11月23日。この日は師シュリー・マハーヨーギーのお生まれになった日。
私たち弟子は、永遠の真理とともに肉体をもって現れてくださり、その道を指し示してくださる師へ感謝を捧げる御聖誕祭(ジャヤンティー)を毎年開催させていただいています。
その弟子にとって1年で最も大切な集いとなるジャヤンティーでは聖劇が奉納されますが、今年私は聖劇に参加する機会を得ました。
ちょうど、松山バクティ・サンガムで「神の懐の中は、無恐怖である」という気づきがあり(過去のブログ、太鼓の導き!をご覧ください)、それがまだ、胸の中でありありと実感できた時、ウパコーサラという主役のバラモンの求道者役に抜擢されました。劇は小学校の学芸会以来でしたが、何も不安はありませんでした。それはまさに、あの時の実感からくるもので、神にお任せし、私は精一杯できることをやればいいんだという確信でした。
聖劇の練習では、京都の先輩と関わらせていただく貴重な時間でした。そこでは、より良いものを作るために途切れなく集中し、その為に必要なことには惜しみなく尽力される姿を目の当たりにしました。より良くするための意見は、先輩後輩関係なく聞き入れられ、意見を出す時にも、自分の考えをはっきりと伝えるけれども、それを押し通すようなことは一切されませんでした。また、松山在住の私のために、スカイプで何度も練習してくださり、私が京都に滞在中には、聖劇に関わるすべての役割の人が時間を作って、一緒に練習してくださいました。その先輩方の姿に鼓舞され、過ごした2か月は、楽しくて仕方がありませんでした。
ある時、ウパコーサラの心境がセリフや動作に表れていないということでアドバイスを頂いたことがありました。改善するべきところは理解でき、先輩の見本の真似はするけれど、できるのはその時だけで、すぐ忘れてしまう、まったく身につかない状況でした。それだけではなく、ウパコーサラの演技によって、先輩方の演技にも影響を及ぼし魅力を半減させていることを感じて、自分の至らなさに腹がたちました。同時に主役の役割とは、その劇を作る要になる存在だということに気づいて、それまでの自らの考えの甘さを反省しました。それまで、ウパコーサラを演じていたつもりでしたが、ふと「私の考えるウパコーサラ」を演じていたと思いました。「私」のわかること、理解できる心境は演技できるのですが、「私」のわからないことは演技出来ないので、セリフが本の朗読みたいになり、動作は、やるように言われたからやっている、劇のほとんどがこの状態でした。主役のウパコーサラがしっかりと演じられないとこの劇は成り立たない!そのためには何をしたらいいのか。
技術的な面では、先輩から教わった方法を練習することで、私の話し方や息遣いの癖、本当の意味でセリフが覚えられていなかったことに気づかされました。また、内面的には、ウパコーサラの心を知る必要がありました。それには、「私」の考えを捨てて、ウパコーサラのセリフを頼りにその心情に迫り、私の身体を道具として使い現していく。先輩からのアドバイスを聞く時も「私」の考えを捨てて聞き、素直にやってみる。「私」の心が動くと途端に出来なくなる。「私」が主体となるものを徹底的に排除して、ウパコーサラになる!本番前の2週間、ただひたすらこれだけをやっていました。いつしか、ウパコーサラの憧れた、知りたかった「ブラフマン」は、「神」と同じ存在であることに気づかされ、ウパコーサラの表面的な心よりも、常にウパコーサラの中心にある「ブラフマン」を知りたいという熱意と師の教えである真理への信仰と師の導きへの感謝を感じるようになっていました。
当日、不安や「私」の心が動く原因になるものは一切ありませんでした。願いはただひとつ、師であるヨーギーさんが、喜んで楽しんでくださる劇になりますように!本番は、あっという間、無我夢中でした。
この体験から、「私」というものは、一切いらないことを実感しました。「私」があるから心の動揺を作る原因となり、「私」の考えや判断があるから真実や本質が見えない。真理というものは、「私」がなくなってはじめて、浮かび上がってくるように感じました。これから、さらに主体となる「私」を捨て、「真理」「神」「あなた」を主体としていけますように。
このような機会を与えてくださった師に感謝いたします。
オーム タット サット オーム!!
山口正美