えて、京都御所や清滝などに行ってきました。(三密は回避してコロナ感染対策はもちろんしております)
暑い日に外に出るのは大変さも感じるのですが、コロナ禍でステイホーム期間も長引いているためか、やはり青空の下、太陽の光を浴びて汗をかくのは清々しいものです。

嵐山を北西に上がったところにある清滝。水がとっても冷たく、オアシスでした。

私は今年、外の仕事が重なっているため、わりと日焼けしているなと感じるのですが、11年前の夏はその数倍日焼けしていました。
その理由はというと……
以下に書き記しました。
連載『ちょっとしたグル(師)の行為』の第2回目です。


「気の抜けた炭酸みたいに眠りこけとるな!明日からランニングや!!!」

11年前の7月の終わり、約3ヶ月の師とのニューヨーク滞在の折り返しの頃、私ともう1人の滞在者アミティ(当時は井上さん)が師のアーサナ・瞑想クラスから帰ってきてほっこりしていると、それまで穏やかであった師が急変、語気を強めてそのようにおっしゃられました。そう、この日のクラス、否、ほとんどのクラスでアミティと私はアーサナで疲れ果てて瞑想中にコックリ&ウトウト……体力も気力もない、まさに「気の抜けた炭酸たち」に師はランニングを命じられたのでした。

翌朝、まずはランニングシューズを探しに出掛けました。師は私の履き心地を重視され、またデザインもユニークな靴底がイエローでジグザクになっているリーボックのランニングシューズをセレクトされました。師はそのデザインを見て、「馬の蹄みたいやな!」とおっしゃられました。(ちなみに、このランニングシューズは使用禁止のマラソン大会が出るほどクッション性や推進力が高いものだったようです)

次にアミティのランニングシューズを探したのですが、とあるお店の倉庫みたいな地下のところに入っていきました。そこには大きな段ボール箱が置いていて、黒のマジックペンで「$19.9」と書いてあり、その中にたくさんのスニーカーが乱雑に詰め込まれていました。師は屈んでその段ボール箱の中から必死になってスニーカーを探し始めました。私は「こんなところにあるはずがない」と思って横で見ていたのですが、そんな心の声が聞こえたのか、ぼーっとしている私に「自分も探さんかい!」と一言……私も一緒になって探し、そしてなんと驚くことに、そこでアミティにジャストサイズのお宝スニーカーを1足どころか2足も発掘&ゲット!!!

その後ケーヴに戻って昼食をとり、これからランニングなのかなと思いきや、次はなんとランニングウェアを探しにいくことに……!!
スポーツ用品店で購入するのかなと思いきや、そのようなところには行かず、カジュアルな洋服屋や古着屋を見て回りました。師はかなり吟味をされ、とはいっても怒涛の勢いで選ばれ、すべてが決まったのが19時を回っている頃でした。この日は夜も遅かったので、日本食のお店で夕食をいただき、帰宅しました。

マラソン選手のようなアミティ。色鮮やかなトータルコーディネートと肌の色が際立っています。それにしても真っ黒に焼けていますね笑。愛媛に帰るとしばらくの間は、すれ違う人に振り返って見られたそうです。

ニューヨーク曼荼羅のようなTシャツ。スケーターブランドです。残念ながらスニーカーの写真は残っていませんでした。。

私にとって、この1日はただの買い物の日ではありませんでした。大袈裟ではなく、人生が変わった1日でした。ヨーガをしにきたのにランニングを命じられ、ヨーガとは関係のない服やスニーカーを選び、さらにその師の買い物の仕方・選び方、その必死さたるや、自分の今までの価値観やセンス、観念が一気に破壊されたのでした。すべてが否定されたように感じ、その時私はとても情けなく辛かったのです。

しかし、そんな傷心を引きずったりお落ち込んでいる暇すらもなく、次の日から1ヶ月半、毎日ランニングをしました。大した距離は走れませんでしたし、長年の運動不足と怠惰な生活もたたってしんどかったのですが、走ってみると何だか中学生に戻ったかのような清々しい感覚で、とにかく毎日のご飯がとても美味しく感じられました。日焼けした私がご飯を必死に食べる様子を師は嬉しそうに見ておられ、その視線が今も心に強く残っています。

この道を通って、バッテリーパークまで走っていました。

ちなみに約3ヶ月のニューヨークの滞在で師と外食したのは後にも先にもあの日本食のお店の一度きりでした。
飲食店だらけの欲望の渦のようなニューヨークで外食をされない師の行為にも同時に驚かされたのでした。

ゴーパーラ


私ヨガ!~私も実践できるヨーガ

今年に入って仕事を探さなければいけなくなった。これまでずっと慣れた仕事に携わってきたけれど、会社の都合で勤務日数が減ったのだ。新しい仕事が私にとって更なるヨーガ実践の場になるようにと願いつつ仕事を探した。この先いつまで働けるかということも含めた自分の年齢や給与、等々を考えると、介護職が好条件の一つとして上がってきた。介護の資格は両親の介護の為に10年ほど前に取得していた。でも実は介護の仕事は避けていた仕事でもあった。
避けていた大きな理由は、両親の世話は自分の親だから、何があっても(例え怪我をさせるようなことがあっても)自分が全責任を持ってすることができるけど、他人様の身体を大袈裟に言えば命を預かってお世話をするのは私には荷が重い、と感じていたことだった。
そう思う反面、会ったことのない先輩グルバイが医療現場で正に献身奉仕に生きておられる姿を過去のブログから知り、そして今もそのように行為し続けておられることをたまたま伝え聞いたりすると、その姿にもの凄く憧れた。そんな中、あるオンラインミーティングで別の先輩グルバイが、自分はヘルパーをしているとおっしゃったのを聞いた瞬間、私の心が「かっこいい!」と叫んだ。仮面ライダーのように(古い?)首にスカーフをなびかせ、バイクにまたがった先輩の姿が目に浮かんだ。そしてかっこいいと叫んだ自分の心に自分で驚いた。

ヨーガでは仕事は何でもよいと教えられる。それなのに今も介護職に尻込みする気持ちはなぜなのか、改めてよくよく考えてみた。そこには評価を恐れている私がいた。失敗することが怖かった。そして、自分の親と他人を同じように大切とは思えていない自分もいた。これは真理の教えに反しているなと気付いた。
気付いたけれども、さて、どうしよう?介護職と言っても働く所は色々あるし、Wワークかフルタイムか、それに別に介護職に拘らなくても、本当に仕事は何でもいいのだ。

「神様、どうか私に相応しい仕事を与えてください」
そう祈って眠った翌朝、ポストに入っていたのは介護の資格を取った事業所からの就業相談会の案内ハガキだった。これは神様のお導きと素直に思い、そこからはとんとん拍子にコトが進んで、4月から私はヘルパーとして週2日働き始めた。

短大を卒業してから、両親の介護で離職した時期を経て働いている慣れた職場の桂離宮。通勤は自転車で8分。

真面目に新しい仕事に取組み、しばらくしたら、とても疲れていることに気が付いた。自分の心を見てみたら、たまたまもらった良い評価を手放したくないと思っている私がいた。失敗しないようにと常に緊張しているから疲れるわけだ。私はこれまでもずっとこうだった。真理の教えを学んで頭では分かっていても、長年の自分の心の癖はそう簡単には修正されない。
だけど、これが真理でないことはもう嫌というほど頭では分かっている。心は思ったものになっていくなら、心が分かるまで繰り返し心に言い聞かせるしかない。ちょうど今、良いタイミングで受講している『誰ヨガ』クラスでは、毎回教えを自分に当てはめてできる実践をするようにと宿題が出る。私は今まで学んできた教えを何度も何度も心に言い聞かせ、日常の実践を繰り返した。
成功も失敗も、出来る出来ないも、どちらでも良いのだ。人生で大切なのは真理を悟ることであって、この世で執着すべきものなんて何もない。心が思うことなんて、何の値打ちもない!結果を見るのではなくて、目の前の瞬間瞬間を良くしていくように心を使うだけ!!

昨年ステイホームが始まった時にまとめて玄関に飾った教え(写真左)は、今も毎日読み返している。誰ヨガクラスの後にサーナンダさんが送ってくださるレジュメ(写真右) は、まるで心の処方箋のよう。

ヨーガを学んできたからこそ、新しい仕事をする中で自分の心がなぜ苦しいのかがあぶり出されてきたと思う。まず私は、評価イコール自分の価値だという思いをなかなか手放せないでいた。だから凄く凄くしんどかった。
そして、特に人間関係での良い評価、他人からの好意、良好な人間関係の中に自分の居場所を見つけて、そこに物凄く執着しているなあと気付いた。社会人になった時、特になりたい職業はなかったけれど人の役に立つ仕事がしたいと思っていた。今も、ありがとうと言ってもらえることがうれしくて、私の行為に良い反応を返してくれた人に対してはそれがまたうれしくて「もっともっと行為」して、またそれに対しての良い反応に「もっともっともっと行為」してる。そしてその心地好い関係性を手放したくないといつの間にか思ってしまっている。
最初の私の行為に対して普通の反応を返した人には対しては、私はただ「行為」を繰り返してる。これって、外からの刺激に対して無防備に反応してるということだなあと思った。悪い評価は気にしないようにと心掛けるけれど、良い評価、好意にも反応しないって意外と難しいと思った。相手がどんな反応であろうとそれは見ないで、どの人に対しても同じようにただ誠実に行為すべきなのに。
自分の判断基準の良い悪いを棄てて、好き嫌いに執らわれないこと。
そう思って仕事をしていたある日のこと。訪問先のご夫婦に私は好感情を持っていた。でも、そんな感情は横に置いて、「もっともっと行為」にならないように、ただやるべきことを淡々とやって帰ろうと思っていた。「ここまでやって終わろう」と思った瞬間、「これは神に捧げられる?」と思いが浮かんだ。
全ての行為を神様への捧げものにするなら、中途半端には終われない。思い入れを棄てるというのは自分の好き嫌いを棄てて、いつでもどこでも誰にでも「もっともっともっと行為!」100%の心を込めること、だと思った。
そして、評価イコール自分の価値という思いからなかなか抜けられなかったけれど、高齢になって自分でできないことが増えていく、そんな人は価値がないのかというとそんなことはない。何かが出来るとか出来ないとか、知ってるとか知らないとかは人の価値とは関係ないということが、理屈ではなくて言葉ではなくて、利用者さんといると分かった。だったら私も同じはずだ。みんな同じ尊い存在だということが今はわかる。

利用者さん宅へ向かう道の横には田んぼ。

ある時上司に言われて印象的だったことがある。
「人を相手にする仕事は決まった手順通りにはいかない。その中でいかに工夫して、やらなければいけないことをやるかだ」と。これは私に足りないものだなと思った。
確かに仕事で利用者さんを訪問すると、あるはずの物がなかったり、介護拒否にあったり、時には利用者さんが不在だったり、いろんなことがある。私はこれまで仕事でも何かをする時にはまずイメージして、必要と思われる準備をしていた。そうすることでたいていは上手くいった。でも反面、想定外のことが起こるとどうしたら良いか分からなくなってしまい、間違えるのが怖いから判断を他人に頼ってしまう。でもそもそも人生そのものが想定通りにはいかないし、その時にすぐに心を切り替えて、状況打破に向けて今やるべきことに集中しないといけない。そしてヘルパーの仕事は自分ひとりで何とかしなくてはいけないのだ。これが苦手だった私にとって、新しく与えられた仕事は正に最適の訓練の場だなあと感じた。

命の謳歌真っ最中の家のラズベリー、トマト、むくげ。 町内の親切なおじさんがラズベリーの棚を作って日当たり良くしてくださり、おまけにトマトを植えてくださった(感謝!)

後で分かったことだが、先輩グルバイのゴーパーラさんと私は同じ事業所で介護の資格を取っていた。これは絶対にクリシュナのお導きだ!と私は信じて疑わない。新しい仕事が更なるヨーガ実践の場となるようにと願い、その通りになった。いつも神様は導いてくださっている。だから実践を続けるだけだ。
早く目を覚まして、ヨギさんにもっともっと!!もっともっと!!喜んでいただくために!!!

吉岡恭子


ちょっとしたグル(師)の行為 ⑴

私にとってなすべき義務は何もない
しかし、私は行為する
人が私を見倣うように

ーー『バガヴァッド・ギーター』ーー

この世に何の義務や欲望のないクリシュナ(神の化身)が行為するのは、「人が私を見倣うように」という真理の行為の模範を人々に示し、真理に導くためです。

人は聖典を読むことで、真理を学び、実践することができます。しかし聖典の学びだけでは、真理を正しく実践し、体得することが容易ではないことは、霊的実践をしている人なら誰もが感じることです。

何事も人は、直接的に人から学ぶ方がダイレクトです。なぜなら、そこには生きた熱、息吹があるからです。その道のマスターなら尚更です。覚者・聖者、つまりグル(師)の行為が与える影響力というのは、聖典の何千倍もの威力があると私自身感じています。
それは「ちょっとした行為」でもそうです。

「見て覚える」「見て盗む」という習慣がなくなりつつある昨今、グル(師)に出会うまでの26年間、私自身もそういうことをしないで育ってきました。
ちょっと前ふりが長くなりましたが、そんな私がヨーガを実践していく中で、「ちょっとしたグル(師)の行為」を目の当たりにして驚き、学んだことをシリーズでご紹介したいと思います〜!


11年前の7月、私はニューヨークのケーヴ(NYミッションの拠点)に師と滞在していました。
まず師の行為に驚かされたのは、抹茶塩を天麩羅にかける時でした。師は小さい匙に抹茶塩をのせ、匙の肢をトントントンとして、美しく均等にふりかけておられました。その時、私はとてもエレガントだなぁと思ったのですが、すかさずアーナンダマーリーさん(ケーヴのホスト)が褒めていました。私も真似てみたのですが、無惨にもガサッと散乱。。

11年前のケーヴからの景色。(2010.7)

また師の行為はエレガントさだけでなく、大胆さも持ち合わせていました。
師は普段、料理をされないようですが、料理ができない私にケーヴでは時折、料理を作ってくださいました。素麺、天麩羅、お好み焼き、焼きそばなど、料理をしていない人とは思えないほど師が作る料理は美味しいのですが、ある時チャーハンを作ってくださいました。
私は補助をしながら、そばで見ていました。野菜を切る時は普通のご様子でしたが、いざ中華鍋をセットしてガスのレバーを「カチッ」と回した途端、師のスイッチも点火、烈火の如くチャーハンを炒めていました。。🔥
とても美味しくいただいた後、私は師に「チャーハンを炒めている時、火のように燃えて見えました」と伝えると、師は次のようにおっしゃいました。

「日本では聖者のことを『聖(ひじり)』って言うやろ? その語源は火(ひ)を知(し)っている者。つまり火をコントロール(制御)できるということなんや」

行為に裏打ちされたその教えに、私はただただ感嘆しました。真理を体現されたまさに「聖(ひじり)の行為」を間近で見た瞬間でした。

11年経った今、私はチャーハンを作っている時、「自分は火のように燃えているのかな?」とふと思ったのですが、そんなに燃えている気がしませんでした。。それもそのはず、そう思った時点で「私の思い」があり、「火そのもの」にはなっていないのですから。。

ゴールは遠し、しかし理想のみを見るべし!!!


7月24日の満月の日は「グル・プールニマ」です。
完全円満なグルの存在を讃え、感謝の思いを捧げましょう!!!

グル・プールニマについては、ここをクリックして読んでみてください👈🌝

ゴーパーラ


誰もが実践できる働きの秘訣

みなさんは学校の授業は好きでしたか? 私はというと……(お察しください)。
けれど今、楽しみにしている授業があります。それは誰ヨガ(誰もが実践できるヨーガ)です。自分自身の人生や心、幸せといった誰もが身近に感じ、時に思い悩んだりする事柄をテーマに、ヨーガではどう教えているのか、自身の生活でどう実践できるのかを学べるオンラインクラスです。
4月に開講し、月に一回、半年間をかけて学んでいきます。その期間は同じ顔ぶれのグルバイとZOOMで顔を合わせます。初回のクラスでは自己紹介をし、さながらクラス替え後の教室みたいだなぁと感じていました。担任の先生は先輩グルバイのサーナンダさんです。2時間のクラスの中では、「どうなったら本当に幸せですか?」、「なぜ働かないといけないのですか?」といった問いかけに向き合う時間があるため、講義の内容をより自分のこととして捉えやすいように感じます。

出勤途中に咲いている朝顔。目の覚めるような鮮やかな色で、気持ちよく仕事に向かうことができます。

5月に行われた2回目のクラスでは、「働きの秘訣」と題して私たちが働く理由、そしてどう働けばいいのかを教えていただきました。「生活のためだから」と、私は心のどこかで仕方なく働いているように思っていました。しかし、今の仕事を選んだのは自分です。選ばざるを得なかったのだとしたら、その原因を作ったのも自分です。私の場合ばっちり思い当たることがありますが、自覚していない過去世からの原因も作用しています。いずれにしても自業自得、つまりカルマということになります。新たなカルマを作ることなく、カルマを果たしていくような働き方ができれば、より良い自分になっていくことができるとこのクラスで教えていただきました。
一日の中で働いている時間は大半を占めています。(社会の中で勤めるといった意味合いに限らず、親などの役割や家事も含まれます。)しかも毎日のことです。ということは、そこでの行為次第で、多くの時間が自分をより良くするチャンスに変わるということになります。毎日がチャンス…?!何それ最高!!と私の瞳はきらめきました。本当に重要なのは何の仕事をするかではなく、「どう働くか」だったんです。
では、肝心の「働きの秘訣」はと言いますと…

・好き嫌い、不平不満を言わない。
・結果や他人の評価に執らわれない。
・目の前の仕事の目的を明確にし、余計なことを考えずに集中する。
・自分の思いばかりを見るのではなく、他者の喜びを自分の喜びとする。

どれもシンプルで、仕事の種類を問いません。そして、誰でも今すぐ実践できることです。「そうはいっても難しい…」と言い訳したがる心に負けてたまるかと、「ただやるのみ!できなかったとしても次の瞬間にもう一度チャレンジするのみ!!」そう言って日々自分と闘っています。少しでもこの秘訣を実践できれば、まず自分が楽(心身ともに軽やかに)になることを実感します。そうすれば周囲に気を配る余裕も生まれます。何より発散する空気が違うのではないでしょうか。入り口は自分のためのようであっても、自然と他者のためにもなっている、素晴らしい秘訣です。仕事の効率化や成果を上げる方法は多く説かれていても、こんな大切なことを教えてもらえる機会にはそうそう出会えないように思います。ヨーガを学んでいる、いないに関わらず、多くの人の助けとなる教えだと思いました。

海へ流れる川。奥は瀬戸内海です。身近な風景ですが自然の壮大さを感じ、大いなる存在に想いを馳せずにいられません。車の窓を開けて走ると様々な鳥の声が聞こえてきます。

私はこの誰ヨガの授業を受けているとワクワクしてきます。「秘訣」という言葉を辞書で調べると、“人に知られていない特別な良い方法。おくのて。”と出てきます。まさにそんなことを教えていただけて、知りたかったことはこれなんだ!!と体中から力が湧いてきます。最初にこのクラスを学校の授業のように例えましたが、この授業ではテストもなければ成績もつきません。その代わり、日常がテストです。参考書を頼りにするように、この強力な秘訣を頼りにして、私はカルマ(業)からの卒業を目指したいと思います!

このカードの裏面には、『バガヴァッド・ギーター』第2章48節の教えが記されています。 「アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。」 働きの結果に執われそうになった時、思い出す教えのひとつです。

 

大森みさと


マウナと信仰

松が開けたばかりの頃でした。
長年抱えていた心労で母の体調が急激に悪化しました。その時、大先輩の姉弟子に電話で相談させていただくことがありました。姉弟子は、根気よく聴いてくださって、複数回にわたりメールを頂戴し気遣い励まし下さると共に、熱意をもって次のように助言をくださいました。

  • 起こることはカルマのためであるから、自業自得と覚悟をもって受け止めて、その時すべきことを行なってゆく。
  • 波風が立つような話題に対してマウナ(霊的沈黙)を徹底する。
  • 目的をしっかり見据えて教えを手放さないように。

「師が姉弟子を通じて導いて下さっている」と有難さを感じながら、もしここで実践できなかったらと思うと奈落の底に落ちてゆくようで心は激しく動揺しました。けれどもカルマは問題と正面から向き合うことでしか昇華出来ません。怯む心を押さえて、頂戴したメールを読み返しながら向き合う毎日が始まりました。

マウナについては、形から入れることでもあり、とにかく徹底せねばと心して臨みましたが、波風の方角へと一方方向だった母の思考傾向が一時的にも停止して、スムーズに新たな話題へと心が切り替わってゆくのを目の当たりにしました。
私が行なっているのは本来的なマウナにはあたらないかも知れませんが、それでもマウナが単なる避難ではなく、積極的な傾向を生み出す実践的な教えであることをひしひしと実感するようになりました。

しかし受け止めるということに対しては、苦しみの原因を他者に求める傾向から抜け出せず、一旦受け止めたと思ってもいつの間にか思い煩いが入り込んでしまいます。
ある時、切羽詰まった状況でも滑稽なほど蒔いた種から逃げ回っている自分が情けなくなり、「このままでは教えを手放してしまう!」と真剣に一番大切なものを問いました。
「信仰」でした。
師に御縁を頂戴し信仰の本質を教えていただける機会に恵まれながら、不平不満を漏らす自身に気づき、本当に大切なものを大切に出来るようにならねばと以後不平不満にマウナすることを意識するようになりました。
十分に対応できた訳ではありません。しかし師の恩寵を頂戴し、母は奇跡的に快方に向かい、ひと月後にはこれまでとあまり変わらぬ生活を過ごせるまでに回復するにいたりました。

市内の山側集落栢野(かやの)町にある菅原神社。境内には4本の巨木杉があり、右の二又杉は樹齢2300年ほどだそうです。5年前に健康診断を受けましたが、いたって健康と診断されました。近づくにつれ神聖なプラーナを感じます。

師やマハーヨーギー・ミッションとご縁いただいていることは何という幸せかと思います。家庭やその他に難があっても克服へ向けて愛情深く力強くご助言いただける存在がある。
またパラマハンサやブログでは聖者だけが語れる真実を伺う機会に恵まれるとともに、そこへ向けて突き抜けてゆこうとするグルバイ(兄弟姉妹弟子)の情熱的なサーダナ(修練)の様子を知ることが出来ます。
石川県に住んでいるのでコロナ禍以前はアーサナクラスに参加出来る機会が限られていましたが、オンラインで開講となり毎週参加させていただけるようになりました。毎回全身にプラーナが行き渡るのを実感し、特に月曜日受講ですので一週間の活力源とさせていただいています。

昨年冬のオンラインでの親睦交流会を機にグルバイ4名で『マユーラ(孔雀)の会』を立ち上げました。孔雀が毒をも解毒して食べてしまうようにそれぞれの無知をミーティングを通じて浄化しあい、理想と目的意識を各自もって象徴とするところのクリシュナの境地に向かってゆこうと月1で開催しています。
直接グルバイと話す機会が中々無い私にとってこのような会に参加させていただけることは大きな喜びであり、また意識を持って日常を過ごす糧にもなっています。

マユーラの会の一場面(2021.1.23)

また先日は『フォカッチャの会』にも参加させていただきました。折しもブラザー・ローレンスについてのブログが掲載され感銘を受けた後でした。全てを神への礼拝として行為し、至福の境地を生きられた聖者に目標とすべき姿を見たような気がして、フォカッチャをいただきながらのトークも楽しい中にも色々と感化されることが多く、『マユーラの会』でも毎回思うのですが、目的を同じくするグルバイの存在の有難さをあらためて感じました。

そして何よりも揺るぎない存在を実現されたお方を知って、そのお方が常に見守って下さっているということがどんなに心強く有難いことかと思わずにはいられません。
コロナ禍のみならず世間に深刻な問題が渦巻く中も、ある意味安心感に包まれて日々過ごしてゆける。これほどの幸せはあるでしょうか。
数多の祝福にもかかわらず顔を出そうとする我欲を一刻も早く必要ないものだと納得させ、きちんと霊性の向上という形で感謝を表してゆけるよう精進に努めてまいります。

当地は『弁当忘れても傘忘れるな』といわれるほど雨の多い地域ですが、この日は快晴。 さんさんとおひさま降り注ぐ海岸にはたくさんのわかめ(手前の茶色の部分)が流れ着いていました。

オーム・タット・サット・オーム

竹下千佳


オンラインで「理想の聖者」について語らう!

6月に入りましたが、皆さま、いかがお過ごしですか?
こちら京都は緊急事態宣言が再々延長され、私の住む嵐山は観光客も少ない状況です。
そんな中ですが、5月は多くのグルバイ(仲間)とオンライン交流をしました!

「フォカッチャの会」では愛媛、金沢、和歌山、また台北のグルバイと楽しく有意義な時間を共有しました。

また、ニューヨーク・ミッションで行なわれている「Study In Practice (SIP)」にも3回続けて参加させていただきました。

「学ぶことを学ぶ」がテーマのSIPは、余談なしの真剣な勉強会で、終始ヨーガの話が展開されます。
「ヨーガは知識ではなく実践、そして体得」
そう師は教えられますが、「どうしたら知識ではない学びができるのか?」「自分の偏った考えに陥らずに学べるのか?」「どのようにヨーガの教えを日常に結び付けられるのか?」といったことを話していきます。
会に参加する中で、私自身改めて感じたのは、やはり「学ぶ」には「理想の存在」が必要不可欠だということです。
「こうなりたい」「こう生きたい」「こうすればいいんだ」という気付きや道標が、理想の存在を見つけることでより明確になるーー
つまり、理想の存在を持つことで、学び、見倣うことがより実際的になされ、修行者の大いなる助けになると思ったのです。

SIPに参加した数日後、フォカッチャの会のヨーガ・トークスの時間には、皆さんと理想について話をしました。

参加したグルバイたちは、それぞれ理想の聖者をもっておられ、そこに近づく努力をされていました。
以下、要約したものをご紹介します!

神に対してひたむきで真っすぐなスワーミー・アドブターナンダが大好きで理想としていますが、私は以前、人間関係に悩み、部屋で声を押し殺してよく泣いていました。そんな時、アドブターナンダのエピソードを読みました。「人気のないところに行き、泣いて神に祈らなければならない。その時に初めて、彼はご自身をお示しくださるだろう」というシュリー・ラーマクリシュナの教えを実践していたこと、「彼はこの世の何事にも頓着せず、人生の唯一つの関心ごとは師にどのように忠実にお仕えするかということだった」、これらに衝撃を受けました。「私は自分のことばかり考えて自分のために泣いている。こんなばかばかしいことは、もうしたくない!神を求めて泣きたい!神に対して誠実に真摯に生きたアドブターナンダのようになりたい!」苦しい時だったからこそ、真逆の生き方をしていたことに気付き、より深く心に響き、理想に生きたいと心底思うことができました。

・昔から闘う女性に憧れている自分がいて、その性質を棄てるのではなく、ある時から生かそうと思い、闘う女性の究極に女神カーリーを見出しました。また理想の聖者は、煉瓦に頭をぶつけるぐらい狂っているナーグ・マハーシャヤ、それしかないと思っています。

・以前、理想(の聖者)を決めかねていた時、先輩弟子から「気楽に決めていいよ」とアドヴァイスをもらいました。理想って気楽に決めてええの?と戸惑いつつ再考……スワーミー・プレーマーナンダの伝記の一節「彼は骨の髄まで清らかだった」に触れた時、「私には無理だ」とすぐに自分でもびっくりするほどの拒否反応が出た事を思い出しました。そして、なぜそれほどまでに拒否したのだろうとその原因を探っていく中で、逆に清らかさに憧れをもっている自分に気付き、プレーマーナンダを理想としました。彼に近づきたいけれど近づけない。壁を感じていたのですが、つい最近、どうにかしたいと七転八倒していると、「プレーマーナンダ」という「名前と姿」を超えた言葉では表せない『何か』が理想であり、更にその先に師のヨギさんがおられるのを感じました。
プレーマーナンダの言葉、「まずはじめに全身全霊でひるむことなく誠実であるように試みることだ。過去、現在、未来におけるいかなる時も、真理は必ず勝利する」が大好きです。

・最近、ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を読んで、とても感銘を受けました。この人生を彼のように神への礼拝に生きたいです!

理想について話すのは、本当にいいですね。
とってもポジティブになれます!!

最後に、私の理想の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの最高に力強い言葉を紹介させていただきます。

皆さん自身の心にむかって、「私は彼である、私は彼である」とおっしゃい。歌のように、それを昼夜、心の中に響かせなさい。そして死の時には、「私は彼である」と宣言しなさい。それが真理です。世界の無限の力は皆さんのものです。皆さんの心を覆っている迷信を追い払いなさい。勇敢になろうではありませんか。真理を知り、真理を実践せよ。ゴールは遠いかもしれない、しかし目覚め、立ち上がり、ゴールに達するまで止まるな!

今こそ、内面へのヨーガを深める時ーー理想を見つけ、学び、近づき、一つになる時だと感じます!!

誰かが間違ったボタンを押したら、こんな画面になりました。

ゴーパーラ


2021 T-SHIRTS PHOTO GALLERY

新しいTシャツが出来上がりましたーーー!!!
ヨーガ・サーラ・スタジオに引き続き、今回はヨーギー&ヨーギニーたちの着こなしと、歓びいっぱいの様子を写真でお届けします!

MAHAYOGI MISSION 45th Tshirtsとってもキレイな色で心も晴れやかになりますー!”
“素敵なデザインでとても気に入っています(^^) 今年の夏はたくさん着たいと思います〜”
“デザインが格好いいのは当たり前ですけれども、着心地もとてもいいです!”
“ヨギさんのデザインは洗練されていて、非の打ち所がなく、全く飽きがこない、最高です! それはまるで神がこの美しい宇宙をデザインされたかのよう”

MAHAYOGI MISSION 45th Tshirts“今日のスタイルにピッタリなので着てきました! 白、お気に入り!!”(会社の廊下にて)
“胸の中で光り輝いているアートマンを、ヨギさんが私たちにも見える形としてデザインしてくださり、Tシャツを着れば、同じ位置に確かにアートマンがあるのだということを感じることができて、うれしくなります。もっともっと近づきたいなという気持ちになります”
“大変きれいなTシャツですね。嬉しいことにうちの娘の胸にもヨギがおられます”
” 金色に輝くヨーギーと共に、サーダナ(修練)がんばります”

MAHAYOGI MISSION 45th Tshirts

Tシャツ

街の中や自然の中、職場やオンラインなど、さまざまなシーンで活用されているようですね!

*  * *

台湾ブログ
Tシャツを着たみんなの写真がアップされています!ぜひご覧ください。

Tシャツ販売中!!
マハーヨーギー・ミッション45周年記念Tシャツは予約販売を行ないましたが、若干在庫もあります。ご希望の方はお早めに!

 

 


フォカッチャの会は『Automatic(オートマチック)』

ゴールデンウィークですが、どこにも行けないですね。。
でも暗くなっていても仕方がないので、今回のブログは「ポップ」にいきたいと思います〜☘

最近、宇多田ヒカルの『Automatic』という曲を思い出しました。
私が中学生の頃、流行った曲です💿
特に好きな曲でもなかったのですが、あることがきっかけでその心に眠っていた曲の再生ボタンが押されました。
「心のサンスカーラ(潜在的な残存印象)が克服されていないのでは?」と指摘されたら本当に何も言えないのですが……😓、以下その経緯を説明させていただきます。

3月のブログで紹介された「フォカッチャの会」ですが、一応私は主催者でありまして、4月は要望も多く、2週連続で開催させていただきました。
このフォカッチャの会は、オンラインでの宿泊・交流会で、以下のプログラムで行なっています。

🌃土曜の夜:フォカッチャ生地の仕込み(15分)&ヨーガトークス
🌅日曜の朝:瞑想(45分)&フォカッチャ焼き(30分)&朝食・ヨーガトークス

私自身、当初はオンラインというツールには抵抗があり、巷で「オンライン飲み会」というものが出てきた時には、「そこまでして、誰かとお酒飲みたいか?」と思っていました。
しかし、このフォカッチャの会でオンライン交流してみると、師が毎日好んで召し上がっているフォカッチャを皆で作り、いただき、そしてヨーガについて語らうーー「これ、こんなに楽しくていいの?」と思うほど、毎回笑いの絶えない楽しい会になっています。

また朝の瞑想もオンラインで皆でする方が集中感が増し、清々しい気持ちになれます。
前回参加した松山のグルバイ(仲間)の方からは、「オンラインの特徴として、ヨーガが自分の生活に入り込む感じがいい」という感想をいただきました。
確かに、私自身もそうだと思いました。
コロナ禍でグルバイとなかなか交流できない日常生活にヨーガのプラーナが入り込んで、その集中や喜びに満たされるーー
オンライン上ですが、グルバイと密な時間を過ごすことで、「自動的にヨーガの状態になる」という感覚がありました。
それを思った時、自動的➡︎オートマチック、はい、それで宇多田ヒカルの『Automatic』が流れ出しました。
そして断片的ですが「君とパラダイスにいるみたい♪」という歌詞が出てきました。

「なんや、そのオチは!」と言われたら、「私は関西人ではないので」と言わせていただきます✋

話を戻します↩️、師は「フォカッチャはただ単純に美味しい」とおっしゃられているそうです。
そのようにフォカッチャを単純に美味しいから毎日いただくように、いつもただ「神だけを愛する」ことができたら、心は自動的にパラダイスになると思いました🏖

美味しいフォカッチャもいただけ、親交(神交)も深められるフォカッチャの会の参加申し込み、ぜひお待ちしております🙋‍♂️

ゴーパーラ


45th記念 NEW! Tシャツができました!!!

春の祝祭の歓びの余韻が続く中・・・とっても嬉しいお知らせです!
「待っていました〜!」という方もたくさんおられると聞いていますが、マハーヨーギー・ミッション設立45周年を記念したオリジナルTシャツの注文の受付をスタートしました!

 Tシャツには、マハーヨーギー・ヨーガ・アーシュラマが開設された当時(1976年)作られた看板(写真はこちらの記事に掲載しています)に、師が手描きされたヨーギーのシルエットそのものがデザインされています!!!
ゴールドのシンボルに、Mahayogi Missionのスクリプト系の白のフォントが美しくレイアウトされ、シンプルでとっても格好いい!大人っぽいTシャツに仕上がっています!

ヨーギーのシンボルは、私たちの本当の自己であるアートマン、そしてヨーガの守護神シヴァを象徴するものでもあります。着てみると、ちょうど胸の中央に黄金色に光り輝くアートマンが―—!!!
私たちの中に真実が在る!ということを常に思い起こさせてくれるTシャツになっていると思います!

 今回はなんといっても、カラーヴァリエが豊富! 半袖は全21色です! 使いやすいベーシックカラーから、夏の日差しに映えそうなヴィヴィットなカラー、そしてやさしい雰囲気のニュアンスカラーもあり!で、どれも素敵な色合いなので選ぶのも本当に迷います!

Tシャツ

左からライトグリーン、アクア、ライム。並ぶとグラデーションがきれい〜!

サイズは半袖のほうがユニセックス、レディース、キッズと3種類。女性がユニセックスをオーバーサイズっぽく着るのもいいですね!
また女性用には人気のドルマンスリーブも作りました! 薄手の素材でさらりと、ゆったり着れるので、夏場はとても涼しいし、なんといってもかたちがお洒落で可愛いです!

そして、喜ばしいことに、松山のヨーガ・サーラ・スタジオも全色同時発売されます!
レディースの七分袖は今回は松山だけですよ〜!

スタッフの4人。左からコーラルオレンジ(ユニセックス)、ショッキングピンク(七分袖)ミント(レディース)、ケリーグリーン(七分袖)。

Tシャツのデザインは、師が一昨年ニューヨークにご出発される前から取り掛かってくださっていて、変更や微調整を重ねながら今春、仕上がったものです! カラーの選択も本当に吟味してくださいました。
デザインワークスにご尽力くださった師に心から感謝いたします。

Tシャツのサイズ、カラーのラインアップ、ご注文についてはこちらをご覧ください。
受付締め切りは4/24。ご注文お待ちしております〜〜〜!!!
https://www.mahayogi.org/other/2021mymt-shirts

マードゥリー 


神のかくれんぼ

「もういいかい?」「まーだだよ」

私は小さい頃、ときどきですが、『かくれんぼ』をして遊んでいました。
鬼になった人が目をふさぎ、「もういいよ」の声で、隠れん坊を探し出す遊びです。
今の子供たちもしているのでしょうか👀?

今回のブログは、『神のかくれんぼ』についての物語をご紹介させていただきます。

あるとき、裕福な商人が商用で旅に出た。
実業家に変装した泥棒が彼の道連れになり、チャンスがあり次第、彼からお金を盗もうと狙っていた。
毎朝、彼らが泊まっていた行きずりの宿屋を出る前に、商人は決まって明けっ広げに彼のお金を数えてからポケットに入れた。
そして夜になると商人は、見たところ怪しむ様子もなく眠りについた。
商人が眠っている間に、泥棒はいつも必死に商人の持ち物すべてを調べるのだが、お金を見つけることはできなかった。
失望に終わる宝探しの夜を何度か味わった泥棒は、結局諦めて彼の本当の意図を商人に白状した。
そして、どうしてそんなに上手くお金を隠せたのかを教えてもらうように懇願した。
すると商人は、何気なく答えた。
「私は、最初からあなたの企みを知っていました。ですから毎晩、あなたの枕の下にお金を置いたのです。あなたが決して見ようとしない、唯一の場所がそこだと十分承知していたので、私は安心して眠れました」

泥棒(心)は外の世界に財宝があると思って探し求めます。
しかし、至高の財宝(神・真実)は泥棒が決して見ようとしない唯一の場所、心の内奥に神ご自身が隠されたという、何ともトリッキーな神のお遊びをこの物語は隠喩しています。

私はこの物語を読んだ時、「今、ここに、この瞬間に、神(真実)は在る!」そう思い、ハッとさせられ、心の内側に意識がグッと引き戻されたのでしたーー

「もういいかい?」「もういいよ」

私、大人になっても、かくれんぼやってるなと感じます。

心は目隠しされた鬼ーー
「もういいよ」の神の呼び声で心の目を開いて瞑想し、神を探求しているのだと思いました👹💨

そして、「みーつけた!」と言って笑いたいです、無邪気な子供のように😄

愛するクリシュナが突然お隠れになり、クリシュナを探し求めるゴーピーたち。 再び彼女たちの前に顕れたクリシュナは、次の弁明をします。 「手に入れた財が失われたとき、財をなくしたその人は、それのことばかり考えて、他のことは気にもとめないように、それと同じように、女たちよ、私のために世の常識も、ヴェーダの規定も、自分の身内も、放擲し去ったあなた方を、私に信順させるために、私は眼に見えぬ姿をとって、密かに隠れてしまったのだ」

ゴーパーラ