ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。
みなさん、こんにちは
新しい年も明けましたね。今年の目標はもう立てられましたか?目的意識をもって生きるということが私たちの人生にとって、ものすごく大切なことなのだということもヨーガで学びました。その目標に向かって今年も精進していきましょう。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、年明けのサットサンガではカルマ・ヨーガについての質問がありました。ヨーガは、この世の本当のこと、真実を実現するためのものですが、スワミ・ヴィヴェーカーナンダというインドの聖人は、ヨーガの実践方法には四種類あると説かれています。まずカルマ・ヨーガ、それは働きのヨーガといわれ、働きの秘訣を学び、真実を実現するヨーガです。そしてギャーナ・ヨーガとは知識のヨーガ、ラージャ・ヨーガとは身体や心を使う王道のヨーガ、バクティ・ヨーガとは信愛のヨーガです。
そして、私たちは過去の原因となるものの結果を必ずむかえるという、カルマの法則に支配されていますが、もともとのそのカルマの原因となるものを無くしていって、そのカルマに翻弄されないようにしようというのが、カルマの消化ということになります。
質問者「カルマを消化するということについてなんですけど、瞑想の中でカルマを消化することができない場合、カルマ・ヨーガという手段でもって行なっていくなら、良くないカルマも恐れることはない、前に前に進んでいけば、良くない願望でも軌道修正されて、それがいい願望に変わるというふうにヴィヴェーカーナンダの本に書いてあったんです。ギャーナ・ヨーガとかラージャ・ヨーガで瞑想してカルマを消化するということは、未来に対してのカルマを無くしてしまうということですよね。そしたらカルマ・ヨーガの中で経験しながらカルマを消化するというのは、結局苦悩を味わいながら軌道修正して消化するということなので、徹底さというところからみたら、カルマ・ヨーガの方が低い感じの印象を受けるんですけれども、どうなんでしょうか」
ヨギ「高い、低いの区別はないですけれどもね、ヴィヴェーカーナンダがいっているカルマ・ヨーガというのは、単に自分の義務を果たすというだけの劣位のカルマ・ヨーガのみならず、もう少し積極的な他者への奉仕的な、献身奉仕を踏まえながらカルマ・ヨーガという言葉を使っているような気がするんです。
そうすると他者への献身奉仕というのは、もとよりエゴとかそういう煩悩を少なくともその行為の時には無いようにしておかなければできないことですよね。だからこそ実際的行為を伴ってカルマ・ヨーガをすれば内面のカルマも落ちていく、無くなっていく。またその根源である無知、煩悩も薄らいで無くなっていくという教えだと思います。
ギャーナ・ヨーガとラージャ・ヨーガというのは、確かに瞑想の中でカルマやそのカルマの原因を識別していくことなんですけれどね、それはある意味、心の中で行なうわけですよね。だからそれと心というのは非常に深い領域をもっているので、そんなに簡単に無知と煩悩がそっくり無くなるという話ではない。やっぱりそれなりのものすごい闘いの熾烈さがあるのは事実です。だからそれをやってのけられるにはそれなりの資質と状況がラージャ・ヨーガとかギャーナ・ヨーガというのは求められる。その点カルマ・ヨーガというのは誰もが日常の中で行なうことができる、そういったやりやすさというものもそこにありますね。そんなところを踏まえながら、彼はより多くの人に具体的なアプローチ方法としてそういう教えを述べたんだと思います」
師は優位のカルマ・ヨーガとして、他者への献身奉仕を積極的に行なっていきなさいと教えてくださっています。
私は、常に他者のために善き思いをもち、善き行為をするという献身奉仕の働きにより、次第に自分のことが後回しになって、それが自分のエゴや煩悩を無くしていくことにつながるのだと気付かされました。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは「カルマ・ヨーガ」の中で、こういわれています。
心の表面を動いている善い思い、善い印象の不断の反映によって、善をなそうという傾向は強くなり、その結果、我々はインドリアス(内的感覚器官、神経中枢)を制御できることを感じます。こうなって初めて性格は確立し、その時に初めて人は真理に到達するのです。
優位のカルマ・ヨーガは、私たちのライフワークになっていくのだと思いました。
ダルミニー