ラーマクリシュナ」カテゴリーアーカイブ

ラーマクリシュナがうたわれたキールタン 至福のお酒

さて、年末のシーズンになり、忘年会などお酒を飲む機会が増えてくる時期ですね。そこで今回は「ラーマクリシュナの福音」に出てくる詩のなかで、お酒にまつわるものをご紹介します。

私は並の酒は飲まない
永遠の至福の酒を飲む
母カーリーの御名を繰り返しながら。
それは私の心を深く酔わせるので
人々は私が酔っ払ったと思う。
まずグルがその酒をつくるための糖蜜をくださる。
わが渇仰の心は、それ酒を変容させる酵母。
知識という作り手が、私のために酒を醸す。
酒ができたとき、私の心はそれを
マントラというびんから飲む。
それを浄めるために母の御名をとなえながら。
この酒を飲め、とラームプラサードは言う、
そうすれば人生の四つの果実はお前のもの

私はお酒を飲むことが割と好きなので、これまでの人生でそれなりにお酒を飲んできたと思いますが、この詩に出会ったとき、私が飲みたかったのは、この「永遠の至福の酒」だ!!!とはっきりと分かりました。そして、私はもう並の酒は飲みたくない!と思ったのでした。

ではその永遠の至福の酒はどうしたら飲めるのか!?それをつくる方法が詩の中に書かれています。まず、グルがその酒をつくるための原料となる糖蜜をくださるのです。糖蜜とはサトウキビの絞りかすで、お酒の原料になるもの、日本酒ならお米のことです。まずはグルの恩寵が必要なのですね。そして、お酒作りに酵母が必要なように神への渇仰の心、信仰心は欠かせないものです。そして作り手として、真理の知識(真知)が醸造してくれるのです。

あーそのようなお酒を心が飲むとき、どれほどに甘美なのでしょうか!!この詩を読むたび、私は永遠にその至福のお酒に酔いしれたいと思うのです。最後に書かれてある四つの果実は、ダルマ(正義)アルタ(富)カーマ(欲望の達成)モクシャ(解脱)のことを指します、憧れは増すばかりです。

さて、収穫が秋のお米を原料に作る日本酒は、冬に仕込むことが多いようです。それは雑菌が少なく温度調整がしやすいためと言われています。ぜひ仕込みやすいこの寒い時期に、みなさんも永遠の至福の酒を仕込んではいかがでしょうか。


ラーマクリシュナの福音 〜目標は神、それがヨガ〜

十二月のある日、シュリー・ラーマクリシュナはお芝居を観るためにスター劇場に行かれた。聖者プララーダのお芝居を見終わられたあと、劇場経営者のギリシュの部屋で信者に向かって神のお話をなさっている。

「心のすべてを神に向けないで、彼を知ることなどできるものか。バーガヴァタはシュカデヴァのことを語っている。彼は歩く時、拳銃をかまえた兵士に見えたという。視線はさまようことがなかった。それはたった一つの目標を持っており、その目標は神だった。これがヨガというものだ。
チャータク鳥は雨水しか飲まない。ガンガーやジャムナーやゴダヴァリ河をはじめとしてすべての河には満々と水が流れており、七つの海には淵まで水がたたえられているのだが、チャータク鳥はそれらにはふれようともしない。雲から落ちてくる水しか飲まないのだ。このようなヨガを開発した人は、神を見ることができる。劇場で観客は、幕が開くまで家庭のことや勤め先のことや学校のことなど、あらゆる種類の会話にふけっているだろう。だが幕が上がるやいなや、すべての会話は止み、人々は一心に芝居を見守る。長いことたって、誰かが一言か二言しゃべるとしても、それは芝居のことだ。大酒飲みが酒を飲むと、酔う楽しみについてしか話さない」

「目標は神だ。これがヨガというものだ」
神だけ見続けておられるシュリー・ラーマクリシュナの言葉には、強力な力が宿っていますね。
私たちはさまざまな理由でヨーガと出会いました。私は子供の頃、テレビでマッチェーンドラ・アーサナ(捻りの形)を見て、身体によさそう、やってみたいと思ったのがきっかけです。時間に余裕ができて、やっとヨーガのクラスに通えるようになりましたが、しだいに「ヨーガって、心のことも教えてくれるんだ」と驚き、さらに「ヨーガって、本当の自分を知ることなんだ」と、だんだんとヨーガの教えの深淵さに惹きつけられていったのでした。
ヨーガの語源はユジュ、心を本当の自分と結びつけるという意味だそうです。本当の自分とは、真理、存在、純粋な意識、アートマン、魂、神とも呼ばれているものです。シュリー・ラーマクリシュナは「目標を定めて、ヨーガの道をまっすぐに進みなさい」と教えてくださっているのだと思いました。
そして私たちは師の導きによって、甘い真理の水をちょっぴり舐めさせていただいたのでしょうか。いろんな水がある中でも真理の水だけがほしいと願っていることに気が付かされました。チャータク鳥とは、どんな鳥なのかなと思っていたのですが、それは私たち、求道者のこと、「求道者は真理の水だけを求めなさい、そうすれば真理を実現することができる、神を見ることができるのだ」とシュリー・ラーマクリシュナは教えてくださっているのだと思いました。

私たちがチャータク鳥のように、どんなに喉がカラカラになって死にそうになっても、真理の水だけを求めて生きていくことができますように。

降ってくる雨水しか飲まないチャータク鳥

ダルミニー


ラーマクリシュナのうたわれたキールタン 

『ラーマクリシュナの福音』の中で、シュリー・ラーマクリシュナは、たくさんのキールタンを歌っておられます。そのキールタンは、私たちが普段うたっている神の御名を繰り返すという単純なものではなく、歌詞があるものです。メロディーは分かりませんが、歌詞の内容はとても美しく、私もうたってみたいなぁ・・・と思うものがたくさんあります。今回は、その中の一つを紹介します。

これはゴーピー(牧女)たちが、クリシュナ神への愛をうたった歌で、『ラーマクリシュナの福音』の中で何度か出てくるものです。

「私のクリシュナはまだ見つからない。おお、友よ
彼のいないわが家のなんと寂しいこと。
ああ、もしクリシュナが、
私の頭の髪でさえあったなら、

私は念入りにそれを編み、バクルの花で飾るのに。

私のクリシュナ髪のお下げを、
入念にととのえるでしょう。

クリシュナは黒く、私の髪も黒い、
黒と黒は一つになる。

ああ、もしクリシュナが、
私の鼻の飾り輪でさえあったなら、

彼はつねに私の鼻に下がり、
私の唇は彼にふれたでしょう。

    だが、そんなことはあり得ない。
ああ、なぜ私は、こんな愚かな夢を見る。

クリシュナが、私の鼻の飾り輪などになるものか。

ああ、もしクリシュナが、
私の腕の腕輪でさえあったなら、

彼はいつも私の手首にくっつき、
私は誇らしげに歩くでしょう。

腕輪をゆすって音をさせ、
これ見よがしに腕を振り、

クリシュナ腕輪を身につけて、
王様の道を歩くでしょう。」

恋をしたことがある人なら、誰でもわかると思いますが、愛する人とは片時も離れていたくなく、一緒にいたいものです。「ああ、彼が(彼女が)ここにこうしていてくれたなら…」という想像(妄想?)は誰でもするものです。そして「そんなことはあり得ない、なぜこんな愚かな夢を見る…」と言いながらも、また想像を始めてしまうところが、この歌の中でとてもリアルで、素朴で、なんとも言えない可愛さがあります。

これは、一見すると単なる人間の恋愛の様子がうたわれているようですが、本当は魂と神との関係を象徴的にうたったものです。魂(牧女)は神(クリシュナ神)に恋い焦がれ、一心に神を求め、常に一つになりたいと望んでいるのです。バクティの感情を表現する時には、日常の中の誰もが経験するような状況を、バクタの心境になぞらえてあるのものがたくさんあります。キールタンは、神への魂の叫びであり、神と魂を結ぶ愛の歌なのですね。


ラーマクリシュナの福音 〜グルの言葉への信仰〜

ダクシネシュワル寺院

ある日の午後、シュリー・ラーマクリシュナは、ダクシネシュワルの寺院境内の自室で、信者たちに信仰の話をしておられます。 

信仰だ!信仰だ!信仰だよ。ある時、あるグル(師)が弟子に言った。「ラーマだけがいっさいのものになっておられるのだ」と。イヌが来てその弟子のパンを食べ始めたら、彼はそのイヌに「おお、ラーマ、ちょっとお待ちなさい、バターをつけてあげましょう」と言ったそうだ。グルの言葉への彼の信仰はそれほどのものだったのだ。つまらぬ人びとは、信仰というものをまったくもたない。しじゅう疑ってばかりいる。
神への愛が唯一の大切なものだ。真の神の愛人は、何ひとつ恐れるものはない。何ひとつ悩むことはない。彼は、母なる神がいっさいをご存じなのを知っている。ネコはネズミを扱うのとはまったく別のやり方で自分の子は扱うだろう。

 グルの言葉への信仰というところを読んで、私はヨーガを始めたばかりの頃を思い出しました。「自分の心を変えたい。このままの自分ではいやだ」と思い、私はいろいろな本を読んでいましたが、その方法を教えてくれるものは一つもありませんでした。そうしてヨーガとヨーガの師に出会い、「ヨーガのアーサナ(ポーズ)によって呼吸を変えれば、心は変わります」という教えをいただき、本当に驚きました。「この心を変えることができるのなら真剣にヨーガをやっていこう」、そう決意し、私は仕事を辞め、師の下に引っ越してきたのでした。
しばらくしてから私は、毎日アーサナができること、ヨーガのクラスとサットサンガ(真実の集い)に必ず参加できるということを条件に、仕事を探し始めました。しかし、その条件に合うところはそうそう見つかりません。そうこうしていたある日、師は「仕事は見つかりましたか」と私に声をかけてくださったのです。「いいえ、なかなか見つかりません。でもヨーガのことだけ考えていたらいいんですよね」「その通りです」と師は大きく頷かれました。私は、もうすぐ仕事が見つかるのだなと思いました。すると本当にすぐに今の職場が見つかったのです。その時私はその職場は神様が与えてくださったものだと思いました。そして、この出来事を通して、グルの言葉への信仰を強く意識しました。
それから毎日アーサナをする中で、今度はクラスを担当したいという思いが湧いてきました。正しく伝えられるようになるためにも、アーサナをきっちりやっていこう、そう思い、ますますアーサナの修練に熱心になっていきました。それから何年かして、クラスをまかされるようになってきました。そんな時、友人からいいスタジオがあるからやってみないかと誘いを受けたのです。そのスタジオは朝の日の光が入る、サットヴァなスタジオでしたので、すっかり気に入りました。今、そこでもクラスを担当させていただいていますが、そこもまた神様が私に働くところを与えてくださったのだと思っているのです。

さて次の私の働くところはどこでしょうか?それもすべて母なる神がご存じなのでしょう。私は、グルの言葉への信仰を軸として、神様への信仰を少しずつ深めていっているのだということに気が付かされたのでした。

                                      ダルミニー


夏休みの思い出〜神と一つになる〜

ある時、師であるヨギさんがもっと神と一つになるようにと私におっしゃられたことがありました。神と一つになる、か・・・・・・と考えていた時、インドの大聖者シュリー・ラーマクシュナが弟子であるヴィヴェーカーナンダに授けた次のような教えが心に留まりました。

「愛のネクター(甘露)がビンの中に入っているとしたら、お前はどのように楽しもうと思うか」とおたずねになり、ナレーンドラは「私はネクターの入っているビンのふちに座って、そこから吸いましょう」と答えた。師は微笑され「なぜ中に入って吸わないのか。ビンの真ん中に入って吸えばよいではないか」とおっしゃった。「いいえ、そんなことをしたら死んでしまいます」シュリー・ラーマクリシュナは「そういうものではないのだよ。人は愛に溺れてもけっして死にはしない。それはアムリタ、不死そのものなのだから」と笑いながらおっしゃった。

ひとたびこの愛の味がわかると、魂にとってこれ以上ほしいものは何にもなくなる。この歓びは無限であり、何ものによっても増やすこともできなければ滅することもできない。

この教えに触れて、私の中で「神の愛に溺れたい!神と一つになりたい!」という思いが強くなっていき、しばらくは甘美なムードに浸っていたのですが・・・・・・。そのムードは小学校4年の娘が、夏休みに入るとともに消えていきました。

夏休みに入るといきなり、「学童に行きたくない!」と娘が泣き出したのです。事情を聴くと、仲の良い友だちが一緒に行ってくれなくなり、学童で一人ずっと過ごしているようでした・・・・・・。それからは家で一日どのように過ごさせるかや、お昼ご飯の準備などで頭の中はいっぱいになり、神よりも娘に集中する時間の方が多くなっていきました。娘と友だちの関係で気をもみ、一緒に遊ばせる段取りを組んだり、娘にこういうふうに考えたらどうかなとくどくど話したり、どうしてこんな簡単なことが理解できないのだろう・・・とイライラして感情的になったり、お世辞にも娘と調和がとれたようなものではありませんでした。

これではいけないと思って考えていると、娘が生まれた時、ヨギさんから「大らかに育ててください」と言われたことをふと思い出しました。私は自分の経験や価値観という小さな枠で彼女を見ている。物差しを当てず、常に自分を空っぽにする努力をして、彼女と向き合おうと思いました。

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そうして幾日が過ぎ、地蔵盆(※関西地域で行われる子どもたちの幸せと健康を願う行事)の日がやってきました。お布施をもって会場に行くと、先に行っていた娘が他の子どもたちと離れ、一人でポツンと寂しそうに遊んでいるのです。娘は私に気付くと(みんなで楽しく遊んでいるよ)と気遣って気丈に振る舞っているように見え、居たたまれない気持ちになりました。

その夜、娘の寝顔を見ながら、私は申し訳ない気持ちになって泣きながら謝っていました。この子の存在を自分は本当に尊んできたのだろうか、この子が友だちと楽しく過ごせるような環境を整える努力が、もっと必要だったのではないだろうか・・・・・・。・・・・・・でも・・・・・・友だちと仲良くなれるようにできるだけ努力をしてきたし、考えても、考えても、もう何をどうすればいいのか分かりませんでした。

シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるトゥリヤーナンダは、『すべてのなやみを母(女神)のもとに持っていけ。彼女は一切の誤りを正して下さる、母を知れば、他の問題はなくなる。あなたが、自分を彼女に捧げ切ったとき、一切のものを新しい光の中で見るようになる。そして、この世の生活を問題にする必要のないことを知るのだ』と言われます。

もう神に祈るしかできない!という切羽詰まった思いで、ヨギさんとトゥリヤーナンダのお写真を前におき、瞑想に座りました。瞑想の後寝床についた時、突然聖なる力が私を押し上げ、ヨギさん、トゥリヤーナンダ、私、3つの意識が一つとなって、万物が展開していくビジョンが見えました。

意識が肉体に戻ったとき、すべては私が神から目をそらさないように神がなされていたんだ、と思いました。そして自分がすべきことは神だけを思うこと、という確信がありました。甘美なムードに浸るという漠然としたものではなく、日常としっかり向き合うことで神と一つになれるということが分かりました。

そして娘にとっての人生の目的もやはり、神と一つになること。友だちと楽しく過ごせるに越したことはないですが、友だちと一緒にいて安心することではないのです。親としてしっかりとそのことを踏まえ、関わっていきたいと思いました。

その出来事のあと、不思議と娘の状況はどんどん良くなっていきました。近所の子とまた自然に家を行き来するようになり、同級生が遊びに来たりするようになりました。また、他のお母さんたちと話すと少なからずどの子も同じようなことで悩んでいて、そういう多感な時期であることが分かりました。

こうして娘の夏休みは幕を閉じました。そして私の信仰をより強くしてくれたのでした。

amara


ラーマクリシュナの福音 〜ウシガエルのお話〜

この小さな部屋で不滅の言葉が語られたのです。

自室の小さい寝台の上に東を向いて座っておられるシュリー・ラーマクリシュナが、床に座っている信者たちに主ラーマの物語から教えられました。 

苦痛と快楽は肉体にはつきものだ。神を悟った人は、心も生命も、肉体も魂も神に捧げる。
ラーマとラクシュマナが沐浴をしようとパンパ湖に入った時、彼らは弓を地面に刺しておいた。ラクシュマナが自分の弓を引き抜くとその先が血で汚れているのに気が付いた。ラーマは彼に言った。「ごらん、弟よ。たぶん何か生き物を傷つけたのだろう」。ラクシュマナは地面を掘り、大きなウシガエルを見つけた。それは死にかけていた。
ラーマは悲しみにみちた声でカエルに言った。「どうして鳴かなかったのだ。私たちはお前を助けようとしたはずだ。お前はヘビにくわえられた時でも、元気に鳴くではないか」。するとカエルが言った。「おお、主よ。私はヘビに襲われたときには『おお、ラーマ、お助けください。おお、ラーマ、お助けください』と言って鳴きます。この度は、自分を殺そうとしていらっしゃるのがラーマであることを知りました、それで黙っておりました」。

私は以前、命を投げ出してでも悟りを得るということはどういうことなのかと師に質問をしたことがあります。師は「私たちの心が最も執着しているのが命です。その命を投げ出す、捧げるということは完全に心が開け放たれた状態、まったく執着のない状態を表しています」と教えてくださいました。
このウシガエルは何の執着もなく、完全にラーマ神のみを信じ、愛し、頼り切って生きていたのだと思いました。神に命を捧げると、自分のことをすっかり忘れ、すべてのすべてが神だけで充満してしまう、そして神以外の一切の思いが消え去ってしまうのだと思いました。

自分のすべてを神に捧げ、行為することができますように。

                                       ダルミニー 


バクティ・サンガム キールタン

Bhajamana Ma

Bhajamana Ma Ma Ma Ma   Bhajamana Ma Ma Ma Ma

Anandamayi Ma Ma    Anandamayi Ma Ma

Anandamayi Ma Ma   Anandarupa Ma Ma

 

6月から3ヶ月間バクティ・サンガムでは「Bhajamana Ma 」というキールタンを歌っています。Bhajamanaとは心から讃えよという意味、そしてMaはお母さん、母なる女神のこと、Anandamayi は至福に満ちている、Anandarupaは至福の姿をとられたという意味です。

「心よ!至福に満ちている母なる女神を讃えよ!!」

というキールタンですね。女神の優しさに包まれるようなメロディー、単純で覚えやすい歌詞、日常でもいつの間にか口ずさみ、その都度Maに思いを馳せることができます。

ところで、Maといえば、一番に思い出す聖者がいませんか?
Maへの信仰に全てを捧げた19世紀のインドの大聖者、シュリー・ラーマクリシュナです。

カーリー(女神、Ma)寺院の神職をしていたシュリー・ラーマクリシュナは毎日熱心に礼拝するうち、「生きているMaに会いたい!」という思いを募らせていきます。そしていつしか寝食を忘れ、狂ったように神を求め、ついにMaを見神するのです。

シュリー・ラーマクリシュナは生涯をかけて神を求め、愛することを教えられます。全身全霊でMaを求めた彼が、実際どのようにMaに祈っていたか、その言葉を弟子に教えておられる箇所を見つけましたのでご紹介します。

「私はいつも彼女(Ma)にこう祈った『おお母よ、おお至福に満ちたお方よ、私にお姿を見せてください。くださらなければ駄目です。おお低き者たちの主よ、おお、宇宙の主よ、私は決してあなたの宇宙の外にいるのではありません。私は知識を失っています。修行もできていません。信仰もありません。あなたはお慈悲をもって私にお姿を見せてくださらなければいけません』」

シュリー・ラーマクリシュナはいつも、神はもっとも親しい身内だと言われます。子供が母親に泣きつくように心の底から泣いて神を求めたら、神がそっぽを向いておられるわけがないと教えられます。私はこのBhajaman Maを歌うとき、いつもこのシュリー・ラーマクリシュナの祈りの言葉と、神への態度を思い起こし、心でこう叫んでいます。

「私に純粋な信仰を授けてください。くださらなければ駄目です!!」

8月のバクティ・サンガムでもBhajamana Maや、他の女神のキールタンを歌いますので、ぜひぜひご参加ください! 大阪8月10日(金) 京都8月26日(日)になります!


ラーマクリシュナの福音

みなさん こんにちは

七月も半ばですね。七月にしては暑すぎるような気もします。七月は文月(ふづき、ふみづき)と呼びますが、由来は、七夕の詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからという説と、稲の穂が含む月であることから「含み月」「穂含み月」の意であるとする説もあるそうです。今年は暑い文月になりましたね。

さて、今回も『ラーマクリシュナの福音』からご紹介いたします。

ある日曜日、シュリー・ラーマクリシュナは朝、カルカッタに近いカンクルガチの村の、彼が愛しておられる在家の弟子たちの一人、スレンドラの別荘にお着きになった。スレンドラがある祝祭に、彼と大勢の信者たちを招待したのである。部屋の床は敷物でおおわれ、その上に白布が敷かれていた。いくつかの長枕やクッションがあちこちに置いてあった。ラーマクリシュナが信者たちに向かってお話になっている。

ラーマクリシュナ「『私が』とか『私のもの』とかいう感情は無知からくる。人々はラーニ・ラシュマニがカーリ寺院を建立したと言うが、誰もそれは神の御わざであったとは言わない。誰もそれは神の思し召しによってつくられたとは言わないのだ。この『私が行為者である』という感情は無知である。反対に『おお神よ、あなたが行為者であられます。私はお道具にすぎません。あなたが運転者、私は機械なのです』という思いが知識である。知識を得ると、人は『おお神よ、なに一つ私のものはありません。これらは全部あなたのものです。妻も息子も家族も、私のものではありません。すべてあなたのものです』と言うようになるのだ。これらのものを自分のものと思って愛するのはマーヤーだ。しかしすべてのものを愛するのは、ダヤー、慈悲である。自分の家族だけを愛するのはマーヤーだ。自分の国の人々だけを愛するのはマーヤーだ。だがすべての国の人を、すべての宗教の信者を愛するのはダヤーである。そのような愛は神への愛から、つまりダヤーから生まれるのだ。マーヤーは人を巻き込み、神に対してはそっぽを向かせる。しかしダヤーによって、人は神を悟る。シュカデヴァやナーダラのような信者たちは、常にハートにダヤーを抱いていたのだ」

ダヤー、慈悲という言葉からは、ブッダの行為がすぐに頭に浮かびます。清貧に中に生き、生きとし生けるものすべてを、生涯をかけて救い続けたブッダ、その慈悲の行為を思い出すことができます。そしてシュリー・ラーマクリシュナは、すべてを神として愛する、神への愛、それはダヤーであると教えられています。

私たちの師もまた、こう説かれています。
「愛は、心が主人公の間は愛着として所有とか支配とかに基づいた、限定的で偏った愛の姿をしていますが、心が純化されて、純粋な意識というアートマンの普遍の意識に目覚めてくれば、その愛そのものが喜びに変わってくる。喜びというのはもちろんエゴがないから利己的な喜びではないし、普遍的な宇宙的な喜びという至福という姿に変わる。そして他者の喜びを見ることが愛の姿となっていく。それは元々、純粋な本質として私たちの中にあるから、無条件に出てくると思う。愛というのは、神そのものがこの万物に現われた原理そのもの、万物宇宙がお互い引きあい、あるいは離れあい、育んでいっている姿そのものも愛の基本。あのクリシュナとラーダーのストーリーでは、あまり慈悲という言葉は出てこない、むしろ愛という言葉が非常に多い。古い時代のブッダに遡る頃は、慈悲という言葉がさかんに使われたと思うんだけれども、よくよく見てみるとそれは非常に同質のもの。時代によって、あるいは時代の思想の影響によって多少言葉が違ってきているかもしれないけど、その本質においては同じようにみえる」

私たちの師もまた、神への愛、真実の愛と慈悲とは同じものだと教えてくださっています。師はその慈悲もまた私たちの中に、もうすでにあるのだと教えてくださいました。ヨーガは私たちの忘れている故郷に帰るようなもの、愛深くあれるよう、慈悲深くあれるよう、少しずつ実践しながら、その理想の姿を目指し、諦めず歩んでいくことで、この生を価値のあるものにしていくことができるのだと思いました。

ダルミニー

 


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは

今回の地震で被害を被った方々にお見舞いを申し上げます。
京都は比較的、台風とか災害もよけて通るようなところなのですが、今回の地震は、さすがに京都のみなさんも驚かれたと思います。天変地異に際しても、さまざまな場面でも正しい判断ができる自分でありたいと改めて思いました。

 さて今回も『ラーマクリシュナの福音』からご紹介いたします。
今日もまた、シュリー・ラーマクリシュナは神を愛することについてお話になっています。

シュリー・ラーマクリシュナは自室の小さい寝台の上に、東を向いて座っておられる。信者たちは床に座っている。Mがここに着いて師に礼拝をした後、席についたのは昼頃だった。次第に他の信者も集まりはじめた。
ラーマクリシュナ「もし、人が神を愛するなら、ごく細やかなことが彼の霊的感情に火をつける。そのときにラーマの御名をたった一度唱えれば、彼は一千万回のサーディヤー(上位三階級の聖糸を受けた男子が毎日行なうことになっている礼拝)と同じ効果を得るのだ。一片の雲を見ると孔雀の感情が目覚める。彼は尾を広げて踊る。ラーダーは同じ経験をした。雲を見ただけでクリシュナを思い出したのだ。チャイタニヤデヴァがある村を通り過ぎた。彼はその土地の土からドラムが作られるということを聞いた。たちまち彼は恍惚感に圧倒された。ドラムはキルタンに使われるからだ。だが、誰がこのような霊の目覚めを感じ取ることができるのか。世俗の物ごとの執着を放棄した人だけだ。もし執着という液が、ある人の内部で完全に干上がれば、ほんのわずかのヒントが彼の霊的感情に火をつける。湿ったマッチを千回こすっても火花ひとつ出はしない。だが、乾いていれば、ちょっとこすっても燃え上がるだろう」

 シュリー・ラーマクリシュナは神を愛することができる人は、この世の中の物ごとの一切を放棄した人だけだとおっしゃっています。
私たちの師もまた、心が何かを掴んでいる、所有しているという、心の執着をなくした状態でないと、悟りという真実の智慧は生まれないと教えてくださっています。ヨーガを学んでいくにつれ、心は、神を真実を思いながら過すことが多くなってきましたが、なかなか神を真実を愛することができない自分に気がつかされました。聖典を読むと、神を愛すること、一切の執着を放棄することは、主にグルの導きや神の恩寵によって得られると書かれてあります。私たちの師は恩寵についてこのように説かれています。

「恩寵は、その真実、もしくは神と魂との間に生まれる贈り物です。それが生じるのは、魂たち、つまり人間としての純粋な信仰が生まれた時、その真実の存在は恩寵をもたらします。具体的には祝福、そして霊感、正しい智慧、真実の愛、そのようなこの人間の世界では得られないものがやってきます」

ヨーガを学び、純粋な信仰を育んでいくことが、私たちに必要なことなのだと思いました。純粋な信仰とは、神や真実を信頼し、その教えを誠実に生きていくこと、そして見返りを求めず、ただ愛していくことなのだと思いました。しかしみなさん、私たちは、この人間の世界では得られない、祝福というものをもういただいていますよね。師の教えを守り、誠実に、このヨーガの道を歩んでいけば、真実の愛に辿り着けるのだということを確信し、嬉しくなりました。湿ったマッチのままじゃ嫌だ、諦めず歩んでいこう、そういう覚悟を今回さらに固めたのでした。

 ダルミニー


ブッダ 梵天勧請

みなさん こんにちは

前回のブログにもありましたが、私たちの師は、台湾のグルバイの熱意に答えられ、3月22日に台湾ご訪問の旅に出られます。師の教えがどれだけ多くの人々の苦しみを救っているのか想像もつきません。こうやって世界のあちこちに真実の光が届けられている今の時代に、共に生まれてくることができたことに深く感謝し、師の台湾ご訪問をお祝いいたします。

さて、四月八日のブッダの御聖誕日を控え、そのお誕生をお祝いし、久しぶりに本願寺出版社の「ブッダ」よりご紹介したいと思います。

 

完全なる解脱に至る法を見出すまでこの坐を動かない。
そう決意して、沙門ガウタマはアシュヴァッタ樹の下に坐を組んだ。生と死、苦の根源へと思いを深め、徹底的に苦の原因をみきわめ、本質を暴き出す、沙門ガウタマ。
明け方近く、沙門は静かな瞑想の中で完全なる解脱に至る道を見出した。それからガウタマは七日間、瞑想を続けた。
これから何をすればいいのだろうか。
「速やかに涅槃に入るがいい。シャカ族の王の子よ」「お前は完全な解脱への道を得た。お前の願いは満たされた。もう娑婆にいる必要はない」マーラの声が虚空から聞こえてきた。
この法は世の中の常識からかけ離れすぎている。誤解され、かえって人を惑わし、迷いを深める原因になってしまったなら、それは本意ではない。ガウタマの心は沈黙を守ることに傾き始めていた。
このままではいけないと梵天は急いで天空から降り立った。「ブッダよ。あなたは完全な解脱への道を得られた。どうか、その法をこの世の生きとし生けるものに説いていただきたい」
ブッダはしばし沈思し、静かに現世を見回した。たしかに梵天の言うとおり、この世にはさまざまなものが生きている。法を聞いて共感し、理解するものもいるかもしれない。しかし、それは本当にわずかな人々だろう。しかも解脱に至るのは容易ではない、堅固な意志とひたむきな精進が必要だ。
「ブッダよ。ほんの少しでも望みがあるなら、あなたはこの法を説くべきだ。この世に生きるものたちは迷い、苦しんでいる。それを教えるのが、あなたの得た道ではないか。そうであるならば、ブッダよ。あなたはどんな困難があろうと法を説くべきではないか」
沈黙のあと、ブッダの口元に慈悲にあふれた微笑が浮かんだ。
私は法を説こう。ブッダの耳に歓喜の声が届いた。ブッダは座を解き、ゆっくりと立ち上がった。清浄な光が射して、ブッダの歩く道を明るく輝かせた。

梵天様の説得がなかったら、そしてブッダの慈悲の思いがなかったら、今のこの世の中はどうなっていたのでしょうか。時空を超え、私たちはブッダから、そして私たちの師から、苦を滅する道を授けられ、この暗闇の世界の中、まっすぐに光に向かって歩んでいる実感があります。この幸運をどう表現したらいいのでしょうか。このご恩を、身をもってお返ししたい、ブッダや師を見倣い、真実を見続け、実現したいと願うのです。

シュリー・ラーマクリシュナは、私たちを苦しみから救うべく顕れた神の化身についてこうおっしゃっています。

ダッタートレヤやジャダバラタのような賢者たちは、ブラッマンのヴィジョンを得た後、相対界には戻って来なかったといわれている。ある人々によるとシュカデヴァはブラッマン意識のあの大海の、たった一滴を味わっただけだそうだ。彼はあの大海の波を見、かつその轟音を聞いた。しかしその中に潜りはしなかった。高い塀の向こうに無限の原野があった。四人の友達が、塀の向こうに何があるかを見たいと思った。その中の三人は、次々と塀をよじ登り、原野を見ると大声で笑い、向こう側に転げ落ちた。この三人はまったく、その原野について情報を伝えることができなかった。第四の男だけが帰ってきて人々にその情報を話して聞かせた。彼は、他の人々を教えるためにブラッマジュニヤーナを得た後にも、自分の肉体を保持する人々に似ている。神の化身はこの類に属する人々である。

私たちのために戻ってこられた神の化身の方々、そのことを私たちはどれだけ理解できているのでしょうか。みなさんだったら塀の向こうに行ってしまいますか?自分のためではなく、他者のためだけに生きる神の化身の生き方を見倣って生きていきたいと思いました。

ダルミニー