ラーマクリシュナの弟子たち」カテゴリーアーカイブ

聖典に親しむ〜『不滅の言葉(コタムリト)』

インドの大覚者シュリー・ラーマクリシュナの教えや出来事を、弟子であるM(マスター・マハーシャヤ)が書き残した『不滅の言葉(コタムリト)』。今年はブログで3回、この本からの教えやエピソードをご紹介しました。
『不滅の言葉(コタムリト)』は第1巻から第5巻まであります。少しずつ読み進めていましたが、先日最後まで読み終えました。第5巻の最後には、本を出版したMへヴィヴェーカーナンダやホーリーマザーからの手紙が掲載されています。手紙には『不滅の言葉(コタムリト)』を出版したMへの感謝の思いが綴られていますが、私も同じく感謝が溢れ頷きながら読みました。少しご紹介します。

有り難う!十万遍も有り難う、校長先生!あなたは正に、ラーマクリシュナの真実の姿をつかまえた。僅かの人しか、ああ、実にほんの僅かの人しか彼を本当に理解していないのです!私のハートは歓喜のため跳ね上がり、そして今後、この地球上に平和の慈雨を降り注ぐであろう思想の海の真っ只中に、すべての人が乗り出していけることを知ったとき、嬉しさに気が狂わないでいる自分を不思議に思っています。
(ヴィヴェーカーナンダから校長(M)への手紙)

本を読んでいると、まるでその場に同席させて頂いているかのような臨場感があります。ラーマクリシュナがどのようにお話をされて、どのように過ごされていたのか、弟子たちとの交流を目の前で見ているかのように感じることができます。それはMの記録と編集のおかげであることが、次のヴィヴェーカーナンダの手紙からわかります。

言葉使いも、何といって誉めたらよろしいのか――申し分ありません。活き活きとして、鋭く、かつ又すっきりとしてわかりやすい。私がどんなに楽しく読ませていただいたか、いちいち例をあげてここに説明できないのが残念ですが、読んでいると我を忘れてしまうのです。不思議でしょう?
(ヴィヴェーカーナンダから校長(M)への手紙)

この本が、時代を超えて地域を超えて、今日本にいる私の元へ届けられているのはMの偉大な働きのおかげです。ヴィヴェーカーナンダと同じく、十万遍もありがとうございます!という気持ちです。また翻訳をしてくださった田中玉さんにも同じく、十万遍もありがとうございます!という気持ちです。こんなにも素晴らしい本を誰もが手にとって読むことができるとは、何という幸運でしょうか。
そして私にとっては、ラーマクリシュナの優しさは私たちの師であるヨギさんの優しさ、ラーマクリシュナの眼差しはヨギさんの眼差し、ラーマクリシュナの純粋なお姿はヨギさんのお姿と重なります。本を読んでラーマクリシュナを感じることでヨギさんを感じることにもなります。ラーマクリシュナへの敬愛が深まるのと共に、ヨギさんへの敬愛も深まります。
本当に素晴らしい本をありがとうございます。
また最初から読んで、何度でも歓喜を味わいたいと思います。

M(マスター・マハーシャヤ、校長)が『コタムリト』を書いている姿を想像して描きました。

サルヴァーニー


『ホーリー・マザーの生涯』に触れて

マザー(サーラダー・デーヴィー)に聖典を通してお会いできたのは、ヨーガを始めて比較的早い時期でした。その頃の私は、マザーの生涯に触れる度に、考えられないほど多くの家事を淡々とこなし、日夜、家族の問題を抱えられている・・・他者の幸せを喜び、苦しみに泣かれる姿を想像し、なんて大変なんだろうという思いでいっぱいになり、憧れというよりは遠い存在に感じました。しばらくは聖典を手に取ることもなく本棚に並べたままになっていました。

けれども、今年の春の祝祭では「サーラダー・デーヴィー」に焦点が当てられることになり、バクティ・サンガムのクラスでは毎回マザーを讃える歌や、講師の方が聖典を通して彼女の生き様からどのようなことを学んでいったのかを教えていただく時間がありました。クラスで学びながら、久しぶりに聖典を取り出し、もう一度、読み進めていきました。改めてマザーの生涯に触れると、前とは違う気付きがありました。それは大変なことが多かったかもしれないマザーの生活は、霊性の修行が礎にあって成り立っているということでした。

“大小を問わずひとつひとつの行為に、神との全き合一であるヨーガを実践しておられた。彼女と神のご意志はひとつだった。家住者でありながら、出家者に定められた放棄の理想から決して逸脱されることはなかった。不快な務めを避けられることも、快い務めを歓迎されることもなかった。あらゆる活動の最中にあって、決して神を忘れられることはなかったのである”

『ホーリー・マザーの生涯』より抜粋

マザーが実践された修行は、とても凄まじいものだったと思いますが、このことに気付いてからは、私たちもヨギさんから教えていただいたアーサナや瞑想、聖典の学習などの修行をしているのだから、少しずつマザーに近づいていけるに違いないと、マザーの存在を以前より近くに感じられるようになっていきました。

そんな時、職場で、準備から当日の発表まで何カ月もかかる仕事を任されることがありました。そしてその仕事が終わってからも、なかなか忘れられずに抱えたままになっていて、ふとした時に思い起こされる日が続いていました。アーサナをしていても、ちょっとした隙に思い出してしまう・・・もう捨て去りたいと思いながら瞑想に座りました。瞑想に座ってしばらくすると、マザーが近づいて来てくださり、真剣な表情で「一体それは誰の仕事だというのですか」と言われました。思いもよらないお導きでした。そのお言葉に気付かされ、抱えていたものは消えていきました。神と一体であられるマザーの力強いお言葉に救われ、常にお傍にいてくださっていることを感じました。

日々の務めのただ中にありながら、常に心は神に向けられ、内なる平安を乱されることはなかったマザー、神聖の権化であられたマザーに謹んで礼拝いたします。これからもマザーの生き様に瞑想し、もっともっと近づいていきたいと思います。

毎日、自然の美しさを感じながら、賀茂川沿いを自転車で走って通勤しています。
賀茂川の清らかな流れを見ると、純粋なマザーのお姿を思い出します。

桜井みき桜井みき

 

 


泥棒アムジャッドの信仰とホーリー・マザーの愛

「私は徳のある者の母。そしてよこしまな者の母。悩める時にはいつでも自分に言い聞かせなさい。『私にはお母さんがいるのだ』と」。

ホーリー・マザー(シュリー・サーラダー・デーヴィー)は、全く驚くべきことに、あらゆる人々に対して平等に接していました。それを示す逸話はいくつかありますが、その一つに盗賊のアムジャッドの話があります。アムジャッドはイスラム教徒の盗賊の一人でした。ホーリー・マザーはそうした人々にもお仕事を用意し、親切にされていたのですが、周囲の人々の中には不可触民とされていた彼らをぞんざいに扱う人もいたようです。マザーは、しかし、「シャラトが私の息子であるのとまったく同じように、アムジャッドも私の息子なのです」とおっしゃり、アムジャッドに対して親身に接しました。シャラトというのは、シュリー・ラーマクリシュナの高弟の一人であるスワーミー・サーラダーナンダのことです。スワーミー・サーラダーナンダと盗賊のアムジャッドが同じというのですから、まったく驚くばかりです。

あるとき、泥棒のアムジャッドは心身ともボロボロになって、病床にあるホーリー・マザーを訪ねます。それを見て、ホーリー・マザーは「我が子のアムジャッドではありませんか」と迎え入れたのです。そして、彼に沐浴をさせ、彼の空腹を満たし、新しい布を与え、お土産もたくさん渡されて、アムジャッドはやってきた時とは別人のようになって帰っていったそうです。その後、アムジャッドはホーリー・マザーに珍しい果物を持ってきたりして、マザーに献身するようになりました。けれども、それでもアムジャッドは泥棒をやめることができず、何度も捕まって、牢獄に出たり入ったりしていました。それでも、ホーリー・マザーはそのような犯罪行為にはなんら留意されずに、常にアムジャッドに対して非常に情け深い様子で接しておられたそうです。最期の病で伏せっておられるときには、アムジャッドは強盗を犯して逮捕されていました。それを知らされて病床にあるホーリー・マザーは、「アムジャッドが古い悪癖をやめていないことはずっと知っていましたよ」と言われたと伝えられています。

悪行を止めることができない者を「我が子」と呼び、深い慈悲を与えるマザーのこの逸話を読んで、何度も涙をこぼし、「ああ、お母さん!」と叫んだのは私だけではないでしょう。ここで救われるのはアムジャッドだけではなく、全世界のあらゆる罪人たちであろうと確信するのです。

けれども、何度か読んでいるうちに、アムジャッドがマザーの深い慈悲を受け取ることができたのは、彼の中にある純粋な信仰心、ホーリー・マザーへの純粋な愛ゆえなのだろうと思い至りました。アムジャッドの犯した犯罪というものは、彼の癖であり、直すのはとても難しいけれども、本質とはかけ離れたもの。だからこそ、ホーリー・マザーは癖を相手にせず、本質だけを慈しみ、そしてアムジャッドもその純粋な信仰心を持ってその愛を受け取ることができたのでしょう。ここにはホーリー・マザーとアムジャッドの本質、魂の関係だけがあって、星がまたたく夜空のような深く広大な美しさが広がっています。

私たちは、いくらでも間違いを犯してしまいます。それが積み重なって、悪い癖もいくつも持っています。悪い癖と格闘してなんとか直そうとしますが、それは本当に苦しくて、難しく、何度も失敗して絶望します。それでも、どんな絶望の淵にあっても、ホーリー・マザーの愛を受け取ることができますよう、純粋な信仰を持ち続けたいと切望するのです。

そして、同じように悪い癖で苦しむ人々に対しては、ホーリー・マザーがアムジャッドに対して与えられた寛容さを真似していくことができるのです。ちょうど少しばかり理不尽な行為を受けたことがありました。それで、そっと「それはこの人たちの癖なのだ」と呟いてみました。するとどうでしょう。そんな理不尽なことがらに対する思いも、みるみる「窓を開けたので、風が入ってきたよね」という程度の出来事に変容していき、寸前のところで、怒りをぶちまけるという罪から逃れることができたのです。ああ、お母さん、なんとあなたの愛は大きいのでしょう!

*参考・引用・抜粋 『ホーリー・マザーの生涯』

笹沼朋子


マザーに導かれて

マザー(サーラダー・デーヴィー)に初めて出会ったのは、ヨ―ガのクラスに通い始めて間もない頃、先輩グルバイからマザーの本を勧めていただいて読んだ時でした。馴染みのないインドの風習や、時代も今から百年以上前のお話でしたが、本を読むうちに不思議に風景がリアルに感じるようで、自分がマザーのお側にいるような気持ちになりました。そしてマザーが大好きになっていきました。
クラスでシャヴァ・アーサナ(休憩の形)の時に「何も考えないで」と指導されても、目を閉じるとマザーのお姿が浮かんでくるほど、マザーのことを思うようになっていきました。
私がマザーを思う時はいつも、自分が小さな子供のようにマザーの膝に甘えているような、そんな気持ちになります。それはきっとマザーが、

「私は、善人だけでなく、悪人の母でもあります。私を母と呼ぶ人に、決して背を向けることはありません。子供が泥や埃にまみれていたら、汚れを拭って膝に抱いてやるのが母の務めではありませんか」「困った時はいつでもあなたを守っている母がいることを思い出しなさい」

と言ってくださっているからだと思います。日常で誰かにそんなふうに言われても、私はきっと素直に受け入れることはできないだろうと思うのですが、実際にお会いできなくても、マザーのお言葉は心の奥で確かに真実だと思えるのです。

♦♦♦

今年の春の祝祭は、大好きなマザーをお祝いする会でした。
祝祭に向けてマザーへの讃歌を練習する機会を設けていただいて、何度も練習を重ねました。優しいメロディーはマザーの愛そのもののようで、歌う度にマザーに包まれているような幸せでいっぱいになりました。
祝祭当日は、初めて京都の会場で参加させていただいたのですが、祭壇の美しさや聖劇の迫力など全てが感動的でしたが、中でも一番心に残ったのは、大きなスクリーンに映し出されたマザーのお写真の数々です。マザーの瞳は例えようが無いような輝きに満ち溢れていました。マザーの瞳の先にはシュリー・ラーマクリシュナがいらっしゃって、全てに師を見ておられるのだと思うと、マザーの強い信仰心と汚れのない純粋さに感動しました。

いつも私のことを、母なるマザーが、そして最愛なる師、ヨギさんが見守っていてくださっているから、私は勇気を出して一歩一歩歩みを進めることができます。

大好きなマザーのように、私もいつか全てにヨギさんを見れるように歩いていきたいです。

小野ちさ

 


ホーリー・マザー ナハヴァトでの日々

4月7日に行なわれた春の祝祭では、インドの聖女ホーリー・マザーことシュリー・サーラダー・デーヴィーに焦点を当てて、祝辞や映像、聖劇などを通じて色々な角度から彼女に迫っていきました。
その中のひとつで、ホーリー・マザーが生涯最良の時期だったとおっしゃった、ナハヴァトでの暮らしをご紹介しました。師であり夫であったシュリー・ラーマクリシュナの導きのもと、ナハヴァトで暮らした約10年間は、教えと喜びとユーモアが詰まったかけがえのない日々でした。祝祭では時間に限りがあったので厳選してご紹介しましたが、その内容に加えていくつかのエピソードをイラストと共にブログでもご紹介します。

ナハヴァト この建物の中央1階にマザーのお部屋がある

●シュリー・ラーマクリシュナはマザーの霊的修行を注意深く見守って、マザーが規則的に瞑想するように計らっておられました。朝3時、師はナハヴァトの扉のところまで行き、マザーと一緒に暮らしていた姪のラクシュミーに声をかけました。「起きるのだ。そして叔母さんを起こしておくれ、いつまで寝ているつもりだ。夜が明けるぞ。瞑想を始めなさい」
冬の間、マザーはラクシュミーをもう少し長く眠らせてやりたかったため返事をしませんでした。すると二人がまだ眠っていると思われた師は、時々扉の下に水を注いでからかわれました。マザーたちは寝床が濡れてしまわないように急いで起き上がらなければなりませんでした。こうしてラクシュミーは早起きの習慣を身につけました。


●ある朝、具合の悪かったマザーは3時に起きられませんでした。こうしたことが数日間続きました。これが心のトリックであることをすぐに理解したマザーは、いつもの時間通りに起きるよう自らに強いました。不動の意志と決意なくしては霊性の生活が成功できないことを、後にマザーは語られています。
●ナハヴァトと師のお部屋は20〜30メートルの距離でしたが、師の男性の弟子が増えてお側に仕えるようになってからは、マザーが給仕をしたりお側にいることが叶わないことがあり、時には2ヶ月もお会いできないこともありました。そういうときマザーはポーチの仕切りの小さな穴の後ろに何時間でもたたずんで師の歌声に耳を澄ませました。
そんなマザーの様子を知っておられたのでしょうか、法悦状態の中で、自室で信者たちと歌って踊られる時の師は、ナハヴァトに面している扉を開けっ放しにするようにと言われました。「この部屋は神への強烈な思いと愛に溢れているだろう。彼女がそれをみなければ、他にどうやって習えようか」


「師が歌われると、私はナハヴァトのすだれの陰にたたずんで、そのお声を何時間でも聞き続けたものでした。歌が終わると、合掌して師にお辞儀をしました。なんと喜びに満ちた日々を過ごしたものでしょう!昼も夜も引も切らず人々が押し寄せ、霊的なお話しは終わることがありませんでした」
●マザーはかなりの時間とエネルギーを料理に費やしました。中でも胃が弱かったため特別な食事が必要だった師に料理をして差し上げるという責任ある務めは、最も大きな喜びでした。師は皿に山盛りの料理を見ると消化不良を恐れて手をつけられないことがあったため、ご飯を小盛りにして押し固めたり、ミルクを煮詰めて少なく見えるようにしたり、師が栄養を摂れるように様々な工夫をされました。そのおかげもあって、師は健康を増進されました。
●師は、若い弟子たちの日々の習慣を厳しく見守っていて、怠惰になって翌日早朝の瞑想を怠ることのないよう、夜は食べ過ぎないようにと忠告しておられました。一方、彼らの食事を作っていたマザーは、彼らの健康に気を使い、充分に食べられるよう配慮しておられました。ある弟子が決められていたよりも2〜3枚余分にパンを食べていた時、師はその原因がマザーの母親らしい心配りにあることを知られました。師は、このようなことを今後は禁じると伝えましたが、マザーははっきりと言いました。


「パンを2〜3切れ多く食べただけで、なぜご心配なさるのです。私がここの子供たちの世話をしております。あの子たちを食べ物のことで責めて欲しくはありません」
師はこの言葉の背後にあるマザーの母としての感情を理解して、笑って済ませられたと言います。
●マザーは幼い頃から弟たちの世話をすること、貧しい者に食物を施すこと、そして後にはドッキネッショルで師の若い弟子たちの面倒を見ることなど、多くの方法で本質的に女性に見られる母性を体現されました。当時のヒンドゥー社会の背景もあり、マザーも時折子供を持つことを望まれました。ある日師はマザーの思いを読み取って言われました。


「なぜ思い悩むのだね。私が純金のように純粋な子供たちを残してあげよう。女たちが何百万回生まれ変わって祈りを捧げ、苦行を行なっても得難い子供たちを。世話を仕切れないほど大勢の者がお前を母と慕うだろう」
それでもマザーは「お母さん」という甘美な言葉を聞きたがりました。再び彼女の気持ちを読まれた師は、カルカッタから弟子たちが来ると、師の部屋に入る前にナハヴァトの前で立ち止まって、大声でこう言うようにといわれました。「お母さん、ただいま!」


マザーは瞑想や霊性の修行のために、日々の務めをおろそかにすることは決してありませんでした。そして仕事を口実に礼拝をなおざりにすることも決してありませんでした。
マザーのお部屋は3畳弱で窓もない場所でした。その様な窮屈な生活に耐えられる人はほとんどいませんでした。けれど、ガンガーや寺院の聖なる雰囲気、信者たちのための奉仕、師の世話をすること、そしてマザー自身の霊性の修行と体験が、マザーの心を肉体的苦痛に優るところに引き上げてくれました。ナハヴァトでのマザーの日々は、絶えざる活動と祈りの静寂に交互に満たされていたのです。
マザーのナハヴァトでの日々を思うと、心が聖なるもので満たされ、活力が湧いてきます。マザーを見習い、不動の決意と意思を持ち内面を充実させて、霊性の修行と日々の務め両方を果たしていけますように。

ジャイ シュリー・サーラダー・デーヴィー!
ジャイ シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサ!

サルヴァーニー


春の祝祭のご案内

京都の街並みにも桜の花があちこちに咲き始めました。
青空の下、満開の桜を目にすると、心の奥に光が差し込んだように、まるで冬の寒さでギュッと凝り固まっていたものが溶かされたような、そんな晴れやかな気持ちになります。

さて、そんな春風の中、4月7日(日)には、「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー ーー神性示現大祭ーー」を開催いたします。

この大祭は、古来より連綿と続く永遠の真理であるサナータナ・ダルマと、その具現者であるアヴァターラ(神の化身)たちの顕現をお祝いし、最上の感謝と歓びを捧げさせていただく祝祭です。

今回は、「真の愛(プレーマ)と献身」をテーマとし、シュリー・ラーマクリシュナの伴侶であるシュリー・サーラダー・デーヴィーに焦点を当て、宇宙の聖なる母の権化である彼女の本質、その生涯に迫ります。

当日はシュリー・サーラダー・デーヴィーへの祝辞や、彼女が師のもとで暮らされた日々のご紹介、聖劇、その他と、濃密ながらも楽しいコンテンツもご用意していますので楽しみにしていてくださいね。

また今年は実に5年ぶりに実開催が可能となり、多くのグルバイが京都に集います。そしてオンラインでは遠方や海外のグルバイとも繋ぎ、共に歓びを分かち合える貴重な時間となることでしょう。

ジャイ・サナータナ・ダルマ ジャイ・アヴァターラ!

オーム・タット・サット オーム!

マハーヨーギー・ミッション 


聖典を通して聖者に近づく

私は本を読むのが得意ではありません。ほとんどの場合、文字を追うだけですぐに眠たくなってしまいます。それだから、聖典を読むことにも苦労していました。聖典の学習は通常の読書とは異なり、聖者の息吹を感じるように読むと教わっていましたが、長年の苦手意識の根は深く、本を開くことすらハードルが高かったのです。

しかし、私には心惹かれる聖者がいました。ホーリー・マザーことサーラダー・デーヴィーです。マザーのことを知りたい、近づきたい! そのためには聖典が大きな助けになります。そこで私は、聖典を声に出して読むことにしました。マザーに関する聖典を音読、録音し、それを聞きます。音読は在宅時に限らず、出勤前の車内(職場近くの海岸に停車させて)など、隙間時間を見つけては行ないました。そして、録音できたものは移動や家事の時間に繰り返し聞く、ということを続けました。

音読するときには、聖典に触れ、真理の言葉を目で見て口に出し、それが耳に届きます。五感のうちの四つが聖なるもので満たされます。眠い朝でも、音読をすると心なしか頭や体がスッキリし、軽やかな気持ちで出勤できました。そして何度も録音を聞くうちに、まるで自分がマザーと同じ空間にいるように感じ始めました。
常にマザーが直接語りかけてくれているようで、気が付くとその教えはもちろん、在り方そのものが浸透していくのを感じていました。そして音読に慣れてきた頃には、彼女の言葉をなりきって読んでいる自分がいたのです。慈しみ深い彼女が相手を想う気持ちを言葉に乗せて読み、その後に出勤すると、せわしない仕事中もその話し方の余韻が残って穏やかに話せたことがしばしばありました。

もうひとつ日常生活での変化があります。家の掃除をする時に録音を聞くようになってから掃除が各段に楽になったのです。それまでは、「今日は掃除の日か。しんどいなぁ」と思ったり、すぐに取り掛かれなかったりしていましたし、掃除の時間がやたらと長く感じてぐったりと疲れていました。ところが、聖典と一緒に掃除をするようになってからあっという間に終わるではありませんか! しかも、ずっと心と体が軽やかなんです。何度もそれを経験するうちに、掃除に対する重たい気持ちが無くなり、むしろ「今日は家をきれいにできる日だ」とさえ感じるようになっていきました。聖典を聞きながらすることで真理が心に沁みわたり、余計な思いを浄化してもらったように思っています。

このような日常でのちょっとした変化はもちろん、想像の及ばないところできっと、聖典の恩寵を受け取っているんだろうなと思います。これからもこの実践を続け、マザーのハートと私のハートがひとつになるまで、心や感覚を聖なるもので満たしていきます。もし私と同じように本を読むのが苦手だったり、聖典の学習の実践が難しいと感じたりしている人がいたら、この機会に一度試してみませんか?

大森みさと


ホーリー・マザー ヴリンダーヴァン巡礼

1853年12月22日は、シュリー・ラーマクリシュナの聖なる妻であるシュリー・サーラダー・デーヴィーの御聖誕日です。信者からは愛情と尊敬を込めてホーリー・マザーと呼ばれています。
ラーマクリシュナがお亡くなりになった時、マザーの悲しみは耐えきれないものでした。あのようにすばらしい方が逝ってしまわれて、どうして私が生きていなければならないのでしょう、と思っておられたそうです。
そんなマザーに内的平安を見出すようにと、在家の信者のバララーム・ボースは巡礼の旅に送り出そうと計画されました。そして師の死後二週間の後、マザーは数人の弟子とともに、師の生涯にゆかりの深い聖地ヴリンダーヴァンに向かわれました。
ヴリンダーヴァンに到着した当時は、師を思ってしょっちゅう泣いていましたが、「どうしてそんなに泣くのだね。私はここにいるではないか。どこに行ってしまったと言うのだね。ある部屋からもう一つの部屋に移るだけのことではないのかね。」と、繰り返し師のヴィジョンが現れ、マザーの悲嘆を幾分癒してくれました。
ヴリンダーヴァンは、師がクリシュナの生涯のさまざまな出来事を思い起こして、多くのヴィジョンを体験された聖地です。マザーもこの聖地で霊的恍惚のうちに日々を過ごされました。ある日マザーは深いサマーディに浸っていらっしゃいました。クリシュナとの別れに耐えかねたゴーピーたちが彼への思いに深く没頭し、しばらくは自分の個なる部分を忘れ一人一人があたかもクリシュナであるかのようにふるまったように、マザーもご自分が分離した存在であるのを忘れて師との一体感を感じ、師にそっくりな様子で振る舞われたそうです。また別の折、マザーは超意識の状態で二日近く過ごされました。この経験以降、常に至福に浸り続けているかのように見え、すべての悲しみと嘆き、師との別離から来る喪失感が消え去ったのでした。
ヴリンダーヴァンには一年間滞在し、時計のように規則正しく瞑想を実践されて、多くのヴィジョンとサマーディを経験されたそうです。
ヴリンダーヴァンから戻られた後33年間肉体に留まられました。公に知られることのない隠遁生活を送っておられましたが、徐々に人々がマザーの存在に気付き、後期には信者たちがマザーの祝福を求めて押しかけました。マザーは皆に心からの恩寵を与え導かれました。

ヴリンダーヴァンで過ごされたマザーの姿はラーダーやゴーピーと重なり、ミニアチュールの美しい世界の中にマザーがいらっしゃる姿が思い浮かびました。そのイメージを絵に描いてみました。

サルヴァーニー


スワーミー・アベダーナンダ

シュリー・ラーマクリシュナの弟子、スワーミー・アベダーナンダは1866年10月2日カルカッタに生まれ、カーリープラサードと名付けられました。

カーリーは幼い頃から良い成績で、18歳の時には数々の難解な書物を読破し、インドの有名な詩人たちの偉大な作品も読み終えるような知性の持ち主でした。また、その知的関心は学問に留まらず、すべての宗教に対しても向きました。ある時ヒンドゥ哲学者のインド六派哲学に関する講演に感銘を受け、ヨーガを実践したいという強い願望を持ちました。そしてヨーガの師を求めていたところ、友人の一人がシュリー・ラーマクリシュナのことを教えて会いに行くように勧めました。

21歳の時、やっとダックシネシュワルにシュリー・ラーマクリシュナを訪ねることができました。師にお会いすると少しもためらわずに、サマーディの最高境地に到達できるよう、師からヨーガを学びたい、という自らの願望を述べました。師はひと目で若者の魂の深さを見抜かれ、彼の内に潜む広大な霊的可能性にお気づきになって、たいそう喜ばれました。この日以降、カーリーは師の愛情のこもった導きのもと、真剣に霊性向上のための修行を始め、師の恩寵によってさまざまな霊的体験に恵まれました。

師の没後、出家してスワーミー・アベダーナンダの僧名でサンニャーシンとなり、出家道の正統派の伝統にしたがって放浪の生活を送るという傾向に逆らえなくなり、裸足で各地を遍歴し、あらゆる種類の欠乏と困難に耐え、あらゆる苦行を行いました。彼は一般的なヒンドゥの理念に沿って、できるだけ世俗を超越しつつ、厳しい修行と瞑想によって自らの解脱と至高のアートマンの悟りに至るために力を尽くすことを理想としていました。しかし、その頃アメリカにいたスワーミー・ヴィヴェーカーナンダは書簡を送り、彼の人生の使命は、他者に奉仕し、人に生命を与える師の思想を全世界に広めるために、喜んで一生を捧げる僧たちの新しい教団をインドに設立することである、という事実を兄弟僧たちに痛切に感じさせます。ヴィヴェーカーナンダの言葉は師の言葉であると確信して、アベダーナンダは他の兄弟僧たちとともに、彼の信念を受け入れました。

1896年、ロンドンでヴェーダーンタを説いていたヴィヴェーカーナンダの招きに応じて、かの地に赴きます。ヴィヴェーカーナンダは、「インドから到着したばかりの学識ある兄弟僧が、ロンドンのキリスト教神智学協会の次の集まりで、アドヴァイタ・ヴェーダーンタに関する講演を行う」と発表しました。しかし、そのことについてアベダーナンダは事前に相談を受けていなかったので、非常に驚き、ひどく当惑し、極端に神経質になりました。彼はそれまで、英語でもインドのどの言語でも、演壇に立って演説したことはなかったのです。彼はこの件について強く抗議しましたが、ヴィヴェーカーナンダは「私の人生のあらゆる苦難の時に、いつも強さと勇気をお与え下さった、あのお方にお任せしたまえ」と勇気をふるい起こさせる言葉で彼を励ましました。この言葉は彼を安心させ、師の限りない恩寵に頼り、講演を行い、素晴らしい成功をおさめました。このことをヴィヴェーカーナンダは手放しで喜びました。

その後、アベダーナンダはアメリカ、アラスカ、メキシコ、日本、中国、フィリピン、シンガポール、マレーシアなど各地で、師の教えを広めました。彼の魂は休むことを知らず、エネルギーの最後の一滴まで、彼と接することになった人々に霊的恩恵をもたらすために使いました。

ロンドンで一度も経験のない講演を急に行うことになった際の苦難は計り知れません。しかし師の限りない恩寵に頼り講演を成功されました。師にすべてを任せる、ゆるぎない信仰を感じさせて頂けるエピソードです。その信仰はどのようにして育むことができるでしょうか。アベダーナンダの教えを紹介します。

主に対して確固たる、ゆるぎない信仰と強い信仰心を持つことを望むのであれば、あなたはタパッスヤーつまり厳しい苦行も習慣にすべきだ。タパッスヤーとは、当てもなくあちこちをさまよい歩くことではない。その言葉が実際に意味しているのは、規則正しく変わることなくジャパや瞑想を実践し、自制心を養うことである。

強い信仰心と信念を得るために、切なる思いで主に祈れば、神はその祈りを叶えられる。だから次のように祈ることだ。「おお、主よ、喜んで私に不動の強い信仰心とゆるぎない信仰をお授けください。願わくば、私の心とハート(感じる心)は永遠にあなたの蓮華の御足に引きつけられたままでありますように、願わくば、そこから他の方角に迷い出ることのありませんように」と。

『真実の愛と勇気』P244

絵:ロンドンで講演を行うアベダーナンダとそれを見守るヴィヴェーカーナンダを想像して描きました。

サルヴァーニー


スワーミー・プレーマーナンダの強さ

スワーミー・プレーマーナンダ(1861〜1918)という聖者をご存知でしょうか?

師であるシュリー・ラーマクリシュナに「骨の髄まで浄らかで、不純な思いが心身を横切ることがない」と言われるほど、生まれながらにして純粋な魂であり、兄弟弟子のヴィヴェーカーナンダと共にラーマクリシュナ・ミッションの礎を築いた聖者の一人です。
その生涯はヴィヴェーカーナンダのように表舞台に出ることはありませんでしたが、僧院の管理者としての責務を担い、信者を神と見てその奉仕に身を捧げました。

そんなプレーマーナンダの生涯に触れると、特に二つの打撃を乗り越えて、元来の純粋さに加えて「強さ」が備わっていったことが感じられました。
一つは師シュリー・ラーマクリシュナとの別れ、もう一つはヴィヴェーカーナンダとの別れでした。
その時、プレーマーナンダは考えました、自らの為すべきことをーー

一つ目の打撃の時、プレーマーナンダは「師の導きに従うこと、神を見ること、真理の実現」を覚悟し、二つ目の打撃の時は「ヴィヴェーカーナンダの仕事を力の限りを尽くして続けていくこと」を覚悟し、それらを誠実に徹底してやり通したのでした。

これらの詳しい内容は、『真実の愛と勇気』(日本ヴェーダーンタ協会)、Web版『パラマハンサ』(マハーヨーギー・ミッション)に載っています。

人は打撃を受けた時、どうすればいいのか?
今、何を為すべきか?
プレーマーナンダの生き様に、そのヒントがあると思います。

最後に、私が感銘を受けたプレーマーナンダの力強い教えを紹介させていただきます。

信仰を呼び覚ませーーグルの言葉への信仰、聖人の教えへの信仰、聖典への信仰である。それで初めて結果が得られるのだ。単なる感傷的な態度は何の役にも立たないだろう。あなたはこのような力強い決意を持つべきであるーー「私は、この人生において何としても成功を収めなくてはならない。執着を離れ、まさにこの肉体から自由にならなくてはならない。私に不可能なことがあるはずがない」と。あらゆる恐れと不安を投げ捨てよ。「私たちは神の子である」と考えよ。そうすれば、弱さはつけ込むすきを見出せないであろう。

ーーー『真実の愛と勇気』p132

 

ゴーパーラ