京都は暑そうですね~。私の方はと言うと…夜勤明けで、仕事中は急変もあって疲れ果て、帰宅してシャワーを浴びて夕方から翌朝までひたすら眠っていたのですが、朝方眠い目をこすりながら疲れた体を何とか起こして、どうしても我慢できなかったので、ある物を取りに行ったのです。私が取りに行ったもの、それは、なんと、毛布!!毛布ですよ!京都の皆さん。半袖短パンで寝ていた私は、寒くて我慢できなかったのです。寒い…???今夏ですけど。そうなんです、京都人の私にとって、ここの夏は涼しいんです。周りの人は暑くてヒーヒー言ってるんですけど。だからちょっと涼しくなると、私にとっては寒いんです。だからね、今日の晩御飯はアツアツのお好み焼きでした。美味しそうでしょう?えっ?いらんのっ?
それでは、暑い京都の夏をお過ごしの皆様のために、今日は涼しいお水の話をしたいと思います。聖書に出てくる有名なお話、「サマリアの女」
イエスはシカルと呼ばれるサマリアの町に到着します。ヤコブ(旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長)がその子ヨセフに与えた土地の近くにあって、そこにはヤコブの井戸があります。イエスは長旅で疲れ、その井戸のほとりに座って休んでいました。昼頃のことでした。そこに一人の女が水を汲みに来ます。(普通井戸汲みというのは朝と夕の二回、涼しい時間にするのが習わしであり、真昼の最中、井戸汲みにやってきたというのは、彼女は人目を避けてやってきたということ。彼女は過去において五人も夫を替え、現在も正式に結婚していない男性と同棲していた。そのため、人々は彼女を白い目で見ていた)。
「私に水を飲ませてください」とイエスは女に声をかけます。「なんですって!ユダヤ人であるあなたが、サマリアの女である私に水を飲ませてほしいと頼むのですか?」と女は尋ねます。(サマリア人は、イスラエル人とアッシリアから来た移民との間に生まれた人々とその子孫であり、彼等はユダヤ人にイスラエル人の血を汚した者といわれ迫害を受けていた)。
イエスは答えます。
「もしあなたが神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたなら、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えるでしょう」。
女は言います。「あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手に入れるのですか?あなたは私たちの父ヤコブよりも偉いのですか?ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身もその子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」
するとイエスは言いました。
「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」。
女は言います。「主よ、渇くことがないように、またここに汲みに来なくてもいいように、その水を私にください」。
これは、師と弟子の出会いの場面です。あるいは、人が弟子となる瞬間を描いたものです。イエスが彼女に「水をください」と言った時、彼女は困惑し拒否します。でも、徐々に彼女の内面は変化していくのです。最後には「その水を私にください」と懇願しています。イエスは言葉によって、眼差しによって、存在すべてによって彼女の中に入り、彼女に祝福を与え、彼女の心を変えてしまわれたのです。彼女はイエスとの出会いによって、イエスが誰で、彼が何を与えるかを悟り、自分が何を必要としていたのかを知ったのです。そして自分から求めたのです。「あなたの愛をください」と。
イエスは弟子たちに言いました。「求めよ」と。そしてこの場面でも言っています。「あなたの方からその人に頼み、その人は与えるでしょう」と。だからまず弟子が求めなければならないということです。そうでないと、神の愛は無駄に流されていくだけなのです。神はそれが耐えられないのです。なぜなら、神は私たちを愛しすぎているからです。この場面はいつも私に問いかけます。
あなたはイエスが待っているその人になりますか?
ユクティー