最近、自分のある執らわれに気付かされることがありました。
ヨーガを始めて八年。ヨーガが深まっているかどうかは、日常に表れると言われています。
私はというと相変わらず同じものに執われ、手放せないでいるような気がして、まだヨーガが全然深まっていないのかなぁと、正直焦りとジレンマがありました。二十一世紀の日本に暮らす一介のサラリーマンが普通にヨーガをやっていて、本当に悟りを実現できるんだろうか?と思ってしまいます。
でも、自分の状況を憂い嘆くばかりだったそんな時、ちょうど瞑想の進め方も壁に突き当たり、先輩からアドバイスを受けて、自分の中のある執らわれに気づかされたのです。
「真理においては、世俗も出家もないし、聖も俗もなく、男も女もない、一元の無分別の境地だと教えられます。つまり本質は同じであって、差別や違いは心が作り出した観念に過ぎないということです。自分が世俗にあると思うから出家を願うし、自分を俗だと思うから聖なるものを欲するというわけです。最初の起点がそもそも誤っているのです。だから、その原因をこそ識別しなければならないのです」
ヨーガをしていたらこういうふうになって、こんなふうに進んで行くものだ。それができていないのは、これこれこういう理由だからだ。理想はこうなのに、自分の現実はこうだ。とか……その思い込みがヨーガに対するこだわりを生んで、観念に束縛されてしまっていました。まさに自由を求めて不自由になっていたことに気づきました。
「二十一世紀の日本に暮らす一介のサラリーマンの自分」「自分は俗なるもの」「ヨーガが全然深まっていない」「ヨーガはこうあるべきだ」というレッテルを貼ってしまっていたのですね。レッテルを持たない純粋な心を求めているはずだったのに、いつのまにかレッテルだらけになってしまっていました!
自分にも、他の人にも、ヨーガにも、レッテルを貼らないようにしたいものだとつくづく思いました。