瞑想の三つの対象
ヨーギー「瞑想の対象は、大きく三つに分けることができます。
一つは識別を中心としたもので、これは通常の自分の思いとか行動などが真実に沿っているかどうか、矛盾していないかどうかを吟味する。これも聖典を学んでいったり、正しい真理の言葉を聞いておくことによって、自らの心の中にある思いが正しいかそうでないかということが識別されていくわけです。これが一つ。
もう一つは、誰もが自覚しているに違いないけれども、確実ではない私という自分、本当の私というのは何なのか、真実の自己、自分自身を探る、そういう探求の瞑想。分かりやすく言えば、通常は自分の経験やキャリア、能力、あるいは肉体や心、さまざまな社会生活において身に付いたようなものが自分と同一視されてしまっています。でも、それらは状況の変化の中で成立した一時的な状態にすぎないわけです。ある時は子供だった、ある時は青年だった、そして老人になる。男であれ女であれ、また年齢がどうであれ、私という意識は絶えず同じものがあるはずです。しかしその時々に出来上がった境遇みたいなものと同一視してしまって、本当の自分を見失っていることが多いのです。これが自分の境遇に対する幸福や不幸の味わいにもなっています。本当の自己というのは、境遇がどのように変わろうとも、中立的に、そして極めて客観的に、それらをただ知っている、それらを見ている意識のことです。その意識においては、個人的な差別や種などの差別というものもありませんし、これは普遍的な唯一の意識であるということが分かります。この本当の自己を知るということは、瞑想の大きな目的の一つです。
そしてもう一つの瞑想の対象は、神もしくは神的存在、神聖な存在、完全な存在に対して集中して瞑想していく。私たちが何かを思う時は、自分が有している肉体があるように、さまざまなものに対しても物質的な目で見ざるを得ません。抽象的な概念、哲学や真理の言葉であっても、それはつかみどころのないものとして、なかなかそれを実現することは難しいです。しかしそんな時、私たちと同じ体を持った、この同じ地上を歩いた、そのような完全な存在があったなら、もっと私たちはその対象をつかみやすくなるはずです。たとえそのイメージが同じ人間の形をしていても、その本質においては真実そのものであるし、全く一片の穢れもない、完全な姿として顕れているに違いありません。そのような神的存在、神、仏を具体的に表した姿というふうに理解すればいいです。その姿に対して強烈な憧れをもって帰依して、帰依というより愛という方が近いかもしれません。強烈に愛して、一つになるかのように近づいていくことです。そうすれば、その存在のもっている完全な真実そのものに自らが染められて、不純なものは消え去っていきます」
2002.3.31 大阪