立夏らしく、日中は初夏のような暑さとなった5月11日(土)の定例サットサンガ。その中で、特に私がインスパイア(鼓舞)されたのは、発心についてのお話です。
よく考えてみれば、八歳の頃に真実の意識に目覚められた師シュリー・マハーヨーギーには、発心も精進も必要ありません。にもかかわらず、師は並々ならぬ志を持って、十二年間も黙々とアーサナをされ、徹底的にこの世界と心の理を解き明かされました。「動機なき精進、それが自然体だった」、さらには「かなり精進した」と師はサットサンガの中でおっしゃいました。全ては、後に現れる私たちを導かれるためになされたことに違いありません。

そして師は、発心について次のようにおっしゃいました。
必要なのは、感じること、気づくこと、そして求めること、探すこと。
まず、この世界がどういうものなのかに気づくこと。諸行無常、諸法無我、一切皆苦、そう教えらえている真理に気づかなければならない。
普通はこの世の中で何かを求めてあくせくしますけれども、実はこの世界は常に変化をして何一つ確実なものはない。様々な現象という経験も、そこに真実は見つけることはできない。そして、誰もが望んでいる幸福というものも、全ては限定的であり不完全であるから、その結果は苦しみに終わる。
では、一体何が本当の幸せなのか、これを求めなければならない。ブッダ、あるいはヨーガには、ニルヴァーナ(涅槃寂静)、サマーディ(三昧、瞑想の深い境地)という言葉に表現される至福の境地がある。そして、苦しみをつくりだす原因は無知であると見抜いているわけです。このことをまず理解すること。そうしたら、心の向きや行動様式を、世間に対する執着から真実の方に向けることができる。ここで大いなる転換をしなさい。これが発心です、全ての原動力です。
私はこれらの教えを聞きながら、自分自身のことを思い返していました。
師がニューヨークにご布教に行かれた際に、師の傍に何度か滞在させていただいた私は、東京に帰ってからもずっと、ヨギさんのことや滞在中のことを考えていましたが、ニューヨークでの出来事を消化しきれず、私の心はなかなか晴れませんでした。
そんなある日、「この限りある心でヨギさんを理解するなんて無理だ。けれども私は、ヨギさんの本当のことを知りたい!!!!!」と祭壇の前で泣いていました。これが私の発心だったのだと思います。
師のお言葉によって、その時の熱い思いが一瞬で蘇りました。
師は、私たちを目覚めさせようとしてくださっている。やさしく、そして私たち以上に諦めることなく。しかし、いつまでも師であるヨギさんに甘えっぱなしではいけない。仕事や日常生活に飲み込まれずに、ヨギさんだけに一点集中する、正精進あるのみ!! あらためてそう強く願ったサットサンガでした。
ターリカー









チャイタニヤ:私は自分の身体が男性だというところで、愛人のように神を想うマドゥーラの態度が理解できないです。そういう態度を示している弟子を見ていると、ためらいや遠慮とかが無くなっている。私はそういう女性的な態度をとることがきないです。
師:今回、ニューヨークでも似たり寄ったりの弟子たちの心情を聞くことがありました。彼らは一所懸命、聖典を学び、そしてサーダナ(霊的修行)も行ない、ヨーガを深めているようなのですけれど、しかしまだ安らぎには達していない。なんとか本当の幸せ、自由というものを望みます。そんな時、真理の教えがやってきて、本当はこうだよと教えてくれる。例えればそれは彼岸というか、あの向こう岸に達すれば、そういった幸せな世界があるよと教えられるようなものです。そして、みんなは熱心にボートを漕ぎ出す。一所懸命漕いで、一日中漕いでーー翌朝目が覚めれば、まだこの岸の一寸たりとも動いていない。なぜなら、ボートを繋いでいるロープを外していなかった。だからいくら漕いだって進むわけがない。やるべきことは、まずロープを外すことです。船を杭に止めているロープですよね。これがこの世における執着、あるいは煩悩とか無知といわれているものを象徴しているわけです。それが繋がっていたらいくら漕いだって動きもしない。だからまず、それを外しなさい。そうすれば、軽やかに向こう岸に辿り着くことができる。
器官を統御して貪欲という難敵を滅ぼす力が、自分にはないとおまえが考えるならそれは間違いだ。なぜなら肉体より器官、器官より心、心より知識、知識より魂の方が格段にすぐれ、精妙、かつ強力でもあるからだ。 『バガヴァッド・ギーター 三章 四十二』