四つのヨーガ(王道・知・愛・行為)

ヨーギー「感覚器官を馬に例えて、体は馬車の車体、そして理性が御者、心が手綱というお話(古代聖典ウパニシャッド)があったでしょう。その馬車の後ろにいるのが、真実の自己であるアートマン。通常は、理性もすべてを含んだ心の中に自分というものがあると思ってしまっている。でも、心と真実の自己は全く別のものであるというのがあの馬車の例えであるし、またヨーガによって悟られた真実でもあります。この悟り、真実の悟りにあることをヨーガと呼ぶのです。それから、その悟りに至る道筋、修行としての学びの方法もその過程をもヨーガと称するようになった。これがヨーガという言葉と内容の古くからのルーツになります。

最も早く示されたのが、今の馬車の例えのように、まず感覚器官を制御すること。常に感覚の対象に向かって暴れ回っている馬を制御して、外の世界ではなく心の内面に向かせるようにする。そうして心を完全に制御して、アートマンだけを浮かび上がらせるようにする。これがラージャ・ヨーガと呼ばれる。ラージャというのは王という意味で、王道―まさに悟りへの中央道路ということです。ラージャ・ヨーガでは、専(もっぱ)ら心を制御していくことを中心としている。そこにはヤマ・ニヤマという戒律のようなものも含んでいます。いわゆる八支分といわれているものです。その八つの段階の中に瞑想があります。瞑想ではあらゆる事柄に対して本質を見抜くということが求められる。ある面は非常に科学的、あるいは心理学的な内容もあります。『ヨーガ・スートラ』がラージャ・ヨーガの根本教典ですけれども、そこにあるシッディという自在力、あるいは超能力のようなものも、すべてヨーガにおいては、ヨーガの科学によって説明と実証ができるものです。

そのラージャ・ヨーガの歴史の中で、悟りを妨害しているものも発見された。それがカルマ、またそのカルマをつくり出す過去世からのサンスカーラという執着、さらには真理を見誤ったところの無知、間違った知恵です。エゴが私であるというのもそうだし、世界は永遠である、幸福が手に入るということも誤った知恵になる。そういうものが心の中で真実を覆い隠しているものだから、それらを取り除かなければいけない。この作業が識別であり、また瞑想の中で行なわれていく。この作業を中心にしているのがラージャ・ヨーガです。

そして、その識別が徹底された時に、もはやこの世の何ものにも依存しない、何ものにも執着しない、ただ真実というものだけ、アートマンだけに集中していく、そして一切の中にアートマンを見るという、これがギャーナ・ヨーガと呼ばれている。ギャーナというのは知識とか知恵、知という意味なのですけれど、これは真実と真実でないものをはっきりと知るという意味です。だから、ラージャ・ヨーガとギャーナ・ヨーガというのは非常に似ている。ほぼ同じだといってもいい。ラージャ・ヨーガによってギャーナ・ヨーガは完成するし、また反対にラージャ・ヨーガもギャーナ・ヨーガによって完成する。

それから、バクティ・ヨーガがあります。真実を表す言葉として、昔から神という言葉があります。神なる存在。これは決して一般的宗教が教えるような二元的なものではなくて、誰もの中にある真我、真実のことを呼び慣わしたものであり、また同時に一切万物の本体、本性、本当の姿でもあります。ただこう言ってしまうと抽象的でつかみどころがない。そこでつかみやすく、人格神、人の形をそこにあてがう。シヴァであるとかクリシュナやカーリー(インドの神の名)、またはブッダ、グル(師)など、真実の存在そのものが神の顕れとしての象徴を成している。

バクティ・ヨーガでは、専ら誰もがもっている感情的な部分を使います。ただひたすら情熱をかけて神に近づき、神と一つになる、そして神と戯れる。神をただ愛するということを行なう。それは教えられてとか理屈がそうだというのではなくて、本当に心が恋に落ちるように神に恋に落ちるという、そんな感じです。だから、それだけでいい。何ら哲学も、修行で体を苦しめることもいらない。その気持ちをもっともっと高めて、そして常に神に接するかのように行為する。極まると、狂ったように神だけしか目に入らない、神のことしか聞こえない、それはもう神狂いというふうに見られるかもしれない。これがバクティ・ヨーガ。だから本当に純粋な、完全な神を愛人にしなければいけない。不完全なものや鬼神というか、悪魔のような神に熱を上げてしまうと、本当にそれは悪魔に狂ってしまうことになるから。狂信というのは、こういうところから出てくる。

そしてもう一つ大きなヨーガの柱としては、カルマ・ヨーガがある。カルマというのは行為という意味です。行為が善悪によって結果をもたらすから、そういう因果のことも含めてカルマの法則ともいいます。でももともとはただ、行為という意味です。これは、この世界にあって誰もが無行為ではいられない。生まれてくるやいなや呼吸という行為はするし、体は動くし、心も動く。そして周りには、人間や動物や花や空や、水、土、いろんなものがある。ここでどのように行為をすればいいのかということをカルマ・ヨーガは教えてくれる。それはつまるところはエゴのための行為をするのか、それとも非利己的な、利他、他のための行為をするのかで、ヨーガかヨーガでないかが分かれる。利己的行為を一切なくして他者のための行為をすることが、カルマ・ヨーガです。

ラーマクリシュナ(インドの大聖者)はよくバクティの人だというふうにいわれていますし、また多くの場合、バクティ・ヨーガを人々に教えていました。それでも、いつもバクティを深めるために必要なことは、識別と放棄だというふうに言っていたはずです。神に狂うほどの情熱をもつためには、毛羽ほどの煩悩や執着があっては邪魔になる。だからギャーナ・ヨーギーのように、それらもなくさなければいけない。カルマ・ヨーガにしても同じです。常に他者のための行為という大いなる理想を掲げていても、もし心に煩悩のサンスカーラがあるなら、それは巨大な障害になってくる。だからここでも識別と放棄は不可欠です。

識別と放棄というのは、何のことはない、真理、真実をただ学ぶということです。一方、心はそういうことを知らずに、ただあの馬のように目の前の快楽や幸福と思えるようなものばかりを追いかけてきて、そういう習慣が心に記憶としてある力をもっている。力というのは、次にそれをまた求めようという執着の力。だからこれもまたなくしていかなければならない。

この四つのヨーガが主要なヨーガです。その後、ラージャ・ヨーガの中で説かれている八支分にアーサナとプラーナーヤーマがあって―アーサナは専ら身体を制御すること、プラーナーヤーマはプラーナを制御する、つまり呼吸を制御すること―この部分が取り出されて、ラージャ・ヨーガでは瞑想が大きい部分を占めていたのが、プラーナーヤーマの部分が大きく占めるようになったもの、それをハタ・ヨーガと呼ぶようになった。ハタ・ヨーガのハタというのは、強烈なという意味です。強烈なというのは、アーサナの肉体に対する熱の入り方とか、それからプラーナーヤーマの制御の方法の強烈さというところから名付けられたのだと思われますけれども、その後、ハとタを、太陽と月というような解釈も生まれるようになったそうです。それは、この身体を扱うハタ・ヨーガにとっては、この身体は大宇宙に比較して小宇宙と見なされ、この小宇宙の中には太陽の道と月の道があるというふうに解されるようになったから。非常に象徴的な解釈です。そんなアーサナとプラーナーヤーマを中心にした修行の体系、これをハタ・ヨーガというのです。

そのハタ・ヨーガの中から、特にプラーナの流れるスシュムナーという中央の気道やチャクラなどに集中をするタイプのものが、クンダリニー・ヨーガというふうになります。

その他には、マントラ・ヨーガというのもあって、これはただひたすらマントラをジャパしていく、繰り返し繰り返し唱えるというタイプのもので、バクティ・ヨーガと組み合わせて行なわれることがあります。それから聖典などにはラヤ・ヨーガというのも出てくる。ラヤというのは消滅という意味です。一切の記憶がなくなった状態、つまり心の停止状態のことを指す言葉です。だから、ハタ・ヨーガやクンダリニー・ヨーガなどでサマーディの中で心が消滅した時、また消滅するべく行なっていくものをラヤ・ヨーガと呼ぶこともあります。後で言ったハタ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガ、ラヤ・ヨーガは、いずれもプラーナの制御をその中心的な内容に置いていますので、これらはラージャ・ヨーガに含まれると理解されます。
以上がヨーガの概略です」

ーその四つのヨーガを同時に実践していくことは、自然なことなのでしょうか。

ヨーギー「自然なことです。ましてや今の時代、この社会の中では、その四つのコンビネーションでもって進めていくのが、最もいいです」

2005.8.13

LINEで送る