7月に入りましたが、梅雨のお天気が続きますね。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか?
さて、約3週間前から京都でもヨーガ・瞑想クラスが再開しています!
私自身、2カ月半ぶりに土曜日の京都アスニーのクラスに参加させていただきましたが、その当日の朝、クラスの時間に合わせて食事をして身支度していると、「あっ、この感覚」と身体の内側からクラスに向かうリズムのようなものが蘇ってくるのを感じました。
久しぶりのクラス当日、まず講師のヨーガダンダさんがクラス再開にあたり感謝の意を込めて、約15年前のサットサンガで師のヨーギーさんが説かれた「感謝」の教えについて話してくださいました。
その話を聞いた時、私は感謝の本当の意味を取り違えていたように感じてハッとさせられたのですが、そのクラスの直後、15年前のその感謝の教えが掲載されている『パラマハンサ』(No.47)を偶然にも発見👀‼️たいへん素晴らしい内容でしたのでノーカットでご紹介させていただきます!
誰しもが物心ついたとき、まあ少なくともいろんな物事が分かってきたような頃、十代の生意気盛りの頃は、独りよがりで自分の力でさも生まれて生きているというような誤った自負をもってしまいがちだけれども、よくよく考えれば自分の力で生きているなんて到底言えないよね。毎日毎日のご飯も食べないと生きていけないんだし、それも誰かの手によって作られたお米や野菜やさまざまなものを頂いて、そしてこの体は維持されているわけ。何一つ自分で生きているなんていうことは間違っても言えない。この空気も水も、宇宙のこの秩序ということに対しても。つまり太陽が昇り沈み、月が昇り、星が輝いている。これが何秒間かでも止まったとしてごらん。もう立ち所にして全生命が消えてしまう。でもそんなことが起こらないようにきちっと運行されている。そのおかげでこのちっぽけな体も生きることができるし、あれやこれや考えることができる。
だから、まずやっぱりこの偉大なる自然というものに対して、自然から頂いている恩恵というものに対して、素直に頭が下がるはずなの。そのときに自然の感情として感謝というものが湧くはずです。誰もが一度ならずそういうことは感じたことがあると思う。それからいろんな、親や兄弟、友人、さまざまな社会の人々、もう一切合切すべての地上の存在に対して感謝せざるを得なくなると思う。私自身はそういうことは感じてきました。だから誰もが同じようなことを感じてきているとは思いますよ。何かをもらったからとか、自分が何か得したから感謝するという、そんなものは感謝に入らない。仕事上うまくいったかいかないか、それによって感謝するなんて、そんなのはどうでもいい。見えない力、その恵みにやっぱり頭を下げるべきだと思う。それが感謝の原点だと思うの。
さらには頂いている命を健やかに、なお健全に発育させるというか…、これには善悪の行為もあるし、また善悪を超えた悟りへの行為というものが最もその感謝に報いる行為だと思う。もちろんその感謝の思いは行為でもって表現しないといけないよ(笑)。そうでないと、それはうまく回っていかなくなる。
∞∞シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ∞∞
私自身、久しぶりにクラスに参加して、会場内は本当にサットヴァ(快活・透明性)な雰囲気で、クラスが終わる頃には心がスッとし、「やっぱりクラスっていいな、特別な空間だな!」と改めてクラスに参加できることの歓びを実感させていただきました。
感謝の思いもそういう心や身体の働きが静まった時に、根源的なところから湧いてくるのかなと感じました。
見えない力、その恵みに感謝を感じ、頂いた命を大切に育み、ヨーガに精進していきたいと思います!
ゴーパーラ