ベランダの近くの雀の巣に赤ちゃんが生まれて、チュンチュンチュンチュンと声が聞こえてくる。灰色に曇った空の下、雨に濡れた親鳥が巣に戻ってきては餌を与え続けていた。しばらく経つと、雀の子供たちが外に出てきて親鳥が飛び方を教えている様子。卵から雛が孵(かえ)る、というのは生命の奇跡だな~と思った。生まれて、そして成長していく。ずっと見ていると、雛は私たちで、親鳥は師に見えてくる。
師にお会いできヨーガに縁を持てたこと、これこそ奇跡かもしれない。いろんな人たちとの縁によって、見えざるものによって、ヨーガの山の麓まで連れてきてもらった。今は山登りの途中か…。
そういえば修行者を乗せて、彼岸の悟りの境地まで連れていってくれる虎の話を聞いたことがある。また、虎は一度捕らえたものを絶対はなさないように、師は弟子のことを絶対にはなしたりされない、と聞いた。
最近いろんな事が重なり、その中でお世話になった方たち何人かの死を知った。死は肉体の死であり、本性は決して死なない、とヨーガの教えを思った。でも、「肉体にはもう二度と会えない」と思うと寂しさがこみ上げ、未熟な私は一挙に無念さに襲われた。もうどうにもならないことについて、悔やむ気持ちや、過去に自分のとった行動を反省する日々が続いた。反省するのはいいけれど、ずっとくよくよしていても仕方ない、考えている暇があるなら次の行動をしなさい、と師の声が浮かんだ。だからその都度、今やるべきことに意識を向き替え、表面上はそれなりに生活をこなした。この地球上に師が居てくださっていることが命綱のようだった。
そして師を思えば思うほど、謙虚に人に接せられる師のお姿が目に浮かんだ。そのお姿を思うなかで私は、無念さや悲しみでいっぱいになっているだけの自分に違和感を覚えるようになっていった。
昔、突然の友人の死を受け止められず師にご相談したことがあり、師は「正しく死を理解して周りの人の力になってあげてください」と私に言ってくださった。死を正しく理解する。それができれば、周りの人の力になることもできる。私さえ正しく理解することができれば……。
そんな中で、ふと、師はいつでも人の中にある本性、真実だけを見てくださっている、それだけを信じてくださっている、という思いが起こり、そのことがどれほど自分の中で、かけがえのない拠り所となっているかに気付いた。なかなか明るい気持ちになれない日々だったけれど、そこから満点の星空が見える気がして、師の存在の光によって上を向くことができた。
生き方を変えよう、いつまでもこんなことではあかん、と思った。もう、形あるものには何も頼ることができないような、真っ裸にされたような心境になり、胸の奥にある、尊い大事なものを思い続けた。
師は私たちを信じ、虎のごとくにしっかり掴んでくださっている。だから絶対に大丈夫、という、どこからともなくやってくる確信が最後の最後にある。誰しも、無条件に自分を丸ごと信じてくださる純粋な人のことを裏切れないと思う。そういう方に巡り会えた、もうそれだけで、どんな極悪人でも自然に改心せざるを得なくなる。無垢で純粋なものに触れた時、限りなく同化したくなる。師の愛を少しでも垣間見た人は、そうなってしまうと思う。それは師に直接会えた人だけに限らないと思う。ヨーガのクラスには師の祝福が降り注いでいるというから。
躓(つまず)いた時、師への思いや、ヨーガを拠り所にする自分の思いが上を向かせてくれたのではなかった。師が私たちを信じてくださっている、万物の本性という永遠の真理だけを見ておられる、その師の存在という事実が、上を向かせてくれた。自分の思いの強さによってではなく、師の熱烈な意志、師の強さによって。
私も、人間の本性――肉体でも心でもない、たった一(ひとつ)のその真実を信じたい。肉体が消えても、それは消えないというもの、それだけを見つめたい。それだけを見るということがどれだけ尊いことか、師というたった一人の方が、それだけを見つめておられることがいかに人々にとって救いをもたらし、生きる歓びを与えてくれるか。
生命の根源は永遠で自由で輝かしいものであるはず。なのに、まだ学んでいる途中とか、よく分かっていないから、と私は思っているところがあった。この話を先輩に聞いていただいた時、ヨーガを分かるとか分からないとか関係のないところで今も真実はずっと在る、と暗に教えてくださった。「私には分かりません…」先輩に言えば言うほど、はっきりと分からない自分、真実を見いだせない自分が印象付けられて、より悲しくなるだけで「分からない」という言葉を発することは、自分にとっても、いいことはなかった。先輩と話し終わりしばらくした後、私は、今、真実を見るべき時なんだとハッとした。どうして生まれて、死んでいくのか。それで全て終わりなのか。そんな筈ないやんか、と思った。その人自身の本当の存在を大切にしたい。肉体に会えなくなってもまだ間に合う。綺麗ごとではなく、本当に真実だけを見ようとし続けること、それが私にできることなんじゃないか。私が師に会えて、無条件に存在を丸ごと受け入れてもらえる歓びを知り、生きる歓びを知ったこと、そこに答えがあった。それを気付かせてくださったのは、師への思慕と尊敬の思いを語られる先輩であり、また私の話に延々とお付き合いくださる先輩の中の師の姿だった。
この期間、これまでのサットサンガのノートを見直していた。そこには、師が、来る人、来る人に絶えず深い愛をもって接してくださっている、その物語がたくさんあった。まるで師が、それぞれの雛(私たち)を大事に大事に育てられ、目一杯の滋養を与え、そして自由への境地――大空の飛び方を根気よく教え続けてくださっているようでもあった。今もずっとそうだと思った。
そして、目に留まった師のお言葉があった。
死ぬのは肉体だけであり、その人自身は無くならない。
ただ古びた衣服を脱ぎ捨てるような現象。
嘆き悲しむのが良いことではない。
姿が見えなくなって、寂しくなることはあっても、その人自身が無くなったわけではない。
魂は永遠に生きています。
それぞれがこの世に生まれて、そして成長し、その人としての生涯を最後まで全うされた、と確信が湧いた。おつかれさまでした、と心の底から讃えたい気持ちになり、自分が抱えていた悔やむ気持ちも無くなった。
人の命、人生はその人自身の尊く気高いものであり、他者が介入できるようなそんな余地はどこにもないと思えた。会えなくなったからこそ気付く大切なこともあれば、また悔やむこともあるかもしれない。でもそれさえも失礼なことのように思えた。全部、ただの私の思いに過ぎなかったなと。悔やむ思いは、自分の思いばかりを見ている私の傲慢さから来ていた。お世話になった人たちは、姿がなくなっても、やっぱり私の人生の先輩であり、またこうして大事なことを教えてくださったな、と思った。
自分の思いを見る驕りを棄て、もっと謙虚になって、師が見ておられるもの、その尊いものだけを私も見ていきたい。
野口美香