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ヨーガ・アーサナのポイント

最近、私はサマコーナ・アーサナ(両開脚の形)をしても、お尻が地面に付かなくなりました。
プラーナーヤーマ(呼吸法)を取り入れ、アーサナの時間を減らしてサマコーナをしなくなったら、すぐにできなくなってしまいました。。😓
まぁなぜ、こんな話をするかというと、アーサナのことをちょっと話したいからです。

鴨川でデモンストレーションしていた時の懐かしい写真です〜!(2015年6月)

アーサナを10年くらい続けていると、できるポーズも増えてきます。
「ゴーパーラさんは、痛いと感じるポーズはないのですか? 最初からアーサナできたのですか?」と聞かれることがありますが、「いや、そんなことはない」と答えます。
もともと体は硬く、身体測定で前屈をしても、「マイナス17センチ」とかの記録でした。
なので、アーサナを始めてから最初の数年間は、重い身体を引きずるように行なっていました。
徐々に身体と呼吸がアーサナに慣れ始め、アーサナをすることに気負いや抵抗のようなものはなくなっていきましたが、ルーティンワークのようになってしまう時もありました。
ただそんな中、アーサナへの向上心を持ち続けるターニングポイントのようなものが、二度あったように思います。

一度目は2015年11月の『The Eternal Questー永遠の探求ー』に出演させていただいたことです。
形には慣れ、アドバンス(高度)のものも少し行なっていた時期でしたが、このイベントでアーサナと向き合ったことで、ポーズを完成させるためには、いくつかの「ポイント」があるということを実感しました。
例えばサマコーナ・アーサナ(両開脚の形)であれば、まず手にしっかりと体重をあずけ、腰を入れてお尻の位置を変えずに重心を上体の方に移行し、その重みで足を開いて踵を立てる。
心というのは厄介なもので、どうしてもお尻が地面に付くこと、つまり結果を求めてしまいます。
形や結果に執らわれずに、呼吸を調え、ポイントをしっかりと意識して丁寧にアーサナを行なう。
これは先輩がクラスで指導されていた内容でありましたが、最終ポイントに至るにはいくつかのポイントがあることを身をもって感じたのでした。

二度目は、2016年末から2年ほど行なっていただいた「師の直伝クラス」でした。
直伝クラスでの師は、細かいことはおっしゃらず、いろんなアドバンスに挑戦するように促されました。
そうすると、できないと思っていたアドバンスがスッとできるようになったり、できないものも少しでもできるようにがんばれたのでした。
シャラバ・アーサナ(バッタの形)のアドバンスができないでいる時に師は、「なかなかできひんな。でも、そのうちできるようになるやろ!」とおっしゃられることもあり、その二年間の直伝クラスは、師のお言葉や視線、クラス中の一挙手一投足が私を奮い立たせたのでした。

ヨーガの一部門のアーサナだけ見ても、師の導きは至極、積極的であります。
できていても、できなくても、前に進めてくれるダイナミックな歩みだとすごく感じます。
最近、久しぶりに私は『In The Cave With The Master』のDVDを観ました。
師はアーサナ自体が15年振り、また30年振りにしたというアドバンスのアーサナを軽々とこなしておりました。
これは本当に「驚愕」の映像です。(まだ見ていない人は見るべし!)
私は1カ月も経たないうちにサマコーナができなくなっていたので「この差はいったい何だろうか……」と思わずにはいられませんでしたが、最近読み返した『図解 ヨーガ・アーサナ 基本編』の冒頭には、

「ヨーガとは、本当の自分を実現することです」

と書かれてありました。

「過去や形には執らわれたら、ダメだな」と前向きに捉え、今はヨーガの最大の的(ポイント)「本当の自分」に一点集中を試みている最中です。

『In The Cave With The Master』『図解 ヨーガ・アーサナ 基本編』をまだお持ちでない方は、クラス休講中の折、ぜひこの機会にご覧になってください!(👈こちらをクリック)

ゴーパーラ   


心動かされる真実の言葉〜パラマハンサより

マハーヨーギー・ミッションの機関紙『パラマハンサ』。その冊子を初めて手にしたのは、一受講生としてアーサナ・瞑想クラスに通ってまだ間もない頃でした。聞きなれない真理の言葉やインドのサンスクリット語、未知なるヨーガの世界に一瞬戸惑い、頭の中ははてなマークでいっぱいでしたが、とにかく何回も繰り返し読みました。 

そしてその中で、師の「ヨーガは普遍的である。普遍ということは無差別に、あらゆる人にとって共有できる内容を持っているということです。——その教え、方法について。当然、その真実は同じ、一つです」という言葉に目が止まりました。その時、自分にも道が開かれているのを感じ、これからもっとヨーガを学んでいこう!という気持ちが起こったことを覚えています。

『パラマハンサ』を頼りにしながら、私は心を見つめる作業を続けていきました。実践してきた人の経験談には説得力があり、それぞれの人の人生を変えたヨーガとの出会い、師と弟子の物語はとてもドラマティックに感じられました。また苦悩や葛藤を乗り越えながら道を突き進む姿に共感し、とても励まされました。そして何より、さまざまな人が投げかけるあらゆる疑問に対して、優しく、力強く、シンプルに語られる師の言葉に何度も心を動かされ、確かな真実を感じてきました。

久しぶりに紙面を開いてみると、かつて大きな衝動を与えられた師の言葉が、再びみずみずしくハートに流れ込んできました!

この道のりが遠いように思ってはいけません。なぜならその真実がどこに在るかと言えば、自分の中に在るのですから。それがなければ皆さんはこうして肉体も持っていらっしゃらないし、この仮の存在すらもなかったのです。こうして在ること自体が、すべてにその「真実」が、「存在」が在るという証拠なんですよ。だから素直に、単純に、ひたすらそこに瞑想を深めていく、進めていくことで、その真実が体験されます。そうしてそれに目覚めます。
——シュリー・マハーヨーギー

パラマハンサ中面

何度も読んだ『パラマハンサ』31号(2002年発行)

 『パラマハンサ』はまさにリアルな聖典だと思います。それは遠い過去のお話ではなく、今、現代に繰り広げられている師と弟子の真摯な問いと答えが、ヨーガを実践する人たちのありのままの体験がそこにあるから。そして、1997年の発刊当時から諸先輩方によって紡がれてきた熱、信念が込められています。

今はインターネットの時代ですが、紙の媒体で文字を読むのも味わい深いものがあります。(と言いながらいつかオンラインになる日もあるかもしれませんが)。難しく、読み進められなかったコーナーがあっても、時が経って再び開いてみると、不思議と新鮮な気付きがあったり、すとんと胸に落ちたりということもあります。
春から定例サットサンガが開催できず、全クラスも休講中という状況ですが、この期間に私も少しずつバックナンバーを読んでいきたいなと思いました。
またクラス受講者の方などにも、ぜひこの機会に『パラマハンサ』を手にし、少しでもお家でヨーガに触れる時間をもっていただけたら嬉しいです。

パラマハンサ

インド細密画を神話とともに紹介するページやヨーガの料理「さまらさ」のコーナーもあり。

マードゥリー

追伸。少し次号の予告を〜。5月発刊の139号は、厳選されたサットサンガの記録や、今回師が渡米されていた際にニューヨークに滞在した日本の弟子たちの手記も掲載予定です! お楽しみに〜。

*2020年度の新規パラマハンサ会員を募集中です。
詳しくはこちら

桜を追いかけるように一気に芽吹いたもみじの若葉(プレーマ・アーシュラマより)


タパスと沈黙

新型コロナウィルスの感染拡大のため、不安な日々が続きますが、皆様、元気にお過ごしでしょうか?
私は介護職ですが、移動支援はほぼ中止になり、利用者の方も外出自粛を余儀なくされ、また職場の嵐山は外国人観光客も減って、いつもの賑わいは陰りを見せています。
世界的に活動規制がなされてきているため、いかに人とこの世の中が動的な性質を帯びているかを肌で感じずにはいられないほどです。
そんな状況下の中、自宅で過ごす時間が増えた方も多いかと思います。
私自身も自宅での時間が増えたため、改めてヨーガの基礎であるヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)について考え、その教えが掲載されている過去の『パラマハンサ』を読み返したりしていました。

『パラマハンサ』(No.94)では「タパス(苦行・熱)」についての問答があり、それを読み返すと新たな学びがありました。
タパスとは「苦行」「浄化の熱」、それによって「快不快、暑寒などのあらゆる心身の二元性を克服する」という意味がありますが、師はその言葉のさらなる意味を明確に説かれていました。

「二元性を超えるということは、感覚や心の制御が自動的に達成された一種の悟りの心境でもある。心の統一性、サットヴァ性、そういう心のきれいな鏡の状態。ウパニシャッドの言葉では、『タパスによってブラフマンを知れ』、『タパスはブラフマンなり』という言葉もある。それはタパスによって二元性を超えるから、すなわちブラフマンの領域になる」

「二元性をつくっている大きな原因の一つはアハンカーラというエゴ意識です。これが自と他を区別し、二元性の大きな象徴でもある。この二元性がなくなっていけば、自と他の観念が壊れ、エゴ性に替わってアートマン、神という一つの存在が正しい位置を占めるようになる」

ーーシュリー・マハーヨーギー

これは私がヨーガを始めた頃の2012年の教えですが、二元性の根源を説き明かし、タパスのさらに奥深い意味を教えてくださっていた師に、私は改めて心より感服致しました。
また最近私が惹かれている20世紀インドの覚者ラマナ・マハリシは、「内面において静寂を保つという行為は、心のすべてをもって行なわれる激しい活動であり、中断されることはない。他のどのような方法によっても打ち壊すことのできない無知は、『沈黙(マウナ)』と呼ばれている激しい活動によって完璧に打ち壊される」と述べていますが、この「沈黙の激しい活動」とは「タパス」と同義だと感じました。

活動自粛で自宅で過ごす静かな時間は増えましたが、私自身、内面はヨーガの激しい活動でその情熱を燃やしていきたいと思っている次第です。

ゴーパーラ


師 グルとは

人間何をするにしても一人で全て切り開いてきたという人はいないでしょう。産まれた瞬間から親に育てられ、就学して先生に教わり、働いて上司に指導され。

習い事も師と仰ぐ人を敬い、教えを授かる事で上達します。

ヨーガでもグルという師から、日々の修行法や生活における心構え、そしては最終的に悟りに至る道を教わります。

グルとはどんな存在なのでしょうか?また、グルと弟子の関係とはどういったものなのでしょうか?

私が大好きな聖者ラマナ・マハリシのグルについての、とても興味深い教えがありましたのでご紹介したいと思います。

「神・恩寵・グルはみな同義語です。すべてに遍在する神は愛する帰依者を哀れに思い、自らを帰依者の次元に相応させた姿で現れ真理を説くのです。そして教えと交流によって帰依者の心を浄めます。ところが帰依者は彼を人間だと思い、二つの身体の間に何らかの関係を結ぶことを期待します。あなたは自分を身体だと思っているため、グルもまた身体を通して何かをしてくれると思うのです。しかし神であり真我の化身であるグルは帰依者の内側に働きかけ、彼が道を間違っていることに気づかせ、内なる真我を実現するまで正しい道へと彼を導きます。グルは内面と外面の両方に存在しています。外面からは心が内面に向かうように後押しをし、内面からは心を真我に引き込み静かになるように助けます。」

いかがでしょうか?思っていたグルのイメージを遙かに飛び越えていませんか?

私がヨギさんとお目にかかれた経緯を思い起こしても、もはやたまたま縁あって京都にいらした先生と生徒の関係などではなく、もっともっと深遠なそれこそ恩寵としか言いあらわせない絆、巡り合わせを感じてしまいます。

なぜ私はグルと出会ったのだろう?

私は幸せになりたかった。時間やお金、他者との関係で変化するような幸せでなく、決してなくならない永遠の自由と安住をもとめていた。はたしてそんなものがあるのか?と思いながら。これは辛かった当時の状況から逃げたかったという反射の対応であると同時に、私という存在の本質からあふれる、原点への回帰願望だったのだと思います。

そして時期と準備が調ったタイミングで、私はヨギさんにお目にかかりました。

真理への願望が生まれたとき、グルが現れた。真理を実現するのにグルは不可欠だから。

以下太字は『悟り』の中での、シュリー・マハーヨーギーの御言葉です。

グルと弟子の関係は一般的な社会における教師と弟子の関係でもなければ、取引でもありません。ただ、真実の愛によってのみ成立するものです。(愛とは他者に自らを捧げるという行為でしたね!)

グルの直接的な意味は、闇を取り除く光、つまり無知を取り除く真実という意味です。すでに真実の光は、それぞれ皆の中に在ります。ただちょっと邪魔をしている影があるだけ。そのために外からの光が必要な時もあります。その闇が取り除かれるまでの間を弟子と呼びます。それが実現すればグルと弟子に違いはありません。不異(おなじ)・一(ひとつ)です。(私の真我実現に必要な無知が取り払われたなら、ヨギさんはもうグルではなくなるの?……)

まず弟子は、悟りを求めなければならない。そして真実の教え、正しい教えを、真実のグルから学ばなければならない。さらに真剣さと情熱をもって、学びと修行を実行しなければならない。これらは最も中心的な心と行動のあり方です。さらにもう少し繊細なことを言えば、素直であること。素直な心、謙虚。(これに関しては、常に常に念を入れながら日々精進しています!)

自分の体験を一つ一つ検証しながら、ラマナ・マハリシとシュリー・マハーヨーギーの御言葉を読み解くと、私達と同じ現代の日本に住まわれ、私達と同じものを食べ、同じ楽しみを喜ばれるヨギさんの存在と、八十数年前にインドで語られたラマナ・マハリシの教えで明かされるグルという存在の驚くべき一致に改めて平伏してしまいます。

どちらも、“知っている側”から語られた事実としての真理の手触りが感じられます。同時に、私達のグルという存在が、どれほど崇高な顕れであるかということに畏敬の念を禁じえません。

私が肉体という粗大な身体をまとって、この現象世界に生まれ落ちた末にどういう因果か真理を求めた。そうしたら、神は自らを人間の形に顕してグルとして目の前に現れた。行く先々で愛という無償の働きで私に教えを授け導かれるグル。ともに歩む沢山の素晴らしい兄弟姉妹も授けてくださった。かたや真我という自らの本質に自分の力では気づけずに何度も何度も転生を繰り返す私。

これは冷静に考えるとそら恐ろしいことです。もしこのチャンス(今生)に、この期に及んで言い訳や、迷いを口にして進まなかったら、果たしてまた何生涯私は転がり続けるでしょうか?

神は一切取引をしません。神にはただ、愛し、近づくことだけを考えなさい。すべてを神に任せるのです。あなたの痛みも苦しみも、喜びも楽しみも、命も!できますか?神に接する時はそのような真剣さをもたなければいけません。(はい。師よ、もちろんです。とっくに覚悟は決めています。どうぞ受け取ってください。)

Caitanya


渇望(タンハー)

「アッ、アイスコーヒー!」

私は台湾で開かれるサットサンガに参加するため、早朝に日本を発ち、バスと地下鉄を乗り継いで直接、会場のジョイフルリビングに向かっていた。
3月後半にもかかわらず、南国の台湾は暑く、汗が止まらなかった。
普段は夏でもアイスコーヒーはめったに飲まない。
でも私は思わず、会場近くのカフェでアイスコーヒーをオーダーした。
私の喉は、冷たいアイスコーヒーを渇望していたのだ。

サットサンガに参加し、台湾グルバイと交流した後、師の滞在している宿に着いた。
ミラバイさんが夕食のカレーを準備してくださっていて、皆でいただいた。
宿にはミラバイさんの他、ニューヨークからアーナンダマーリーさん、また前日から一緒に住んでいるラームダースも京都から来ていた。
食後は師の淹れる極上のドリップコーヒーをいただき、至福のひと時を満喫。
リラックスした中、会話は自然とサットサンガのようになっていった。
約2週間後に春の祝祭が行なわれることもあり、その内容は「ブッダ」についてであった。
ブッダが最初に説いた教えは「苦集滅道」であったといわれている。
感情を挟まず心の苦しみを観察し(苦)、その原因を瞑想によって見極め(集)、執らわれを無くし(滅)、実生活でその無執着を実行する(道)――
このブッダの苦集滅道の教えを、時代を超えて私も実践していた。
その結果、心の執着は弱まり、真理への思いが高まっていた。
しかし、どこか深まりが足りないということも感じていた。
この夜、苦集滅道の「感情を挟まずに心の苦しみを観察すること(苦)」に関して、師は次のように強くおっしゃられた。

ラームダース「瞑想を深めていく時に、まず止観というのが大切ですよね。何の思い込みも挟まずに、とにかく観察を続けていくことで、どんどん原因の部分に深く入っていくというか」
ヨギ「そうできたら。誰が止観しているのか? 一方では心やろ。もう一方では心を見るわけやろ。それは矛盾した話やん。同じ一つの心が二つのことはできない。だからそんな悠長な止観みたいなものはできない。もっと苦しみながらと言ってもおかしいけれども、のたうち回るくらいの切羽詰まった直接的な体験をしないとだめ」
ゴーパーラ「何の感情も挟まずに心を見ることが大事だと先輩から教わったのですが、そんなの無理?」
ヨギ「感情挟んだらええねん。もっと感情挟んだらええねや」
ゴーパーラ「のたうち回るぐらい」
ヨギ「そうや。感情が無くなるというのは、全部終了して初めて無くなるんやから。それまではついて回ってるんやから。心の働きそのものが思考とか感情とか、そういうものによって成り立っているわけやから、それを無くすなんていうことははっきり言って不可能や。だからもう一方では、必死になるとか言うやんか。それは、のたうち回るっていうことやで。格好もクソもないねん」

確かにそうだ、病気の正確な診断ができるのは優れた医者だけである。
患者が患者自身の病気を冷静に診断し、治療することなんてできない。
病気に絶望し、病気を治したい、健康な状態に戻りたいという強い思いが患者自身から湧き出てこない限り、医者を探すことはもちろん、治療やリハビリは不可能だ。
私は、はっきりと自分に足りないものが感じられた。
それは、のたうち回るくらい切迫感をもって真理を求めるということ!
そうでないと苦しみは完全に滅しない。
薬をちょこちょこ飲んでももう意味がないのだ!
師は、さらにこう言われた。

「のたうち回わるというのはタンハー。渇望を伴いながらもがくとかね。もがくというのは、単純な話はほら、修行者が水の中に頭をつけられて息ができひん、もがくやんか。何がしたいんやって、息がしたいだけやて。まさに水の中に頭突っ込まれたあの状況や」

(続く)

ゴーパーラ


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
もうすぐ桜の季節ですね。桜といえば、「花祭り」、四月八日はブッダの御聖誕日です。ブッダはインド北部のルンビニ園でお生まれになりました。そこはたくさんの花に囲まれた美しいところであったということで、御聖誕日にお花をお供えするようになり「花祭り」と呼ばれるようになったといわれています。そしてその日は、「サナータナ・ダルマ アヴァターラ・メーラー 神性示現大祭」がプレーマ・アーシュラマで開催されます。アヴァターラとは神の化身、神人であります。この世で苦しんでいる私たちの救世主として、慈悲深くもこの世に顕れてくださいました。その時代時代に顕れた神の化身の方々の顕れをお祝いする大祭です。このお歓びの日が待ち遠しいですね。

 

さて今日も「ラーマクリシュナの福音」からご紹介いたします。

ある日の土曜日、Mがダクシネシュワルに着いたのは朝八時ごろだった。シュリー・ラーマクリシュナは自室の小さい寝台の上に座っておられた。床に数人の信者が坐っている。
ラーマクリシュナ「お前は巡礼に出るつもりなのか」
ゴパール「はい、少し遍歴してまいりたいと思います」
ラーム「師は、人はさまざまな聖地を訪れるサドゥーであった後に、旅への願望が十分に満たされると、一カ所に坐っているサドゥーになるのだとおっしゃっています」
ラーマクリシュナ「神は『そこに』おいでだと感じるあいだは、その人は無知だ。しかし神は『ここに』おいでだと感じると知識を得るのだ。ある男がタバコを吸いたいと思った。炭に火を付けてもらおうと隣の家を訪れた。真夜中のことで家人はもう眠っていた。さんざん戸を叩いた後、誰かが出てきて扉を開けた。そして、『おや、どうしたのか』と尋ねた。『分からないかね、私のタバコ好きは君も知っているだろう。火をもらいにきたのだよ』と男が言うと、隣人は『ハハハ!君はまったくりっぱな御仁だ。わざわざここまでやってきて、戸を叩いて。まぁ、自分の手に火のついたランプをさげているではないか』と言ったという。(みな笑う)人が探し求めるものは彼のすぐそばにあるのだ。それでも彼は、ここかしこさまよい歩くのだよ」 

現代でも「自分探しの旅に出る」という人の話をよく聞きます。そして私たちも長い心の旅を続けてきました。旅に出て、どこまで本当の自分を知ることができたのでしょうか。本当の幸せや自由はそれによって得ることができたのでしょうか。旅の終わりに私たちはヨーガと生涯の師に出会うのだと思いました。ヨーガは真実を実現させるもの、自分自身に内在する本当の自己を目覚めさせるものであると師から教えていただいています。 

真実を知った存在がインドには連綿と顕れてきました。そして彼らの達した、あるいは彼らが目覚めた真実の証言はこうです。『かつて、この全宇宙の背後にあって、偉大なる存在として昔から求められていたものと、この体の中にあって、私という真実の存在とは同じである』。その真実は言葉も届きませんし、形もありません。神という言葉さえ届きません。言えることは、それは『ただ在る』というものです。それだけがリアリティです。それがあなたです。真実は既に私たちの中に在ります。ただちょっと心がそれを覆い隠して邪魔をしているようなものです。無知という暗闇を払い除けなければいけない。そうすれば、もう既に在る真実は独りでに輝くでしょう。

               サット・グル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

本当の自分、本当の幸せや自由はここかしこを探さなくても、もう既に自分の中にある。それを思い出すために私たちは生まれてきたのだ。この教えがどれだけ、私たちを勇気づけ、前に進ませてくれていることでしょう。

時空を超え、真実の教えに触れる、このありがたさ。
人間の魂を揺さぶり、目覚めさせる、神の化身(アヴァターラ)に勝利あれ! 

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
今年はいつにも増して寒さが厳しいように思いますが、いかがお過ごしでしょうか。
もう一月も終わりですね。一月は睦月といいますが、これはお正月に家族とか親類が集まり、睦み合う、親しくする、仲良するという意味で「睦み月」が「むつき」になったという謂われがあるそうです。なんともいい響きで優しい心持ちになりますね。

さて、今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

冬であった。太陽は昇ったばかりで、河は上げ潮で北に流れていた。朝八時、シュリー・ラーマクリシュナとM(マヘンドラナート・グプタ)は境内北端の松林で話し合っていた。
ラーマクリシュナ「ナングターがトラとヤギの話をしてくれた。ある時、雌のトラがヤギの一群を襲った。漁師が遠くからそれを見て、彼女を撃ち殺した。トラは妊娠していて、いまわの際に子トラを産み落とした。子トラはヤギの仲間に入って成長した。最初は雌ヤギの乳を飲み、メエメエと鳴いた。徐々に子トラは大きなトラになったのだが、相変わらず草を食い、メエメエと鳴いていた。ある日、恐ろしいトラがこの群れを襲った。群れの中に、トラが一匹、草を食い、自分が近づくとヤギたちと一緒に逃げるのを見て驚いた。このトラは草を食べているトラを捕まえ、水辺まで引っ張っていき『さあ、水に映っている自分の顔を見てごらん。ね、お前も私と全く同じ丸いトラの顔をもっているだろう』と言った。次に、一片の肉をその口に押し込んだ、草を食ってきたトラは肉を食うことを拒んだが、やがてそれをうまいと思った。恐ろしいトラは『なんと恥ずかしいことだ、ヤギと一緒に草を食べていたとは』と言った。するとそのトラも本当にそれを恥ずかしいことだと思ったという。
草を食い、メエメエと鳴くというのは、『女と金』を楽しみ、普通の人間のように振る舞うということだ。新しいトラと共にそこを去るのは、自分の霊意識を目覚めさせてくれるグルと共に避難し、彼のみを我が身内と見るというのに似ている。自分の顔を正しく見るというのは、自分の真の自己を知ることである」

 シュリー・ラーマクリシュナの例え話はとても分かりやすいですね。ついつい話に引き込まれてしまいます。私たちは自分のことをこの身体や心だと思っています。ヤギだと思っているんですよね。でも、私たちはこの身体でも心でもない、その奥にある純粋な意識、絶対不滅の存在だと、師はいつも私たちを励まし、導いてくださっています。

心は常に動揺し、それによってまた心はかき乱されます。真理を学ぶことによって、真理への熱望によって心の波を静めてください。その状態が堅固に持続するなら、その時あなたは真実の自己に目が覚めるでしょう。
                                                            サット・グル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

真理を学び、ヤギではなく、トラとして一緒に生きていこうではありませんか。

ダルミニー


絹の糸

去年の御聖誕祭で頂いたプラサード(神のお下がり)は、ヨギさんの絹のお召しものから作られた、匂い袋でした。

その匂い袋を頂いた時、以前のサットサンガで「自分のハートと神の足首を絹糸で結びつけておく」というラーマクリシュナの教えについて、ヨギさんが答えられていたことを思い出し、それが書かれていたパラマハンサの記事を読み返していました。

『十九世紀においては、まだ化学繊維というものはありませんでした。天然の繊維としては綿の糸、麻の糸、絹糸、それから毛糸、このあたりが主要な糸で、これらによってさまざまな衣服や絨毯や繊維製品は作り出されていたのです。またロープとかそういうものも含めて。この中で最も強い糸は何かといえば、絹なのです。最も繊細で、最も上品で美しいにもかかわらず、その強度もまた絹が一番強い。(一部省略)最も尊い絹糸はいちばん細く繊細だけれども、その繊細な気持ちをもって、しっかりと結びつけておきなさい。そうすれば、絹糸は強いから切れることがない。けれども心が揺らぐようなことがあれば、それはすぐに伝わって神の足首を傷つけるようになるよという意味合いが含まれていると思う。』『機関誌パラマハンサNo,88号』より抜粋

大切な、大切な、ヨギさんの御足を傷つけてしまわないように。

どんな人に対しても、どんなものに対しても、神だけを見つめて繊細に、丁寧に、大切に思って行為したい、そう思いました。

まだまだ心は今までの習慣に引き込まれてしまうこともあるけれど、少しでも理想に近づけますように・・・・・・。時々ポケットの中に手を入れて、絹の感触を確かめています。

 


グルと聖音オーム

今年も残すところ、1日ですね。
皆様、今年はどのような1年でしたか?

2017年のブログ「ヨーガを生きる」は、ヨーガ・ヴィハーラでの瞑想会からスタートしました。
そして先日、今年最後の瞑想会が行なわれました。
そこで私はこの1年、師からいただいた「お言葉」に瞑想しました。

今年いただいた目標である「自己実現」から始まり、「徹底的に識別を行なうこと」、また「ゴーパーラ」という聖名をいただいたことなど、この1年の師のお言葉を振り返っていました。
それは瞑想というよりは、思い返すというような心を使った作業でした。
しかしながら、それを続けていると突然、心が止まりました。
そしてその瞬間、場面が一瞬にして切り替わったかのようにして、「オーム」の音が聞こえてきました。
ヨーガダンダさんが唱えているのかなと思い、目を開けました。
しかしそれは、ヨーガダンダさんが唱えていたのではなく、ヨーガダンダさんから鳴り響き、また暖房や壁、絨毯、すべてから鳴り響いていました。
その時私は、師のお言葉を思い返していたから、オームの音が聞こえてきたのだと直観しました。

「プラナヴァ、即ち聖音オームは、無上の存在(神)であり、始原のグルであるイーシュヴァラを表す。プラナヴァ・サーラはサットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの教えの精髄(サーラ)――ヨーガの福音である」

改めてこの1年を振り返ると、毎週の直伝クラスをはじめ、4月の祝祭の開催、5月の松山特別サットサンガ、6月の京都特別サットサンガ、夏のニューヨークご訪問、また2度にわたる台湾ご訪問にと、師であるヨギさんが本当に動いてくださった1年でした。
特に直伝クラスでは、師の一押しでアーサナが深まり、師が近くを通るだけで集中が強められ、まさに師の一挙手一投足、すべてが導きでした。
また松山、京都、ニューヨークのサットサンガでは、どんな状況でも、どんな質問にも全く動じずに、誠実かつ泰然と答えられている師のお姿に、絶対の安心と信頼を感じずにはいられませんでした。
そして何より、そこには必ず「祝福」がもたらされていました。

先月のサットサンガで私は「自己実現の目標まで、あと1カ月しかありません」と言うと、師は次のように答えられました。

「まだ1カ月もある」

今年もまだ1日残っています。
目標達成、諦めません!!!


最後になりましたが、今年もブログ「ヨーガを生きる」をご拝読いただき、まことにありがとうございました。
新年からは、新体制で臨みたいと思っております。
皆様、来年もどうぞよろしくお願い致します😇🙏

 

ゴーパーラ


ラーマクリシュナの福音

皆さん、こんにちは
暮れも押し迫まってきましたね。今年一年、どのような年でしたか?
昨日よりも今日、今日よりも明日、日々、より良い自分でありたいものですね。
さて、今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

シュリー・ラーマクリシュナ

ある日の土曜日、シュリー・ラーマクリシュナはラームの家の階下の客間で信者たちに囲まれて話をしておられた。最愛の娘を亡くしたばかりのブラーミンの婦人が、その悲しみを癒せないものかと、北側のドアのそばに立って話を聞いている。

ラーマクリシュナ「先日、ここにある男がやってきた。数分間坐っていたが、やがて『我が子の「月の面輪」を見に、帰りとうございます」と言ったものだ。私は自分を抑えかねて『お前は神の「月の面輪」より息子の「月の面輪」が見たいのか!出ていけ、この馬鹿者』と言ってやった。
神のみが実在、他のすべてのものは非実在、というのが真理だ。人々も、宇宙も、家も、子供たちも、こういうものは全部、魔法使いの魔法のようなものだ。魔法使いは杖をたたいて『不思議、不思議、摩訶不思議!』と叫び、見物人に向かって『さぁ、この壺の蓋を取り、鳥どもが空中高く舞い上がるのをごろうじろ!』と言うだろう。だが魔法使いだけが本当にいるのであって、彼の魔法は実存しないものだ。実存しないものは一秒くらい存在して消えてしまう。
シヴァがカイラース(シヴァ神の聖なる住まい)に坐っていらっしゃった。従者のナンディがそばにいた。突然恐ろしい物音がした。ナンディが『尊いお方よ、これはどういうわけでございますか』と尋ねたら、シヴァが『ラーヴァナ(ラーマ神に成敗された魔王)が生まれたのだ。そのことを示す音だ』とおっしゃった。数秒の後にもう一つ、恐ろしい音が聞こえた。ナンディが『今度は何の音なのでございましょうか』と尋ねると、シヴァが微笑して、『今、ラーヴァナが死んだのだ』とおっしゃった。誕生も死も魔法のようなもの、魔法は一秒間ほど見えていて、そして消えるのだ。
神だけが実在であって他の一切のものは非実在だ。水だけが実在であって水中の泡は現れたり消えたりする。それらは自分たちが生まれてきたその水の中に消えていくのだ。神は海のようなもの、そして生き物はその中の泡だ。彼らはその中で生まれてその中で死んでいく。子供たちというのは、一つの大きな泡のまわりに立っているいくつかの小さな泡だ。神だけが実存だ。彼への愛を養うよう努め、彼を悟る方法を見出しなさい。悲しんでいても何も得られはしない」

私たちの師は、悟りとは夢から目覚めるようなものだと教えてくださっています。

誰でも眠りから目が覚めたとき、夢の中で一喜一憂していた自分を一笑に付すように、真実在に目覚めれば、現実と思っていた世界も夢幻と知るだろう。

                   サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

現実だと思っているこの夢のような世界で、私たちはああでもない、こうでもないと右往左往しています。人の生も死も宇宙から見れば、ほんの一瞬のことなのでしょうか。
私たちは生まれることも死ぬこともない、絶対不滅の存在、永遠に続く純粋な意識なのだと師から教わってから、死ぬことは不幸なことでも、恐れるものでもないということが分かり、安心したのでした。この生のある間に、神だけに、真実在だけに心を思い留めておくことができること、それこそがこの夢の世界においては、いちばん大切で幸せなことなのだと学んだのでした。
あぁ、早くこの夢から目覚めて、真実となれますように。

ダルミニー