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WEB版パラマハンサ 配信スタート!!!

5月20日、いよいよWEB版パラマハンサの配信が始まりました!皆さん、もうご覧になられましたか?

Web版パラマハンサ画面のスマホショット

これまで私は郵便で冊子版パラマハンサを受け取っていました。ポストを開けてパラマハンサが届いていることを発見する、封筒を開けて手に取り、まず今号の表紙を堪能、その後ワクワクしながらページをめくる。それは冊子ならではの楽しみでした。手に取る実感、目の前に冊子がある安心感など慣れ親しんだものがなくなる寂しさなどなど、いろいろな思いが皆さんにもあったかもしれません。

慣れないキャッシュレス決済の登録もなんとかクリアし(東京Nさんは生まれて初めてユーザー名を考えるなど、お一人で登録作業をやりきりました!Nさん、すごいです!!)、ログインをしてWEB版パラマハンサの世界に入った方は、冊子がなくなる寂しさも吹き飛んで、スマホやパソコンの画面にくぎ付けになられたのではないでしょうか。
そこには冊子とはまた違う世界が広がっていました!!!どこに何の記事があるのかスッキリとわかりやすい画面レイアウト、カラフルで美しい写真の数々、何より師のお姿そのお声を、いまここ自分の部屋で拝見できるとは、なんて素晴らしいことでしょう!!!!!

そしてご覧になられた皆さんは、もうお気づきのはずです。そう、冊子でもWEB版でもどちらでも、パラマハンサは何も変わっていない、ということを。形は変わりましたが、その本質は何も変わっていない。サットヴァ(純粋)なプラーナ(気)を画面越しに感じ、これまで通り、私たちをインスパイア(時に叱咤激励)し、永遠の真理、師の足下へと私たちを連れていってくれる、とてもとても大切な拠り所であるということを。

師とお会いすることができない、まさに困難に満ちている今の世の中ですが、WEB版ではこの耳を使って師のお声を聴き、師の存在をハートに響かせることができるのです。それをお許しくださった師には、言葉にできぬほどの感謝で胸がいっぱいです。本当にありがとうございます!また、パラマハンサを作り続け、時代や状況に応じて良き在り方を考えてくださる先輩方のワークスには頭が下がる思いです。いつもありがとうございます!

WEB版パラマハンサは素晴らしい!ということはよくわかりました。
でもやっぱり、一日も早く師と直接お会いしたい!!何にも代え難い格別な時間、師とともに過ごす日が一日も早くきますように。そしてその時は、目が覚めてきている!とあのとびっきりの笑顔で言っていただけるよう、その日を楽しみにWEB版パラマハンサを見ながら日々精進しましょう!ハートを師でいっぱいにしておきましょう!!そうすれば、何も怖いものなどありません。その日はすぐやってきます。明けない夜はない!!のですから!!!

お昼休みの散歩コースにて。東京では、本当にオリンピックを開催するかはさておき、会場の準備は進められています。手前の山型屋根の建物が体操会場(木材でできている)、奥にはバレーボール会場の有明アリーナが見えます。

ターリカー


『あるヨギの自叙伝』を読んで(9)ーーブラザー・ローレンス

ブラザー・ローレンスという聖者をご存知でしょうか?
『あるヨギの自叙伝』に、彼のことがほんの少しだけ紹介されています。

「17世紀のキリスト教徒の神秘家であったブラザー・ローレンスは、自分が初めて神の直接認識の境地をかいま見たのは一本の木を眺めているときであったと語っている。人はみな木を見ているが、木を見て木の造り主まで見た人はまれであろう」

たったこれだけの紹介でしたが、私は不思議とこの聖者に惹かれて、彼について調べてみました。
すると、「修道院の調理場や靴修理という身分の低い仕事をしながら、常に神と共にあった」ということが書かれていました。
私はそれを知った時、「私も仕事をしながらどんな時でもヨーガ(神)の境地に留まりたいのだ! 彼がどのような実践をして生涯を送ったのか、もっと知りたい!」と強く感じ、彼の談話と書簡が収められた聖典『敬虔な生涯』をすぐに購入しました。


100ページほどの聖典でしたが、ブラザー・ローレンスの素朴な言葉で語られる神への純粋な信仰に、私はただただ胸を打たれました。
以下、その彼の言葉を抜粋して紹介します。

「私たちが疑いの中にあるときにも、私たちが神をあがめ、神への愛をもって行動するという以外に何の野心も持っていないなら、神は必ず光を与えて下さいます。私たちの聖化は、私たちがすることを変えることによるのではなく、ふつう私たちが自分のためにしていることを、神のためにすることによるのです。多くの人々が、ある特定のことをしなければならないという思いに駆られつつも、さまざまな思い込みによってなすために、結局は不完全なことしかできず、それも、きまって手段を目的ととりちがえているのは悲しむべきことです。私の発見した神に近づく最上の方法は、神に従う生活の中で与えられた普通の仕事を、私たちのうちにひそむ人間的な要素から遠ざけつつ、できる限りを尽くして純粋に神を愛するために行なうことです」

「私たちの務めはただ神を知ることです。神を深く知れば知るほど、ますます神を知りたいという飢え渇きを覚えるものです」

「もし神が私を一瞬たりとも見放されるなら、私ほど哀れな者はありません。でも神は決して私を見放されないお方であることをよく知っています。私には信仰によって肌に感じるほどに強い確信があります。それは、私たちが神を捨てないかぎり、神が私たちをお見捨てになることは決してないということです。私たちは神と共にある者となりましょう。神と共に生き、また死ぬ者でありましょう」

神のご臨在と確信に満ちたブラザー・ローレンスの信仰心がありありと感じられる、なんと力強い言葉でしょうか!
私はこの『敬虔な生涯』を何度も読みましたが、その度に新しい発見と新鮮な歓びに満たされるのです。

では、ブラザー・ローレンスがどんな生涯を送ったのか、彼の言葉を軸に少し紹介したいと思います。

ブラザー・ローレンスは1614年にフランスで生まれ、キリスト教信者であった両親に育てられます。軍職に身を投じたローレンスでしたが21歳の時に負傷し、その時から神に身を捧げることを考えるようになります。正確な年代は不明ですが、おそらくこの頃に神の直接認識の境地を体験したようです。彼自身はこの体験を次のように振り返っています。

「ある冬の日、私は落葉して見るかげもない一本の木を見ながら、やがて春が来ると、その木に芽が出て、花が咲き、実を結ぶ……、と思いめぐらしているうちに、いと高き神の摂理と力とを魂にはっきりと映され、深く刻みつけられました。そしてこの世のことはすっかり心から消え去りました。この恵みを受けてから、もう40年たちますが、その時ほど、神への愛を強く感じたことはないと言えるかもしれません」

26歳の時、パリのカルメル会に助修士として入会し、その2年後に修道誓願を立てます。ローレンスは「自らを全く神に捧げ、神への愛ゆえに、神とかかわりのないものはすべて捨てる決意を固めた」のです。ただ、最初の10年は辛い時期を過ごします。苦手な台所の仕事を与えられ、仲間が彼を修道院から追い出そうとしたり、また内的な葛藤が彼を苦しめます。「自分が願っているように神のものとなっていないかという心配」、「いつでも目の前をちらちらする過去の罪」、また「神のいつくしみ」までもが嘆きの源であり(※神が与えてくれるもの、それは神そのものではないと拒んでしまう)、人間も理性も神すらも対抗しているように感じられるのでした。しかし、ローレンスはつまずき倒れてはすぐにまた立ち上がるという、「一度も神から離れたことのない者のように神の臨在を思う訓練」を繰り返し続けます。神への信仰だけが彼の側にあり、苦しめば苦しむほどますますその信仰が増し加わっていき、ついにその魂は神と結ばれる日がやってきます。

「私はさまざまな悩みと思い煩いで一生を終えるしかないと考えていた時、突如として私は、自分が変えられたことに気づきました。その時までずっと悩みの淵におかれていた私の魂は、奥深くに内なる安らぎを味わいました。それからは、単純に信仰により、謙遜と愛をもって神の御前に働くことができるようになり、神を悲しませるようなことは一つとして考えたり、言ったりしないようにしています」

ローレンスがこのように聖化されたのは神の愛はもちろんのこと、神以外のことを放棄する決意と不断の実践、その賜物だということは明らかです。
その後ローレンスは常に神のご臨在の中で生きることになりますが、彼の言葉を借りれば、それは「王よりも幸福な気持ち」であったそうです。

「私は神への愛ゆえに、フライパンの小さなオムレツをうらがえします。それが終わって、何もすることがなければ、私は床にふして私の神を礼拝し、オムレツを作る恵みを与えて下さったことを感謝し、それから、王よりも幸福な気持ちで立ち上がります。他に何もすることができない時、神への愛のためには、一本のわらを拾い上げることでも十分です。人々はどのようにして神を愛するかと学ぶ方法をさがしています。その人たちは、私の知らないいろいろな実際的方法を実行することによって、神への愛を得たいと願っています。さまざまな手段によって神の臨在の下に留まろうと苦労しています。それよりも、すべてのことを神を愛する愛のためになし、生活の必要の中ですべき自分のあらゆる務めを通して、その愛を神に示し、神と心を通わせることによって自分の内に神の臨在を保つことの方がもっと近道ではないでしょうか。複雑なことは何もありません。率直に、単純に、それに向かって行きさえすればいいのです」

さらに驚くことに、ローレンスは病の苦痛が最も烈しいときでさえ、一瞬たりとも辛そうな様子は見せず、喜びに溢れていたそうです。「痛みはないのですか?」と見舞いに来た修道会のメンバーが思わず尋ねると、「すいません。痛みはあるのです。わきが痛いのです。でも魂は満たされています」と答えるのでした。
そして最後に次の言葉を残し、ローレンスは神の身許へ召されたのでした。

「私は今、永遠になしつづけることをしています。神を誉め、賛美し、礼拝し、心を尽くして神を愛しています。他の何ものにも心を煩わされないで、神を礼拝し、神を愛すること、これが私たちのなすべき仕事のすべてですよ。兄弟たち」

私は今回、『あるヨギの自叙伝』を通して本当に素晴らしい聖者にお会いできたと実感しています。
宗教的偏見などは全くありませんでしたが、ブラザー・ローレンスによって初めて、私はキリスト教の信仰がすごく身近に感じられました。
またバクティ・ヨーガでは「神の御名を唱え、ただ神を愛する」ということが説かれていますが、バクティ(神への信愛)の思いもまた同時に身近に感じられました。

私の師であるシュリー・マハーヨーギーはよく次の言葉を言われます。

「愛とは捧げること、自らを他者の幸せのために与えることです」

ブラザー・ローレンスのように日々の生活の中で常に神を礼拝し、愛し、そして他者に奉仕することをしていきたいと私は今、強く思っています。

ローレンスの死後、霊的低迷期の時代にあって宝石のように光を放つ彼の生き方に深い感銘を受けていた修道院長のヨセフ・ド・ボーフォールが彼の談話と書簡を集め、本にまとめます。彼の存在はフランスでは忘れ去られますが、イギリスの地で本の出版が少しずつ重ねられ、世に知られることになったそうです。そして、ヒンドゥ教の多くの修行者もローレンスの本を読んで非常に感嘆しているという報告もあるそうです。こちらの本には、そのことが触れられています。

ゴーパーラ


スワミ・ヴィヴェーカーナンダからのインスパイア

『ヴィヴェーカーナンダの生涯』は何年も前に一度読んだことがあるのですが、断片的な記憶しかありません。しかし、あまりにも有名な聖者ヴィヴェーカーナンダのことは、サットサンガやパラマハンサ、ブログでもよく登場するので有名なエピソードは知っています。久しぶりに読み返してみると、とにかく心臓がえぐられるぐらい感動し、言葉をなくし、ただただ泣いてしまいました。なんと濃密な人生でしょうか。今回は、その感想を少し書かせていただきました。


(ヴィヴェーカーナンダの略歴などは今回省かせていただきます。まだ読んだことがないかた、あまり知らない方は私の説明を聞くよりは実際に読んでもらった方が良いと思います。)

今、私がヴィヴェーカーナンダとはどういう人か?と聞かれたら、こう答えます。

「人間の中にある神性を最も信じ、それをありありと見た人。自分自身がそれであるということも、それを他の人の中に見ることも、誰にでも可能だと断言し、それは、人に奉仕することによって実現する、ということを自らの命を削って世界に発信した人」

読んでいると、本を飛び出してヴィヴェーカーナンダが、今この世界に向けて同じように「全てが神の表れである、だから万人に仕えなさい」と語りかけてくるようで正直圧倒されました。それは彼のあまりにも濃厚な人生全体が、そのメッセージを含んでいると思ったし、一瞬たりともその想いから外れていない彼の一つ一つの行動が、彼の獅子の如く力強い言葉とともに証明しているように感じました。彼は、メッセージを世界に送っただけに留まらず、実際に一人でも多くの人間を目覚めさせるために、具体的に行動を起こし、そのために命を使ったのです。

多くの言葉に感銘を受けましたが、その中で自分自身が時代を超えてヴィヴェーカーナンダの恩寵をいただいていると感じた言葉を一つ紹介させてください。

「ヒンドゥ思想を英訳し、無味乾燥な哲学と難解な神話、奇妙で驚くような心理学をわかりやすく簡潔な一般向けの宗教にして、同時に最高の知性の要求にも答えることは、実際に試みた人にしかわからない大役だ。難解なアドヴァイタが日常生活の中で生命を持った詩的なものとならねばならない。煩わしいヨーガの学説が極めて科学的で実践的な心理学が引き出されなくてはならない。そしてすべての子供にも把握できるような形にすること、それが私の仕事だ。どこまで完成するかは、神のみがご存知だ。働く権利はあっても、その結果に対する権利は持たないのだから」

インドの歴史背景については詳しくありませんが、ヴィヴェーカーナンダの時代(そのもっともっと前から)インドには宗教の地盤はしっかりとあったと思います。しかし、難解で誰にでも分かるようなものではなく、おそらくブラーミンと呼ばれる僧侶階級にある人が理解できるものとなっていたのかもしれません。彼はヒンドゥ思想がもつ、その霊性の宝石をもっと日常生活の中で生命を持つよう、子供でも分かるような形にする必要性を感じていたのではないでしょうか。インド人に対してはもちろんのこと、新しくヒンドゥ思想に触れた世界中の人、特にアメリカ人に対して理解できるようにという思いがあったと思います。ヴィヴェーカーナンダは、インドの貴重な霊性の宝石は、宝石箱がないために汚物の山に埋もれている、反対に西洋は、健全な社会という形で宝石箱を作り上げたが、宝石を持ってはいなかったと言われています。そのため宝石箱を持つ国に、宝石を伝える必要性を感じていました。

そして実際に試みられた彼のいう「大役」の一つが、私たちが手にすることができる代表的な四冊「カルマ・ヨーガ」「バクティ・ヨーガ」「ラージャ・ヨーガ」「ギャーナ・ヨーガ」ではないでしょうか。


クラスに通いだしてまず始めて読んだ本は、「カルマ・ヨーガ」だったと思います。働くということの意味が理解できない、生きるためにお金を稼ぐ必要があることは頭で理解できるが、それをすることが生きることなのかと混乱していた私にとって、働くときの正しい考え方を教えてくれました。「利己心を捨てて働くこと、働きの結果、果実は私のものではないこと、そこに重要性はないということ。結果ではなく、働くという行為によって束縛から解き放たれ、ついには自由になること」自分自身の人生の方向性を知り、安心と喜びを得たことを覚えています。

「キャーナ・ヨーガ」を読んだときは、人間の本性について、私の中に神聖なものがあるのだということを知り、そのものすごく力強い言葉に圧倒されてしばらく動けなくなったことを覚えています。また、神、宗教というこれまで漠然としていた言葉、それでもその言葉の中に「神聖なものがあってほしい」と心のどこかで願っていたことに対して、「それでよかったのだ」と思うことができ、喜びで満たされたことを覚えています。

どちらの本にしても、それを読んで終わりではなく、実際の仕事や家族と関わりの中で、その考えを根付かせようと努力するすべを教えてくれたように思います。これこそが、ヴィヴェーカーナンダが願っていた「アドヴァイタが日常生活の中で生命を持ったもの」となったのだと思います。彼の働きは、時代を超えて、国境を超えて、ひとりのまだヒンドゥの思想を知らない日本人の中に根付き、理想を持たせてくれたと思います。

そして何より、インパクトがあったのが、「誰がこれを言っているのか!」ということでした。これを書いた人が実際に存在していた人間であるということ、それが何よりの励ましでした。人間の可能性をどこまでも広く大きくし、理想的な姿を現してくれました。同じ人間としてこのような人がいる・・・それだけで私は希望を持ち興奮したことを覚えています。

ヴィヴェーカーナンダと自分との関わりについて思いを馳せていたとき、ふと思い出されるエピソードがありました。それは、ヴィヴェーカーナンダのグルであるラーマクリシュナが、修行時代、自らの内にある驕りを無くすため、パリヤと言われる不可触民のトイレを自分の髪の毛を使って掃除をしたというエピソードです。ラーマクリシュナの中に不平等さや驕りが実際にあったのかどうかは分かりませんが、これは弟子に、教えを行為で示すためになされたように思います。誰もの中に神聖がある、すべてが同じ存在であると口で言うだけでなく、実際の行為で見せる。ヴィヴェーカーナンダがアドヴァイタ(不二一元論)を日常生活に根ざしたものとするために奮闘したことは、師であるラーマクリシュナの教え、そのものだったのだと思いました。ラーマクリシュナが実際に生き、それを見たヴィヴェーカーナンダが、それを同じように生き、さらに方法を駆使して世界に広めた、すべての根っこは師であるラーマクリシュナにあるし、こうして生きざまとして師と一つである、その姿にとてもとても憧れを感じました。

ひとつひとつのヴィヴェーカーナンダの行為は、あまりにも大きく、自分の生きている生活とかけ離れていて、彼を理想として何をすればいいのか一瞬わからなくなることがあります。でもそうではなく、彼が信じた人間の本性、神聖さ、純粋さは、すでに誰もの中にあるのだから、それを自らの中に実現していくこと、そして、目の前の人もその神聖な存在なのだから、自分の目の前の人に奉仕していくこと、それだけなのだと気付かされます。

最後にヴィヴェーカーナンダの力強い言葉を紹介して終わりにします。

「私は死ぬまで弛まずに働くだろう。そして死後も世界のために働くだろう。非真理に比して、真理は無限の力を秘めているのだ。それは人格、純粋さ、そして真理の力、人としての力だ。私にこうした力がある限り、あなた方は安心してよい。誰一人として私の髪の毛一本とて痛めることはできない。やっても失敗に終わるだろう、主がそうおっしゃったのだから」

彼は今も働いているのです。私たちもそれに続こうではありませんか。


神のかくれんぼ

「もういいかい?」「まーだだよ」

私は小さい頃、ときどきですが、『かくれんぼ』をして遊んでいました。
鬼になった人が目をふさぎ、「もういいよ」の声で、隠れん坊を探し出す遊びです。
今の子供たちもしているのでしょうか👀?

今回のブログは、『神のかくれんぼ』についての物語をご紹介させていただきます。

あるとき、裕福な商人が商用で旅に出た。
実業家に変装した泥棒が彼の道連れになり、チャンスがあり次第、彼からお金を盗もうと狙っていた。
毎朝、彼らが泊まっていた行きずりの宿屋を出る前に、商人は決まって明けっ広げに彼のお金を数えてからポケットに入れた。
そして夜になると商人は、見たところ怪しむ様子もなく眠りについた。
商人が眠っている間に、泥棒はいつも必死に商人の持ち物すべてを調べるのだが、お金を見つけることはできなかった。
失望に終わる宝探しの夜を何度か味わった泥棒は、結局諦めて彼の本当の意図を商人に白状した。
そして、どうしてそんなに上手くお金を隠せたのかを教えてもらうように懇願した。
すると商人は、何気なく答えた。
「私は、最初からあなたの企みを知っていました。ですから毎晩、あなたの枕の下にお金を置いたのです。あなたが決して見ようとしない、唯一の場所がそこだと十分承知していたので、私は安心して眠れました」

泥棒(心)は外の世界に財宝があると思って探し求めます。
しかし、至高の財宝(神・真実)は泥棒が決して見ようとしない唯一の場所、心の内奥に神ご自身が隠されたという、何ともトリッキーな神のお遊びをこの物語は隠喩しています。

私はこの物語を読んだ時、「今、ここに、この瞬間に、神(真実)は在る!」そう思い、ハッとさせられ、心の内側に意識がグッと引き戻されたのでしたーー

「もういいかい?」「もういいよ」

私、大人になっても、かくれんぼやってるなと感じます。

心は目隠しされた鬼ーー
「もういいよ」の神の呼び声で心の目を開いて瞑想し、神を探求しているのだと思いました👹💨

そして、「みーつけた!」と言って笑いたいです、無邪気な子供のように😄

愛するクリシュナが突然お隠れになり、クリシュナを探し求めるゴーピーたち。 再び彼女たちの前に顕れたクリシュナは、次の弁明をします。 「手に入れた財が失われたとき、財をなくしたその人は、それのことばかり考えて、他のことは気にもとめないように、それと同じように、女たちよ、私のために世の常識も、ヴェーダの規定も、自分の身内も、放擲し去ったあなた方を、私に信順させるために、私は眼に見えぬ姿をとって、密かに隠れてしまったのだ」

ゴーパーラ


パラマハンサWeb化の衝撃と歓び!!!

ついにこの日がやってきた!
「紙媒体のパラマハンサがWebに移行する」というお知らせに、コロナ禍にあっても何とか以前と変わらない気持ちで暮らしていた私は、思ってもみない衝撃に見舞われました。

機関誌『パラマハンサ』には、多くのサットサンガから選りすぐられた師の教えが記されたプラナヴァ・サーラをはじめ、バラエティに富んだヨーガのエッセンスが掲載され、読者を真理へと導いてくれていました。私自身は、好きな記事には見出しを貼り、さまらさのレシピはリストに書き出し、大切な教えの載ったページをばらして持ち歩く、そんなふうにして、いつでも手に取り、繰り返しじっくり読むことのできる紙面の『パラマハンサ』を、どれほど自分が頼りにしていたのか、痛感しました。

振り返ると、私自身のヨーガの歩みは、常に『パラマハンサ』とともにあったと言えると思います。師がいらっしゃる京都からは遠く離れて住む身にとっては、『パラマハンサ』はヨーガの道を歩む上で掛け替えのないものです。先輩方の経験談を読むと大いに励まされましたし、たとえ文字を読むのがしんどくても、表紙や写真を眺めていると心穏やかになれました。パラマハンサ-至高の白鳥-という名の通り、毎号郵送で飛んできてくれるのを心待ちにしていました。
しかしもう、新しい号の紙面を手にすることはないのだと思うと、ちょっと残念さと悲しさでなんとも言えない気持ちになりました。

見出しを付けた過去の『パラマハンサ』と書き写したさまらさレシピ。大変お世話になりました!

スマホでのトップ画面!パラマハンサが美しく、各記事のアイコン写真も綺麗です!(サンプルページ 5月以降に正式にアップ予定)

しかし、いつまでも沈んだ気持ちでいるわけにはいかないので、気を取り直してサンプルのパラマハンサWebページを見てみることに。
するとそこには、今までモノクロでしか見られなかったサットサンガの写真がカラーになり、色使いの美しい細密画が何枚も掲載されている! さらに、初めは画像の鮮やかさに目を奪われがちでしたが、画像の貼られた記事を読んでいると、これまでの『パラマハンサ』を読んでいるときとは違う感覚が働き、その話の内容にすっと入っていけるような気がしてきました。
印象的なのはプラナヴァ・サーラの写真で、サンガに集う人たちの真剣なまなざしと、問いに応じてくださる師の慈愛に満ちた面持ちとが相まって、自分もその場に参加しているような臨場感を感じました。師が直々に教えを授けてくださっている場面を目にし、実際の問答を読むことができるとは、なんと貴重なことかと思います。他にも体験記やシリーズとなっていた読み物は、一気にまとめて読めるし、気になる言葉を検索すると関連する記事が選び出されてきます。いつでもどこでもヨーガの教えを読むことができる! 忙しい毎日でも仕事でヘコんだときでも、パラマハンサのサイトを見れば前向きになれる! 画像に加えて音声や動画も配信されるようになれば、さまざまな面からヨーガを知り、学ぶことができるに違いありません。
そんなことを考えているうちに、紙面ではなくなると知った時のショックや、横書きになって内容が頭に入るのかしらという心配はいつの間にかどこかに吹き飛び、Web版パラマハンサがとても楽しみになってきました!

すでにインターネットは人々の生活の中で情報伝達やコミュニケーションの手段として欠かせないものとなっており、ヨーガを学んだり、広めるためにこれを利用するということは大きな意味があると思います。特に先行きの見えない今、将来を不安に思う人、自分の生き方や生きる目的を真剣に考える人が世界中に大勢いて、『Web版パラマハンサ』がその人たちが真理に触れるきっかけになるとしたら、それはとても嬉しいことです。
ヨーガの道は、先入観や固定観念をもたず、変化を恐れず大胆に進むもの、と教えられています。新たに大きく発展していく『パラマハンサ』、5月の配信が待ち遠しいです。

マイトリー


本日はサットグル・ジャヤンティー🍁

11月23日は、私たちの師シュリー・マハーヨーギーの御聖誕日「サットグル・ジャヤンティー」です。

無形の真実在が人の姿をとって御聖誕された最も吉祥な日ーー

残念ながら、本年は一同に会して祝祭を開催することはできませんが、本日京都の弟子数名が略式という形で師に感謝と礼拝を献上します。
また、11月20日に発行された『パラマハンサ』は「サットグル・ジャヤンティー特集号」ーー師の御聖誕と導きの感謝、弟子の悟りと献身奉仕の誓願ーーその祝辞が掲載されています。
会員の方は、御聖誕日にこの『パラマハンサ』を開くことになっていますが、もうお読みになられたでしょうか?

今年はとりわけ多くの祝辞が献上され、すべての祝辞が師への感謝と愛に溢れ、その純粋な思いが輝きを放って反射し合い、私には『パラマハンサ』が熱く光り輝いているかのように見えました。

無形の真実在が人の姿をとって顕現された師の存在は「奇跡」としか言いようがありません。
そしてまた、人が本気で真実・神を目指そうと決意し、その道を歩んでいること、これも同様に「奇跡」としか思えません。
師は以前、次の言葉をおっしゃっています。

「ヴェーダ(天啓聖典)の権威によって至高の存在が輝くのではなく、

至高の存在によってヴェーダが輝くのである。

それは抽象的概念や空想の産物ではなく、

具体的にこの地上に身をもって顕れた存在のことなのである。

ゆえにグル・ジャヤンティーの真意はここにある」

師に出会わなければ、聖典の1ページも理解できなかったと思います。
また、私たちの人生には常に不安と苦しみが付き纏っていたことでしょう。
しかしながら、私たちを照らす「光輝く存在」がこの地にお生れになったのです!!!

昨日、「シュリー・マハーヨーギ・ストートラム」が期間限定でYouTubeにて公開されました。
場所は違えど、師の御聖誕されたこの祝福された日に、ハートの内でその歓びを分かち合い、師に最大の感謝を捧げましょう!!!
お天道様も祝福されています!!!

23日、東の空には朝日が昇り、西の空には虹が架かっていました🌈 奇跡!!! 

ゴーパーラ


永遠の物語 悪から善がでて来る

またもや永遠の物語を読んでいると、こんな話がありました。

王様が大臣をつれて狩りにでかけました。王様は無神論者でしたが、大臣は大変信心深く、人の身に起こったことはなんであれ、究極には神の思召しで彼のためによいことになる、と信じていました。

王様は森の中で雄ジカを見つけました。弓に矢をつがえようとした時、鋭い矢の先端で手の指を1本傷つけてしまいました。大臣は王様にこの傷は何かお為になるでしょう、と進言しました。これを聞いて王様は腹を立て、近くの井戸に大臣を突き落としました。王様は憎々しく、井戸に落ちたのはお前の幸せためであるぞ、と言いました。

王宮に帰ろうとした矢先、王様は盗賊の一団に捕まってしまいました。彼らは女神カーリのお祀りの準備をしていて、生贄(いけにえ)として祭神に捧げる男を探していました。王様は女神の前につれてこられ、沐浴させられた後、身体を調べられ、指の傷が発見されました。身体が完全に無傷な人間しかお供えしない、というのが盗賊たちの掟でした。それで彼は放免されました。

ここで王様は今日の出来事をよく考え、指の傷が自分を救ったことに思いいたり、大臣の言葉の正しさを悟りました。彼はそこで井戸に戻って大臣を引き上げました。彼が大臣に一部始終を話すと、後者もまた、もし王様が私を井戸に突き落としていらっしゃらなかったら、盗賊は私を捕らえて生贄にしたでしょう、と言いました。


どんな状況下にあっても、素直に神を信じ続ける大臣の姿に胸が躍りました。すべては神の思し召し、と言葉にするのは簡単ですが、実際にどんな状況も受け入れていくということは、尋常でない強い信仰が要ることです。そして物語の結末は痺れました。王様は大臣の進言の通り、指に傷を負ったことで命が助かり、大臣は王様に井戸に突き落としてもらったお陰で、盗賊に見つからずに命が助かったというのです。神のなさることは人間の想像を超えている、と言います。そして神は不可能を可能にすると言います。どんなときも神へのゆるぎない信仰をもつ大切さが、とてもよく感じられる物語でした。

ところで最近、私はわりと長く働いた職場を辞め、新しい仕事に就くことになりました。新たな人との関わりや、新たに仕事を覚えることなど、今までと勝手の違うことに慣れるのには、しんどいことも色々あるだろうな・・・と思うと、自分で決断したこととはいえ少し不安を感じていました。けれどこの物語を読んで頑張れる気がしてきました。すべては神の思し召し。どんなことも自分のためになるのです。この金言を常に胸に抱きながら、新しい仕事と向き合っていきたいと思います。

                                  アマラー

 


『あるヨギの自叙伝』を読んで(6)ーーラマナ・マハリシーー

約2年ぶりの「『あるヨギの自叙伝』を読んで」のコーナーです‼️

今回は、20世紀インドの覚者ラマナ・マハリシです。

「身体は死滅するが、魂は死によって決して手を触れられることはない。私とは不滅の魂なのだ」

ーーラマナ・マハリシーー

16歳でこの不滅の魂である「本当の私」に目覚めたラマナ・マハリシ。
今年に入り私は、「本当の私」に瞑想を始め、ラマナ・マハリシにすごく惹かれるようになりました。

そこで最近、『あるヨギの自叙伝』にヨーガナンダがラマナ・マハリシのもとを訪ねていたことが書かれていたのを思い出し、読み返してみました。

すると、ラマナ・マハリシについて記されていたのは、写真を含めてわずか1ページ……😅

なぜこんなに短いのだろうと思ったのですが、2人の交流がわずか数時間だったこと、またラマナ・マハリシにはすでに弟子がいたので、ヨーガナンダは詳しい紹介を留めたのかもしれないと思いました。(現に今、ラマナ・マハリシの著作は弟子や信者によって数多く出版されています)

ただ、この1ページの中には、「沈黙の聖者」と称されるラマナ・マハリシとの「言葉ではない交流」が感じられます。

例えば、アーシュラマ(僧院)を訪れたヨーガナンダを暖かく迎えたラマナ・マハリシは、傍にあったヨーガナンダが発刊していた雑誌『イースト・ウエスト』が積まれた山を指差したそうです。
また、ラマナ・マハリシの弟子たちを交えての会話だったため、ラマナ・マハリシ自身はほとんど何も語らなかったようですが、その穏やかな顔は神のような愛と英知に輝いていたそうです。

心の波が静まる「沈黙」が訪れると、その奥に在る不滅の魂「本当の私」から「無限の歓び」が湧いてくると言われています。
たとえ言葉を発さなくても、ラマナ・マハリシのちょっとした行為やその表情から、霊的な交歓がなされていたことが感じられるエピソードです。

そしてヨーガナンダは、ラマナ・マハリシの紹介を最も主要な教えである「私は誰か」で表しています。

スリ・ラマナは、苦悩する人類に、彼らが見失ってしまった〝完全なるもの〟を取り戻させるために、「人はたえず『おのれとは何者か』と自らに問いかけるべきである」と教えている。これこそまさに〝偉大なる問い〟である。これ以外の考えを厳しく排除することによって、人は、真の自己の中にしだいに深く沈潜し、雑念に惑わされないようになるのである。

「おのれとは何者か」、つまり「私は誰か」ーーこれをヨーガナンダは「偉大なる問い」と言っています。
いろんな問いがこの世界には溢れています。
例えば、「仕事とは何か?」「人生とは何か?」
ただ、どんなことを考えるにしても、「仕事をしている私」「この人生を生きている私」というふうに、そこには「私」がいます。
「私のしたい仕事をする」「私がやりたいように人生を生きる」とはよく聞きますが、「では、その私は誰か?」と考える人は本当に稀です。
この主体を考えないこと、これこそ苦悩する人類の盲点であり、その主体である「私」を熟考し、偉大なる「本当の私」を自覚するための問いが、「私は誰か」にあると思います。

今年に入り私自身、「私は誰か」という瞑想を始めていますが、上記のヨーガナンダの一文にそのヒントをいただいた気がしました。
それは「たえず」「それ以外の考えを厳しく排除」というところです。
バクタが神以外のことを思わないように、心にいかなる思いが起こったとしても本当の私に立ち戻る「私は誰か」、その問いを繰り返し繰り返し実践していく、これを徹底していきたいと私自身、強く思いました。

そして今回、『あるヨギの自叙伝』はどんな小さなエピソードや一文からでも真理が学べ、本当に素晴らしい聖典であると改めて実感しました!
まさに真理で埋め尽くされた宝の宝庫です🌝💎

ゴーパーラ


永遠の物語 牡牛ー神

最近、『永遠の物語(日本ヴェーダーンタ協会)』の本を読みました。

その中でこんな話がありました。

ある1人のヨーガ行者が人里はなれた森で修行をしていました。1人の牛飼いが、このヨーガ行者が何時間も瞑想や苦行をし、1人で勉強して過ごしているのを毎日見て、何をしているのか興味が湧き、近寄って言いました。

「旦那、神への道を教えてください」このヨーガ行者は非常に学識が深く、偉大な人物でした。「お前がどうやって神を理解できるのかね。お前はただの牛飼いだ。うすのろめ。帰って牛の番でもしていろ」と答えました。男は立ち去りましたが、しばらくすると本当に知りたいという欲求が強くなりました。居てもたってもいられず、またヨーガ行者のところにやって来て、神の教えを請いましたが、また追い返されました。

それでも牛飼いは神について知りたくてたまらず、またヨーガ行者のところに行きました。あまり強引にせがむので、ヨーガ行者は男を黙らせようと、「お前の飼っている群れの中の大きい牡牛のようなものだ。それが神だ。神はそのような大きい牡牛になるのだ」と言いました。

男は牡牛を神と信じ、日夜拝み始めました。その牡牛のために一番緑の濃い草をやり、横で休み、明かりを灯してやり、近くに座り、後を追いました。そのようにして年月がたちました。

ある日、あたかも牡牛から出たような声が聞こえてきました。「私の息子よ、私の息子よ」牛がしゃべっているのかどうなのか、心の悩みを思いめぐらしました。何度か声を聞くうちに、やっと分かりました。声は自らの心の中から聞こえて来たのです。そして神は自分の心の中に居ることを悟りました。最高の教師が説くすばらしい真理が分かったのです。「私はつねに汝とともにある」。まずしい牛飼いは神秘の全容が分かりました。

そこで彼はヨーガ行者のところにまた赴きました。牛飼いは全身神々しい姿に変わり、顔つきにも天国の光の輝きが放たれているかのようでした。ヨーガ行者は思わず立ち上がりました。「何という変わりようだ?どこで見つけたのだ?」「旦那、あなた様がそれをくださいました」「なんだって?私は冗談で言っただけなのに」


牛飼いの、偏見をもたれても2度断られても諦めず、ヨーガ行者に教えを請いに行った心の強さに感服しました。彼の中では、ただ純粋な神への探求心で胸がはち切れそうなのがひしひしと伝わってきました。

そして牛飼いは、方便であるヨーガ行者の言葉をそのまま素直に受け入れて実行し、ついに内なる神に目覚めました。牛は神のシンボルとなっていたのです。純粋に神だけを求めて礼拝する真剣な思いを、ヨーガ行者の思惑とは別のところで神はちゃんと受け止めておられ、ついには恩寵を与えられたのです。

どこにいても、何をしていても、純粋に神に捧げたいという気持ちで日々を過ごしていれば、神はその思いに応えられ、いつか道が開ける時が来るのだと勇気をもらいました。

                                                                                                               アマラー


聖典を読む喜び

私は今、とても楽しく毎日聖典や聖者の本を読んでいます!

普段の私の日常生活は仕事や家庭が中心なので、自然にヨーガの話に触れたり、いつでも周りの誰かとヨーガの話ができるという環境ではありません。ですがこれまでは、毎週クラスでヨーガの仲間と顔を合わせ、クラスの後にそのままいつまでもヨーガの話をしたり、一緒にキールタンを歌い共に神の御名の歓びを分かち合うということが当たり前のようにできていました。それは私にとって大きな喜びであり、確実に日常生活の中でヨーガの実践を継続していく一つの原動力にもなっていました。
ところが、緊急事態宣言以降はそのような機会がなくなり、長い間、師にお会いすることもできず徐々にモヤモヤとした気持ちが膨らんできました。
「あぁ、師にお会いしたい!真理や神の話が聞きたい!語り合いたい!でもこんな状況でどうすれば……。そうだ聖典があるじゃないか!!」
いつもはじっくり本を読む時間がなかなか取れないのですが、外向きな活動が減り在宅時間が増えたので、分厚くて家でしか読めない本もゆっくり読むことができます。

最近よく読んでいる本。『ヨーガの福音』は師の教えが編纂されたとても読みやすい一冊。いつもすぐ手に取れる所に置いています。

実は、以前は聖典や聖者の本と聞くと何やらとても難解で、私が理解するにはハードルが高すぎるというイメージがありました。実際「さあ、読むぞ!」と気合いを入れてから読み始めるのですが、カタカナで書かれた聞きなれない言葉を正確に読むことから難しく、言葉の意味や書かれている内容を理解するのは更に根気がいることでした。「何のことやら、さっぱり分からん…」何度も挫折しそうになる心を叱咤激励しながら何とか読んでみるものの、大抵はしばらく読んでいるうちに睡魔との戦いにあえなく敗れて本を閉じる、というのがお決まりのパターンでした。笑
そんな状態の私でしたが、師の下でヨーガを学ぶようになってから、たくさんの学びの機会をいただき、聖典に出てくる言葉の意味やヨーガの教えを少しずつ理解できる様になっていきました。師は、真理の言葉や教えを誰にでも分かるように、時にユーモアを混じえながら実に分かり易くシンプルに教えて下さいます。直接師より授かる教えは何ものにも代え難い大切な宝物です。ですがそのような貴重な機会はいつもあるわけではありません。師にお会い出来ない時には、師の教えが編纂された書籍や機関誌『パラマハンサ』を読むことで、いつでも師の教えに触れることができます。
また、皆で聖典の読書会をしたり、バクティ・サンガムではたくさんの神々や聖者の物語に親しみ、キールタンで神の御名を歌うことを通して自分の中にある歓びの源泉に触れるような体験をしました。
そうしているうちに、気が付くといつの間にか聖典がとても身近に感じられるようになり、聖典を読むことが楽しく好きになっていたのです!読んでいるだけで歓びが溢れてきたり、時には面白くて笑ってしまったり、神の栄光と祝福に圧倒されて涙で字が読めなくなったりします。それは、以前思っていた頭で知識として理解するというものではなく、ハートで読んでいるような感覚です。

最近では、日々の生活のいろいろな場面でまるで聖典連想ゲーム?のようにそれらを思い出すようになりました。
先日、ちょうど『ラーマクリシュナの福音』を読んでいたところへ娘がおやつのリンゴを持って来てくれた時のことです。突然、そのリンゴがプラサード(神に捧げられた供物のお下がり)のように感じられ、一瞬輝いているように見えました。運んでくる娘の様子もなぜか恭しく見えます。不思議な気持ちでリンゴを口に入れようとした時、今度は自分の体がヨーガの教えにある“神の神殿”であるように感じ、自分のために食べるのではなく自分の中に住まわれている神のために食べているという感覚になったのです。同時に、神殿であるこの体を大切にしなければいけないという思いが湧いてきました。“食べる”という行為をこの時ほど神聖なものに感じたことはありませんでした。
また、私は今小さな保育園で保育補助の仕事をしているのですが、毎日子ども達がゴーパーラ(ベイビー・クリシュナ)に思えて仕方がありません!幼い子ども達のお世話は気を付けなければいけないことがとても多いのですが、いたずらをしたり、わがままを言ったり、泣いたり甘えたり、仲良く遊んでいたかと思うとケンカをはじめたり…、子ども達の無垢な笑顔を見ていると、まるで純粋で愛そのものであるゴーパーラが私の周りで遊び戯れているように思えるのです。そして同僚の保育士さん達も私自身もヤショーダ(クリシュナの養母)のような気がしてきます。

ゴーパーラ(クリシュナ)は兄のバララーマや遊び友達の牧童たちと一緒にさまざまな悪戯をして大人を困らせます。あ、今みんなでしめし合わせて好物のバターを盗もうとしています!

今、私が聖典を真に理解しているとはとてもいい難いでのすが、それでも本を開けばどのページも真理の教えや神を讃える言葉で埋め尽くされ、それらの言葉を目にするだけでも胸に歓びが広がりますし、聖者の生き様に触れると決して諦めずに少しでも前進しようという勇気が幾度となく呼び起こされます。難解で取っつきにくいイメージしかなかった聖典がいつの間にか私の日常の中に入り込みイキイキと動き出すなんて、以前の私からは予想だにできなかったことです。師の導きがなければ、未だに睡魔との戦いに敗れ続けていたことでしょう。
どうぞ、聖典の真実をこの世界の中に見ることができますように。どうぞ、聖典の言葉が私を通して顕わされますように。最愛の師を想い、お会いできる日を待ち望みながら、今日も歓びとともに聖典を開きたいと思います。

シャルミニー