この記事を書いている今日は、7月5日です。この日に、どうしてもある聖者のことを書きたかった。アッシジの聖フランチェスコ。今日は、彼の御聖誕日なのです。
私がフランチェスコに関心を持ったのは、マザー・テレサが彼の生き方の影響を大きく受けていたからです。マザーは12歳の時にフランチェスコの伝記を読み、胸が震えるほど感動したといいます。そして生涯その感動を胸に留め、彼を敬愛し、自身の修道生活の手本としました。彼が作ったものではないですが、彼の精神を表したとされる「フランチェスコの平和の祈り」。「主よ、私をあなたの平和の道具にしてください。憎しみあるところに愛を。疑いあるところに信仰を………」という祈祷文、マザーは大好きでミサの後に唱えていたといいます。
フランチェスコといえば、鳥に説教したとか、人食いオオカミと人を和解させたとか、動物の守護聖人としても有名ですが、彼の生き方の軸となるのは、清貧。マザーの創設した修道院「神の愛の宣教者会」のシスターたちは、私たちの想像を遥かに越える、徹底された清貧の生活を送っています。マザーは理想を思いの中だけに留めるのではなく、それを現実に生きたことが今も証明されているのです。
では、どうしてフランチェスコは清貧に生きたのでしょうか。マザーが彼を模範としたように、フランチェスコはイエス・キリストを模範としました。彼は裕福な織物商人の息子として生まれましたが、不思議なことに母ピカは、彼をイエスと同様に家の馬小屋で出産したと伝えられています。青年時代は、散財家で仲間たちと享楽的な生活を送っていましたが、彼に精神的な変革が起こったのは19歳の時。功名心にかられ軍に志願し戦闘に参加した際に、病気になって軍から取り残され、病床で神の声を聞いたのがきっかけだといわれています。それにしても、聖者たちはよく神の声を聞いているのですね。
神は彼に尋ねます。「あなたにもっと恵みを与えるのは主人か、召使いか」。「主よ、私に何をさせようとお思いなのですか」と彼が聞くと「家に帰りなさい。そこで何をすべきか教えよう」と神は答えました。アッシジに帰ったフランチェスコは、以前のように自然の美しさを楽しめず、友人との放埓な生活にも虚しさを覚えるようになり、時折籠って瞑想や祈りをするようになったといいます。
そして24歳の時、十字架の前で祈っていると再び神が語りかけてきます。「私の教会を建て直しなさい」。フランチェスコは朽ち果てた教会の修復作業に奔走するようになりますが、父親は息子の行動が理解できず、公衆の面前で勘当を言い渡します。ところが、フランチェスコはその場で着ている服を脱ぎ「すべてをお返しします」と言って父親に差し出し、自分の父は「天の父」だけだとして親子の縁を切ったといいます。その後彼は一人で托鉢をしながら教会の修復とハンセン氏病患者の看護など貧しい人々への奉仕に励みました。また、彼は街頭や広場に立ってキリストの教えを説き始めます。
このように彼が清貧に生きることを決意させたのは、イエス・キリストが12人の弟子たちを宣教に派遣する際に清貧を説いた「マタイによる福音書10章」の説教を聞いたことが転機になったといわれています。イエスはその中でこう教えています。「行って『神の国が近づいた』と伝えなさい。あなた方がただで受け取ったものはただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も入れて行ってはならない。旅のための袋も替えの衣も履物も杖も、持って行ってはならない」と。ただちにフランチェスコは履物を脱いで裸足となり、革のベルトを捨てて縄を腰に巻きました。次第に彼に共感した人々が彼の元に集まり、彼らは「小さき兄弟団」として活動していくようになります。
フランチェスコは福音書でイエスが命じていることをそのまま実行し、イエスの生活を完全に模倣しようとしました。まさに「裸のキリストに裸で従った」のです。今、私たちは、彼があのような生き方を実践できたのは、あの時代だったからだと言うかもしれない。でも、本当にあの時代あの生き方が実践しやすい世の中だったかと言えば、決してそうではありません。
フランチェスコが生きた時代、聖職者や修道士が托鉢をしたり、司祭職の権限を持たない者が説教を行うことは禁止されていました。そして実際に、周りは彼を色物扱いしていました。フランチェスコが教皇に活動の許可を求めるためローマを訪れた時も、一切を所有しないという清貧や托鉢、宣教活動は異端として危険視され、実践困難だと枢機卿(すうききょう:カトリック教会で、ローマ教皇に次ぐ高位聖職者)たちは認可に難色を示したといいます。しかし、ある一人の枢機卿が言った一言ですべてが覆ります。「そのような理由ではねつけたなら、福音が実践不可能であるということになります。そうなれば、福音をお与えになったキリストを冒涜することにもなるのではないでしょうか」と。
イエス、ブッダ、ラーマクリシュナ、神の化身はただ夢や理想を語っているのではない。私たちに現実に教えを生きよと語りかけているのです。そしてその教えをそのままに生きようとした聖者の一人がフランチェスコなのです。聖職者たちが困惑するほど、彼は素直にイエスの生きたままを生きようとしていたのです。
この素直さ、ヨーガの聖者ナーグ・マハシャヤとかアドブターナンダとかにも通じるものがある…。ヨギさんも、弟子は素直、単純であることが大切だと言われます。ただイエスを愛しイエスになろうとしたフランチェスコ。彼のひたむきさ、素直さと一つになりたい。
ユクティー