「ヨーガ・サンガム」「弟子のサットサンガ」に参加!!

1月11日(土)・12日(日)に京都アスニーで行われた「ヨーガ・サンガム」「弟子のサットサンガ」に参加しました。
日本各地に住んでいる仲間たちが集まり、新年の初顔合わせとなりました。ともにヨーガに励む仲間たちと過ごした2日間は楽しい時間でした‼︎

11日(土)のヨーガ・サンガムでは、先輩のアーサナ(ポーズ)のデモンストレーションがありました。先輩のアーサナからは熱のこもった集中感と気迫がとても伝わってきて、その真剣な姿に魅了されました。その高い集中感は部屋の空間を支配しているような張り詰めた空気と緊張感が肌を伝ってくる感覚がありました。日々、情熱をもってアーサナを実践し続けてこられたからこそ為せる集中感と気迫だったと先輩たちのその姿を見て思いました。


デモンストレーションを見学して良い刺激を受けた後は自身のアーサナと瞑想に取り組みました。マッチェーンドラ・アーサナ(捻じるポーズ)をした時に、指導者の方が僕の腰に優しく手を当てて腰が真っ直ぐにスッと立つように調整してくださりました。すると、より腰の部分に集中がなされる感覚と呼吸の通りが変化して深い呼吸ができるようになるのを感じました。アーサナは正しい姿勢とポーズによって深い呼吸へと導かれ、心までもが静まっていくことを実感しました。


最後はみんなで瞑想に座っていると、空間全体の静けさと集中感が最高潮に達して静寂というものを感じる中で瞑想ができました。すごく素晴らしい体験でした。また次回の開催も楽しみにしています‼︎


12日(日)の弟子のサットサンガでは、2018年5月に松山で開催された特別サットサンガの映像の上映会がありました。そこでは師が参加者の方からの悩みや問題に対して温かい眼差しと微笑みをもってお答えをされているお姿がとても印象的でした。お一人お一人のお話に対して真正面から受け止め、その方にわかりやすい言葉で丁寧にお伝えされていました。


師の振る舞いを見て僕は改めて憧れの気持ちを抱きました。僕も師のように優しく丁寧に人に振る舞えるようになりたいと思いました。僕は師には少ししかお会いしたことがなかったのですが、師の他者への接し方を拝見すると心がとても優しくなれるような気がします。

サットサンガの中で心に残る問答がありました。質問者の方が「生きる意味」について聞かれ、師はこのようにお答えになりました。

生きるという誰もが何気なく使う言葉ですけれども、本当にどういう意味をもっているのか。生まれてきたから生きる、生きている。ーーこの生きているという言葉の中に果たしてどんな謎があるのか。さらには誰が生きているのか。誰もが、私が生きていると思っています。その私とはいったい誰なのか。私というのは、その生きていると思っている中で、さまざまな状況の変化の中で、学生であったり、少女であったり、少年であったり、夫であったり、妻であったり、親になったり、さまざまな役割は変化すると思いますし、仕事も変わるかもしれない。それでも“私”という意識は変わりません。それらは私がさまざまな状況の中での役割を行為していく、その時々の境遇に付きまとっている名称にすぎないわけです。単なる役割にすぎないわけです。それはイコール私ではないということです。私が生きているというときの、その“私”というものの真実を知る必要があります。私というのは心がつくり出している私ではなくて、変わらない意識としての存在ーー心ではないけれども心を見ている意識が、みんなの中に在る本当の私なのです。生きる意味というものは言い換えれば、真実を知るために生きる、真実を知ることが生きていることの本当の意味になります。

僕はヨーガと出会って自分の人生について真面目に考えるようになりました。「なぜ生まれてきたのだろう?人生の目的って何だろう?」と疑問が芽生えるようになりました。また、「どう生きていきたいのか」という自身の中で生きる軸を持つように考えられるようにもなりました。その答えがヨーガの中にありました。ヨーガと出会い、師から人生の目的や生きることの意味を教わりました。
僕は「誠実に生きたい」と思うようになりました。それまでは優柔不断で有言実行がもっとも苦手でした。そんな僕であったけれどもヨーガに出会って変われることを知りました。
以前、先輩から「ヨーガの言葉では「誠実」とは「サティヤ」という言葉で表され、それは「真実」という意味ももちます」と教えていただきました。誠実さを求めて生きる中に「真実」があるということを師と先輩から学ばせていただきました。ヨーガを通して僕はこれからも「真実を知るために生きること」を深めていきたいと思います。

金森淳哉


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