ガウタマ・ブッダ
釈迦族の王子、ガウタマ・シッダールタは真理を悟ったといわれている。それははるか2500年前、遠き国天竺で、一人の恵まれた人にだけ訪れた幸運だったのだろうか。
ガウタマは言う、
「私は、過去の正覚者たちによって辿られた古道、一筋の真っすぐな古道を発見したのである」。
「縁って起こることとは何か。生まれることによって老死がある。如来がこの世に出ても出なくても、この道理は成り立っている。理として成り立ったものであり、理として確定したものである。これが縁って起こることの道理である」。
個人としてのガウタマがそれを悟ろうと悟るまいと、ダルマはダルマとして確定している。それは何人にも動かしがたく、そして誰が知らなくとも、永遠に在る。ガウタマはそれを再発見した。それで彼はブッダ(覚者)と呼ばれた。人によらず、時代によらず、国によらず、永遠に在るダルマを――この宇宙・生命・自己のことわりを――発見したのである。それは一人格に寄り掛かったものではなく、この世界の原理である。
「私を信じよ、私を尊べ」とブッダは言わない。「ダルマを拠り所に、それを求める自己を拠り所に、いつどこにあっても正しい教えを実行する者、それが我が弟子である」と言う。では一個の人間としての覚者はなぜ尊敬すべきなのか。なぜ教えを尊重するのか。「過去に悟りを啓いた覚者たち、また未来に悟りを開く覚者たち、また多くの憂いを除く現在の世の覚者、――正しい教えの師であるこれらの人々は、過去にも住したし、現在に住し、また未来に住するであろう。これが覚者たちのあいだの決まりである。それゆえに、この世において自己を達成しようと欲し、偉大な境地を望む人は、覚者の教えを心にとめて、正しい教えを尊重しなければならない」
ダルマを悟った人が覚者(ブッダ)と呼ばれる。したがって覚者と呼ばれる人は、過去の覚者たちの言葉、生きざまと矛盾してはいけない。名も形もないダルマを、覚者自らの悟りを通じて言い表したものが、正しい教えである。したがってそれは過去の覚者たちの教えと矛盾しない。覚者もその教えも、ダルマ/ことわりの上に成り立つ。
「新しい経典が出てきたとて、むやみに信じるな。自ら確かめよ」。ブッダはことごとく盲信を斥ける。「見たことや聞いたことに依存してはならぬ」と説く。過去の覚者たちと矛盾せず、そして自己の根源で確かめられること、それをダルマとせよ。他人の意見や自分の感情に惑わされることなく直観によって確信できるもの、その人、その教えを見いだしたならば、それを尊敬せよ、尊重せよ。徹底的に吟味しなくてはならない。しかしいつまでも疑惑のうちに留まっていてはいけない。疑惑を払うためにこそ、徹底的に検証するのである。
「自分に刺さった毒矢が何でできているのか誰が射ったのか、それを知るまでは矢を抜かないと言うなら、すぐにでも毒が回ってその人は死んでしまうだろう。この煩悩の毒矢をすぐに抜かなくてはならない」
「この身体は、火に包まれた家のようなものである。煩悩の火が燃え盛っている。今すぐに消し止めなくてはいけない」
人は自分の家が燃えていることにすら気が付かない。ブッダはそれを知らせるためにやって来た。
「一切は皆苦である。一切は無常である。そのダルマを知って寂静に安らげ」
(絵:ダヤーマティー)