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『マハーヨーギーの真理のことば』第十章 奉仕と献身の道

「人には親切でありたい」「困っている人がいたら助けたい」 一見当たり前のことですが、常にそうあり続けることはとても難しく感じます。例えば、自分の心身が疲れて余裕がなかったり、また相手が苦手なタイプの方であったり、それだけですぐに人を思いやるどころではなくなります。師シュリー・マハーヨーギーと出会う以前の私は、それは人間の性なのだからしょうがないと思っていて、そんな自分に対してもこの世の中に対してもうんざりしていました。そんなこんがらがった心模様を師は一掃し、希望の光を見せてくださいます。『マハーヨーギーの真理のことば』第十章より引用させていただきます。

エゴと無知がある限り、私たちがこの世で生きている時には他者を犠牲にしている。他者を犠牲にしながら、そして自分だけ良くあろうと、自分のために他者を犠牲にするというのが一般的なあり方です。これは今も言ったようにエゴと無知がそうさせているわけで、他者を傷つけて、あるいは犠牲を強いていても平気なのが無知。
でもヨーガを深めていった時には、他者ではなくて自分のこの体と心を犠牲にして、他者のために行為することができる。自分を犠牲にしようとか、するとか言っている間は、まだ本当の自己犠牲はできないかもしれない、それもまだ訓練中かもしれない。出来上がってしまえばもう何の計らいもなく、極めて自然なかたちで他者のための行為だけが為されていくようになる。

師の教えに触れ、生き方を変えたいと願いカルマ・ヨーガ(献身奉仕のヨーガ)に取り組むようになってから、奉仕にそぐわない自分本位な思いが心に湧くとそれに気づくようになりました。湧き出た思いを振り払い、とにかく奉仕の実践に沿った言動を行ない続けます。それは1日1日が地道な努力の連続です。それでも師のお言葉が困難を超えていこうとする力を与えてくださいます。

ただ、本当に百パーセント全身全霊でもって他者だけを見つめること。自らを顧みるとか、自らのことに気付くような一パーセントも持ち合わせていない。
奉仕におけるヨーガにおいては、他者の中に神を見ること、ただそれだけです。単純だけれど、その思いで心を満たしておかなければ、またできないことです。

師のお言葉からは、その背後にある相手を思いやる優しさや限りなく大きな愛がひしひしと伝わってきます。この本(『マハーヨーギーの真理のことば』)全体を通して全てのお言葉が、相手のために、相手の立場に立って、相手に伝わる話し方で語られていて、そこには師ご自身の自分の都合は一つも見つけられません。師が自らの身をもって本当のカルマ・ヨーガのあり方を見せてくださっているのではないでしょうか。

奉仕への取り組みはその人を自分中心のむなしい生き方から引き離し、神様だけを見つめて生きる機会を与えてくださいます。それはこの世の中で何よりも幸せなことなのだと思います。そして師のお言葉が道を指し示してくださいます。どんな状況の中でも他者の中に神様だけを見つめて、よりいっそうカルマ・ヨーガに励んでいこうと改めて決意させていただきました。

船勢洋子


『マハーヨーギーの真理のことば』 自分の一生は自分で生きる

子供の頃から我が家にはいちじくの木があった。母が養女としてこの家に来た時に、庭に好きなものを植えたらいいと養父が言ったので、好物のいちじくの苗木を植えたところ、いちじくはだめだ、根が強く他の植物をダメにしてしまうと引っこ抜かれてしまったそうだ。しかし母はその苗木をこっそり家から離れた小さな畑に植えた。養父は数年後に亡くなり、母はやがて結婚し、子供を育てながら、丹精込めていちじくの世話をして、毎年夏になると鈴なりに実がなった。家族だけでは食べきれず、好きな方に差し上げているうちに、甘くて美味しい、販売して欲しいと声が上がり、軒先で売ると、毎朝買いに来られる方が増え、口コミで遠い所からも来られるほど、評判となった。

風邪も引いたことがないと健康を自慢していた母であったが、思いがけず病を得た。手術と治療を繰り返し、なんとか日常生活を送っていたが、病状が進み、最期の2年ほどは坂道を転げ落ちていくように急速に悪化した。それでも母は最後まで前向きに生きた。大切に育てた畑を見るのが何より大好きで、私は週末になると母を車椅子に乗せて畑まで行った。いちじくの世話は父と姉夫婦が受け継ぎ、親木から挿し木をして子供の木も育てた。亡くなる2ヶ月前の6月には、親木も子供の木も立派な葉をつけているのを見て喜んでいた。母がいちじくを愛でたのはそれが最後となり、8月に旅立った。
その1年後、去年の夏の終わりのこと、雨の多い夏となり、例年より少し時期が遅れ、9月の初めになって実をつけた。そんな朝、前日まで青々とした大きな葉を伸ばしていた親木のいちじくが一夜にして実だけ枝に残して、全ての葉を地に落とし、寿命を全うした。この2回の夏に私たち家族は母といちじくの、二つの魂を見送ることになった。

愛する存在の死は悲しい。この上ない苦しみである。苦しみを乗り超えるために私は言葉の通り七転八倒した。そしてやはり最後にすがるところはヨーガだけであった。
死を理解することは今の私には難しい。それなら必死に生きようと思った。そして私は今、真理のことばに支えられて生きている。

問題は、一個人として自分はどう感じるのか。
どう生きたいのかを自分自身に問うべきです。本当の自由が欲しいのではないのですか。本物の幸せを得たいのではないですか。
真実在というべきその存在が自らの中に在ると教えられながら、
どうしてそれを探そうとしないのか。
この単純な問い掛けを自分自身に真剣に為すべきです!
それ以外の想念は全て、単なる情報の影響にすぎません。
そんな影響の渦に巻き込まれて、自らを失いたくはないでしょう。
自分の一生は自分で生きるのです!

『マハーヨーギーの真理のことば』 第八章 実践の秘訣 より

母といちじくが自らの人生を見せてくれた。そのことに感謝して、私も自分の人生を生きたいと思う。それがヨーガとなったら本望だ。
そして今年も我が家のいちじくが大きな葉を広げて甘い実をつけるのが楽しみだ。

サラニー


旬の野菜を食べてサットヴァになる

今年の春は、心身の不調を訴える患者さんが多く来院されました。

フルタイムで働きながら子育てされている患者さんは、仕事も子育ても精一杯頑張っているのにうまくいかない状態が続き、無力感に苛まれているようでした。
多忙だと食生活が乱れがちかも、と思い尋ねてみると、簡単に調理ができる市販のものを利用することが多く、食べても満足できずに間食の量も増えているとのこと。
ちょうど春の野菜が次々と旬を迎えている時期だったため、旬の野菜を頂くことで身体も元気になることを話し、子供は大人以上に素材のおいしさを敏感に感じ取ることがあるから、お子さんのためにも、1種類でもいいから、素材を生かしたシンプルな味付けで食べてみたらいいかも、と提案しました。

翌日その患者さんから、メールが届きました。
その後帰り道に一つ野菜を買って帰り、蒸して食卓に並べたら、お子さんたちがおいしい!と言いながらたくさん食べたそうです。
子供は野菜だけだと食べないだろうと思っていたのに、旬が分かるのかな?とびっくりした、明日もやってみます、と書いてありました。

旬の野菜はサットヴァ(清浄)な性質を持ち、生命力に満ち溢れています。
その命を頂くことで、私たちの心身もサットヴァになり、満たされる。

現在、その患者さんは以前より表情が明るくなりました。多忙な生活に変わりはないけれど、少しずつでも旬の野菜を食事に取り入れるのを意識するようになったそうです。

近所には農家さんが多く、採れたての野菜が手に入るのでありがたいです。

    ハルシャニー  

 


『マハーヨーギーの真理のことば』 第七章 食の大切さ

ヨーガでは、悟りへの乗り物であるこの身体を維持するために食事をする、と考えます。 

食材も命であり、食べるとはその命を頂くということ。 
食材に感謝し調理したものを食べると、食べた後も満たされた気持ちが続き、心身が調うと、日常生活における言動も調っていきます。 

 そう分かっていても、仕事が忙しくてつい買ってきたものを食べて済ませてしまうことがありました。 
買ってきたものは味が濃くておいしいと思えず、油っこくて胃腸の調子を崩し、食べても満足感を得られませんでした。そのことで自己嫌悪に陥ってしまい、やるべき事を後回しにしがちに。 
安易に口にした食事が日常生活にも影響を及ぼしていくことを痛感したタイミングで、『マハーヨーギーの真理のことば』の第7章のページを開きました。 

古きに渡って培われた東洋の精進料理は、 
まず真理を求めることを念頭に置いて、 
修行者の体と心を調える役割を担っている。 
修行が深まり、身口意が不動となり、真理の一片なりとも悟るなら、 
何を着ようが何を食べようが構わないのだ。 
もはや彼あるいは彼女は何ものにも影響されないから。 
しかしその境地に至るまでは、 
真理の正しい教えと同様、正しい食生活にも留意しなければならない。 


第七章の冒頭に書かれているこの教えを読んで、目が覚めたような感覚でした。
 

私は真理を求めて生きると決めた。 
真理を実現するために、いつでもこの体を道具として最大限に使えるように調えておく必要がある。 
それには真理の教えを学ぶことと同じくらい、それに基づいた正しい食生活が不可欠である。 

身口意が不動となり、真理の一片でも悟り得るまではそれを徹底する! 

この章を読むことで、ようやくその覚悟が決まりました。 

 

 ハルシャニー  


『マハーヨーギーの真理のことば』 全ては同じ存在である

他者との関わりについて、私がもの物心ついた頃から両親や学校の先生に教えてもらったと記憶しているのは、「相手の立場に立って物事を考えなさい」ということでした。確かに自分がされた嫌なことは相手も嫌だろうとは思うものの、なんだかぼんやりした曖昧なもので、なんとなくそうしないといけないものと捉えていたと思います。そしてそれをしたとしても気の合う人だけだったり、機嫌が良いときだったり、いい加減なものでした。時には傷ついたり傷つけられたり、人間関係ってそんなものじゃないの?と思って生きてきました。ですが真理の教えと出会って、なぜ相手の立場に立って物事を考えないといけないのかが、だんだんと腑に落ちるようになっていきました。

『マハーヨーギーの真理のことば』第5章の中で、その答えが明確に書かれているのでご紹介します。

真理というものを学ぶならば、最初に気付かされることは、全てのものが平等であり、尊いということです。ここにおいては自らと他者、あるいはその他の動物や生き物、全てにおいて差別観を持ってはいけない、全ての中に同じ尊い存在があるということです。そうすると、誰かが誰かに暴力を与える、与えられるという関係は矛盾するでしょう。それは平等ではなくなる。これは真理に反することです。盗む、盗まれるもそうです。真理というところから見ても、当然の行為のあり方です。そういうふうにまず真理をもって理解することで、自らの心の制御が為されるし、また行為が正されていくと思います。もちろん行為は実践を通して行なわれますから、確実なものとしてそれが本当の修行というものになっていくと思います。単に頭の知的理解だけでは駄目、体を通して体得していくことが求められます。

教えを学び始めてから程なく、全ての中に同じ尊い存在を見るように努め、言葉も、行為もそれに矛盾なく沿わせていくという実践が始まりました。私が特に意識してきたのは誰に対しても暴力的な思いをもたないようにするということです。うまくいかないことは多々ありました。余裕がなくて優しくなれなかったり、いやいやこれはこの人が悪くない?と葛藤したり、ああかな?こうかな?と経験を繰り返すうちに、徐々に自分の心の形相が見えてきました。

自分の中に他者に対して暴力的な思いがあると、心の中がずっともやもやして、気分を変えようと場所を変えても、誰かと話しても、結局気分は晴れずにずっとしんどい思いを抱えているのです。

(なるほど、この世を見渡すと数多くのものがそれぞれ点在しているように見えるけれど、そうではなくて、師が仰っているように全ての中に同じ尊い存在があるのかもしれない。もしそうだとしたら、他者は自分自身ということになる。他者に暴力的な思いを持つと自分が苦しいと感じるのは、結局自分に対して暴力を振るっているのと同じ。そうか、相手がどうこうではなくて、自分が同じ存在を見ていないから苦しむのだ)と実践を通して少しずつ心が理解するようになっていきました。

今までの心の習性からこの世界を見るか、それとも真実の方から見るか。どちらから見るのかによって、天国にでも地獄にでもなる。自分が天国を見たいのなら、自らの心の持ち方や言葉遣い、行為の全てに責任を持たないといけないということが分かってきました。

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第5章は全ての中に尊い同じ存在があることを体得するための、日常の行為の秘訣が書かれています(他者との関わりにおいて守るべき教えをヤマ、自分に対して守るべき教えをニヤマと呼びます、詳しくは以下の通りです)。

ヤマ(禁戒)他者に対する行為と言葉と想念の制御
 アヒンサー(非暴力)ー一切万物を傷つけてはならない
 サティヤ(正直)ー真実だけを語り、誠実であること
 アステーヤ(不盗)ー何ものも盗んではならない
 ブラフマチャリヤ(純潔)ー純潔であること
 アパリグラハ(不貪)ー必要最低限の物以外所有せず、贈り物を受け取らない

ニヤマ(勧戒)自らに対する行為と言葉と想念の精進
 シャウチャ(清浄)ー身心を潔斎浄化する
 サントーシャ(知足)ー生きる上で必要最低限度で足りたるを知る
 タパス(苦行)ーあらゆる身心の二元状況を克服する
 スヴァーディヤーヤ(聖典学習)ー真理への理解を育む
 イーシュヴァラ・プラニダーナ(神への誓願)ー神への帰依

本の中ではヤマ・ニヤマ一つ一つの戒律について、具体的にどう考え実行すればいいのかがとても分かりやすく書かれています。読んでいると面白くて、ワクワクしながら読み進めていけます。そしてすぐに実践しようと思えるものばかりです。ぜひ読んで、実践して、味わってみてください!

アマラー

 


ラージャ・ヨーガ「ヤマ」の実践で気付いたこと

松山と東京のクラスを結んで昨年5月に始まった「ヤマの会」ですが、先月、ヤマの5つの教えの実践を終えて一旦会を終了することとなりました。

「ヤマ」とは、ラージャ・ヨーガにおいて一つ目に挙げられている修練であり、日常でおこなわれるとても大切な教えです。

アヒンサー(非暴力)
サティヤ(正直)
アステーヤ(不盗)
ブラフマチャリヤ(純潔)
アパリグラハ(不貪)

私たちは教えを順番に実践し、オンラインで実践したことや感想などを話し合ってきました。

最初の頃、「私は人から盗むことも嘘を付くこともしない」と、ピンとこないところがありましたが、たとえば、人の考えをさも自分が考えたように言ってしまうこともアステーヤに反することや、根拠が曖昧ないい加減なことを言ってしまうこともサティヤに反するということを知り、どれも私はよくしていたことなので身が引き締まりました。本を読んで得ただけの知識だと納得してそこで終わってしまいがちですが、ヤマの会ではテーマについて話し、実践し、また振り返りをするのでより深まると思いました。
そして皆さんのいろいろな捉え方、実践を伺えるのはとても勉強になりました。
また、できないと落ち込んだ時もあったのですが、皆さんのヨーガへの真剣な姿勢とともに前向きな明るい姿に、ヨーガって楽しい!という思いが伝わってきて、たとえ少しでも出来たことを喜び、半歩でも前へ進もうと思うことができました。

オオイヌノフグリはいち早く春を教えてくれます。

私は実践していく中で気が付くことがありました。
アヒンサーを学んでから家族を傷付けないようにしていたつもりでしたが、ちょっとした言い争いをしてしまい、その直後私が今まで家族にとってきた良くない態度やきつい言い方が、そのまま自分に返ってきていることにはっきり気が付き、驚きました。身口意(行為・言葉・思い)を一つにしなければ、と改めて思いました。
そんな時、『マハーヨーギーの真理のことば』の御本が届き、パッと開くと「身口意を調える─ ヤマ・ニヤマの実践」とありました。
ヤマ・ニヤマの章を読んでいく中でヨギさんの次のお言葉に、私は胸の奥がぎゅっとなりました。

「平等ということを徹底することによって、それらの戒めは自然と身に付くことになります。これがヤマに対する一つの考え方の基本です」

平等ということを徹底する————
この教えを日々深め、実践を続けたいと思いました。

皆で相談をして、4月から今度は「ニヤマの会」が始まります。楽しみです!

ツタバウンランと蟻。小さな命に見入ってしまいます。

中村 凪


『マハーヨーギーの真理のことば』第四章 ヨーガの道

『マハーヨーギーの真理のことば』第四章のレヴューをお届けします。この章では、世界を生きていくのには二つの道がある、と書かれています。

一つはカルマの道。カルマとは作用と反作用、原因と結果のことであり、蒔いた種は刈り取らねばならない、ということ。
私たちは過去世で蒔いた種を刈り取るために生まれ、生涯をカルマの結果を刈り取るために過ごし、さらに新しいカルマを作り続け、今生を終えたら次のカルマを刈り取るために再び生まれる。カルマの道にゴールはなく、苦しみが果てしなく続く……なんだか書いているだけで苦しくなります……

もう一つはヨーガの道です。そのゴールは、誰もの胸の内奥に在る真実、本当の自分に目覚めること。私たちが生まれてきた本当の意味はヨーガの道にある、そして誰もがそれを実現することができる。「真実とは何かーーそれだけを探究し実現しなさい!」と力強く書かれています。

どちらの道に進めば本当の幸せを手にすることができるのか、自由になれるのかは明白です。しかしヨーガの実践を続ける中で、ヨーガの教えよりも染み付いた習慣や思いの方に心地よさを感じ、それらを棄て切れないこともある……そんな私の心をお見通しであるかのように、シュリー・マハーヨーギーは次のように言われています。

「心を制御したり、感覚を制御したりするから不自由であって、束縛されているというふうに心は誤解しているけれど、実はそうではなくて、ヨーガは結果として自由をもたらす。それは心にとっての自由がもたらされる。そのからくりを心は知らない。
習慣的に身に付いた嗜好とか、好き嫌いとか執着とか、そういうものについ縋ろうとしているけれど、それはいわば、ちょっと起きるのは寒いし、まだ布団の中が気持ちいいとか、微睡んでいるような、そんな状態に例えられる。でもぱっと目覚めて起きたら、どんなに気持ちよく自由に行動できることか。布団の中では何もできない。
だから、ヨーガを誤解してはいけない。むしろ本当に自由になりたければ、ヨーガをしなければならない。その誤解をまず解いていく。そしてヨーガを進めていってごらん。自由になれるから」

この冬、眠くて布団から出たくない……そんな朝、私はこのお話を思い出し、「微睡んでいてはいけない!布団の中は暖かく、また身に付いた思考や習慣にすがることは楽だし心地よいかもしれないが、ここに自由はない。目覚めよ、私!!」とプラーナを変える訓練をしていました。

「ヨーガというのは正しく自らの魂を復活させるための一大事業」だと、シュリー・マハーヨーギーは言われています。簡単な道であるはずがありません。しかし、ヨーガの道を歩むと決めたならば、その教えを自ら実践し確かめ、一歩一歩進んでいく。ぱっと起きて行動し、日々その清々しさを感じるーー実践こそが道を歩む上で必要なことです。そうすれば確実に自由へと近づいていくのだと私自身感じています。

「たとえこの生涯においてそれが完成に至らなくても、その智慧を失うことはない。決してカルマの道に後戻りすることはありません」とも書かれているこの章を読むと、過去ではなくこの刹那を生きることこそ全て!と前を向き、「本当のことを知りたい!!」とハートに沸き起こったあの情熱に一瞬で立ち戻り、絶対にヨーガの道を諦めない!!と自らを奮い立たせることができるのです。諦めたら終わりだし、諦めるのは私の心であり無知から出てくる思いなのですから。

ヨーガの道を歩むために必要な教えが書かれているこの本と、同じゴールを目指す仲間と、そして何よりも大切な最愛なる師とともに私は歩み続ける!!その思いに立ち返ることのできた第四章でした。

ターリカー


純粋に想い、行為する

15年前の2月私は初めてサットサンガに参加しました。 
サットサンガとは、聖者の祝福と教えを授かる聖なる集いのことです。 
クラスで、一人一人の質問に対して師が答えてくださる対機説法という形だと聞いてはいましたが、私には特に聞きたいと思うことがなく、必要を感じませんでした。 

参加のきっかけとなったのは、N.Y.から来られていた先輩グルバイ言われた言葉でした。 
「まだヨギさん(師)にお会いしたことがないの!?もったいない!」 
その後、先輩グルバイから師のお人柄や行動について伺っているとお会いしてみたくなり、1週間後のサットサンガへの参加が決まりました。 
参加するのであれば質問を、と考えてみましたが、思いつかないまま当日を迎えました。 

サットサンガが始まり、まず、師が合掌されているお姿に目を奪われ、すっと背筋を伸ばした美しい座り姿に釘付けになりました。 
次に、質問する人が真っ直ぐに師を見つめる表情が印象に残りました。 
そして、質問に対して丁寧に答えられる師の優しいお顔と心地良く響くお声にどんどん惹きつけられていきました。 
また、師と質問する人との間には、何か強い結び付きのようなものがあるように感じました。 

問答を聞いているうちに、ヨーガの教えというのは哲学的なものとして存在する難しいものではなく、日々生きていく上で支えとなるものなのだと気付き、師に尋ねました。 
「人の役に立ちたいと思うのはエゴですか?」 
「純粋な信仰を持ってするならば、可能です。純粋にそれを想うことができたら、素晴らしいこと。崇高なものとなります。」 

「純粋な信仰」という言葉が強烈に胸に刺さりました。 
人の役に立てるようになりたいと思っているのに、私は「純粋」ではなく、「信仰」もないことに気付いたのです。そして自分の中に見て見ぬふりをしてきた問題があり、それが苦しみとなっていることを自覚しました。 
翌日も師にお会いする機会があり、私は立て続けに質問をしました。苦しみを一刻も早く解消して、本当に人の役に立つことができるようになりたくて、「純粋な信仰」が何なのかを知りたくて、必死だったのだと思います。 
師のお答えの中には、聞いた瞬間に受け入れ難い言葉がありましたが、師の穏やかに微笑まれているお顔を見つめていると受け入れることができて、「やってみます」と素直に返事をしていました。 

そんな風に誰かに対して素直になったことがなかったので、自分が自分ではなくなるような感覚でした。その感覚に戸惑いながらも、師に「やってみます」と言ったことを一つずつ実行していきました。 
日に日に私の中で師の存在は大きくなり、抱えていた苦しみは少しずつ消えていきました。 

グルバイの話を聞くと、理由や時期は様々ですが、皆目に見えない糸に導かれるようにヨーガに出会っていると感じます。 
それは私たちの中にすでにある真実が、真実そのものを体現している師に惹き付けられているからだと思います。 
初めてサットサンガに参加した時に感じた、師と質問する人との強い結び付きは、ともに永遠に変わることのない真実の存在であることを感じたからかもしれません。 

今は、人の役に立つことができるかどうかは気にならなくなりました。 
純粋に師のことを想い、同じように目の前の人のことを想い、行為したい。それが願いです。


近所の河津桜が次々と咲き始めました

ハルシャニー  


『マハーヨーギーの真理のことば』” 生きる秘訣 “を読んで

 私は人と平和に仲良く付き合いたいという思いが強く、意識しすぎて他人とうまくコミュニケーションがとれず苦しみを感じています。ヨーガを始めて、他人によく思われたいという思いが原因だと分かりましたが、他人に好かれなくてもいいと心に言い聞かせようとすると、その人に対して無関心な冷たい感覚を感じたので、これは絶対違うとも思いました。好かれたいもダメ、好かれなくていいもダメ・・きっと好かれなくていいけれど、私は他人を愛し奉仕しますという境地が正しいのだろうと思いながらも、どうしたらそうなれるのか雲をつかむようでした。

 今回、「生きる秘訣」の章を読んで、他人と接する際、個性は無視すればいいとの教えに衝撃を受けました。ずっと、その人のいいところを見てそれを愛していくもの、悩みを打ち明けてもらえる程関係を深めて、その悩みや困りごとに対して自分ができることを親身になって行為することが「他者に善きことを行為すること」だと思っていたからです。
この教えをよく考えてみると、ここが好き、あそこが好きと判別すること自体、全ては等しく尊いという真実に矛盾しているのかなと思いました。

 また、愛に感情や言葉は要らない。ただ奉仕すればいいという教えも目から鱗でした。これもよく考えてみると、感情や言葉で仰々しく飾る程に、こんなに思っている私を分かってほしいというような見返りを求める気持ちが加わる気がします。無償の愛は本来もっとさり気ない、ただ状況がより良くなるよう行為する。そんなシンプルな姿なのかなと思いました。
そして自らを振り返ると自分を良く見せるために発している言葉がいかに多いか気づきます。やはり、きっぱりと「人に好かれたい」という気持ちを捨てることが必要だと改めて思いました。

他者のために思い、話し、行為できるように、「私」が出てきたら改めていけるように、日々自分の言動をしっかり観察するようにしていきたいと思います。

白石雅子 


何でもない者であるために

今年も残すところあと数日となりました。

この一年、「一つの物事に対して粘り強く取り組むこと」を実践してきました。
神に道具として使っていただけるようになるために、目の前のことに丁寧に向き合い、じっくり考え、行為することが必要だと感じて決めた抱負でした。

実践する中で幾つか気付きや変化がありました。
・じっくり考えて物事をやり切ることが苦手だったが、取り組むうちに苦ではなくなり、習慣になりつつある。
・一つのことを精一杯やり切るように努めることで、結果がどうなっても気にならなくなった。
・困難を感じる時は、目の前のことよりも自分のことを考えている。気付いたらその都度真実へと意識を向けるようにすると、困難は感じなくなった。
・粘り強くやる中で何度も失敗しては気持ちを切り替えるうちに、力まず凹まず淡々と行為するコツが掴めてきた。
・取り組むほどに、自分が何かをしているという感覚が少なくなっている。

抱負を実践することで、神に使って頂ける道具に近付けたかは、自分では分かりません。
ただ、こうして考え行為することも含めて、全てが神から与えられたものであるということを、一層強く感じるようになっています。

あらゆる命は神の顕れ。
常に神である誰かに支えられて、力をもらい、行為し続けることができている。
この事実に感謝しかありません。


1枚の葉が赤と緑のクリスマスカラーになっていました。
赤はイエスが流した血を表し、緑は永遠の命の象徴とされています。

”何でもない者
神は、ご自分の偉大さを、何でもない者を使うことで示されました。ですから、いつでも何でもない者でいましょう。何の相談もなくても、神に自由に使っていただきましょう。”

聖なる者となりなさい マザー・テレサの生き方 より

私も何でもない者でありたい。
いつどのような状況でも、神に使っていただけるようになるために、来年も弛まず行為し続けます。

ハルシャニー