『マハーヨーギーの真理のことば』第八章 部分と全体を同時に見る集中力

私は三人の子どもを育てている主婦です。特に下の二人は幼稚園児の男の子で、毎日元気いっぱいです。一家五人の洗濯、掃除、炊事、幼稚園や学校との連絡など、やることはたくさんあります。家の中では、子どもたちが仲良く遊んでいる時もあれば、喧嘩をする時もあり、てんやわんやの毎日です。

『マハーヨーギーの真理のことば』にこんな質問者の問いがありました。

ー子供は凄くパワーがあって、あちこち動き回ったり、ずっとおしゃべりしています。家事などやらなくてはいけない仕事が多くて、本当は一つ一つ丁寧に仕事を熟したいのですけれども、全体も見ないといけない。ヨーガを深めていくと視野がどんどん広くなっていくということも聞いているのですが、どうすればいいのでしょうか。

この質問者が置かれている状況と、私が置かれている状況は一緒だなぁと深く共感しました。この質問に対して、マハーヨーギーはどのように答えられているのか、とても興味がわきました。

すごくヨーガ的だと思うんですね。(中略)それをどのようにしてうまく熟していけるかということは、やっぱり集中力です。
集中力というと、つい目の前のことだけに集中して、他のことが見えないというふうになりがちですけれども、そうではなくて、この両方の集中力を同時に発揮させるということ、それはヨーガの力でできるはずなのです。ヨーガの力というのは具体的に言うと、呼吸のあり方というか、呼吸の長さのことです。心がちょっと動いたり動転したり、刺激を受けたりすると、せっかく落ち着いていた心も乱れることがありますね。でも集中している時の心というのは、非常に落ち着いた深い呼吸になっていて、注意、集中力をいろいろ動かしても、あるいはまたいろんなことが起こって刺激として飛び込んできても、呼吸のリズムが乱れることなく、同じ状態でいられる。そうしたら結構うまく対処ができていくと思います。呼吸と心の集中力を養うためには、もちろんヨーガが不可欠だということにもなりますけれど、それはアーサナだけではなくて、瞑想とかヨーガ全体のことです。だから常々にそういうことをしておくことは、もちろん大事なことです。そしてもう一つは、その現場、今は日常の、子育ての一日一日の中でそれを訓練していっていると思って取り組んでいけば、きっとそのうちに見え方が違って来ると思います。

私は週一回ヨーガのクラスに通うようにしています。ヨーガを続けていくうちに、呼吸が調い、心が落ち着いていっているのを実感しています。だから、このマハーヨーギーの答えにとても納得がいきました。呼吸が調えば、心が落ち着き、おのずと集中力が養われていくーーーヨーガのおかげで、外から飛び込んでくる刺激に心が惑わされにくくなっていきました。

松山のヨーガ・サーラ・スタジオでのクラス。

例えば、子どもの兄弟喧嘩はそれぞれが感情むき出しで、怒りのエネルギーを爆発させます。その現場に居合わせて、自分の心が巻き込まれてしまうと、頭ごなしに叱ってしまいます。けれど、集中力が深まっていくと、自分のエゴを押し付ける前にブレーキがかかり、それぞれの子どもの中にある本質を同時に見極めようとするようになってきました。すると、私が余計な干渉をせずとも、子どもたちは自分に備わっている力で喧嘩を治められることに気がつきました。そして、必要な時には、後回しにせず子どもの気持ちを聞いて受け止めるようになりました。集中力が高まると、瞬間瞬間で今するべきことを判断する直感力がついてきたように思います。

ヨーガに取り組むことで図らずとも結果的に、円満に子育てをできるようになってきていると感じています。世界の見え方を変えることができるヨーガは本当に確かな道なのだと実感しています。性別、年齢、置かれた状況にかかわらず、万人にひらかれたヨーガの道に深く感謝するとともに、これからもヨーガをしながら子育ての一日一日を集中して取り組んでいきたいと思います。

 

井上江理


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ⑭

「桜の花がほころぶ頃に来ていただきたい」
一昨年秋に開講した大阪クラスの弟子たちの強い願いを、ヨギさんはお聞き届けになり、大阪でのサットサンガが開催されました。
それは2002年3月31日のこと。
突き抜けるような青空が広がっていました。

大阪に来てくださった師のお姿を前にして、目に涙を浮かべる大阪の弟子たち。
その姿にヨギさんは満面の笑みで応えてくださいました。
弟子たちは、溢れる喜びと最大の感謝の記しに師に花束を捧げ、そして会場までの道のりを談笑しながらゆっくりと進みます。途中、満開の桜の下では写真撮影も行なわれました。

そうして会場に到着。この日の参加者は30名ほどでした。
師の紹介がなされ、サットサンガの質疑が始まろうとしたまさにその直後のこと、先程まで晴れ渡っていた空から突然大粒の雨が降り出し、屋根を叩く激しい音が会場に響きました。まるでスコールのような激しい雨は、屋根の下に居ることへの安堵と、また清々しさを感じさせ、その小さな驚きが緊張ぎみの皆の心を解き放ちました。

そして「今日はちょうど桜も見れましたし」と楽しげなヨギさんのお言葉に笑いが起こります。

これには理由があり、今回のサットサンガの準備を主軸となって進めていた長石さん(アンビカー)には、満開の桜並木を通ってヨギさんを会場へご案内するという計画がありました。しかし、桜だと思っていた並木が実はケヤキだったと、新しい眼鏡を作って(?)気がついたというのです。え〜〜!!!!!! とは、長石さんがいちばん思われたことでしょう。
ただかろうじて2本の桜の木があったそうで、そのことを先週の京都のサットサンガで報告され、楽しい話題となってあがっていたのでした。

今回のパラマハンサNo.31の表紙絵は、この大阪に来てくださったヨギさんのことを描いてみました。
春色の花束を胸に抱かれ、オレンジ色のジャケットとパンツをスマートに着こなされているヨギさんのお姿は本当に美しく、笑顔が輝いていました。
大阪クラスの弟子たちは、日数はまだ長くはないものの、皆、真剣にヨーガを学び、実践を続けていました。そしてクラスは毎回高い集中感の中で行なわれ、皆のヨーガへの情熱は高まり続けている、そんな頃だったのです。
--この情熱こそが、全ての障害を速やかに取り除く、そして、ヨギさんがいつも弟子たちに求められるものではないでしょうか。
師の慈愛に満ちた眼差しが弟子たちに注がれました。

この日のサットサンガの内容は、基本的な3つの瞑想法の伝授から始まり、師の教えと、シュリー・ラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダの教えとの共通性と特異性に関して、という師のミッションに関わる質問がなされました。その中で、短いながらもシュリー・ラーマクリシュナやスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの偉大なる働きについても言及され、濃密な時間となりました。
*このサットサンガの内容は紙面『パラマハンサ』No.31に掲載されているのでぜひお読みいただきたい。

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さて、今年の桜の開花はどうでしょうか。
「桜の花が咲く頃に」とヨギさんが企画してくださった、今年の「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー」は、ももうすぐそこまで来ています。今年の祝祭ではヨギさんが愛されたスワーミー・ヴィヴェーカーナンダがどのようなお姿を見せてくださるのかとても楽しみですね。
願わくば、桜が満開に咲き誇る中、サナータナ・ダルマとアヴァターラへの憧れと敬意を胸に抱き、共に感謝を捧げることができますように。

シャチー


力を与えてくれるヴィヴェーカーナンダの言葉

インドの聖者、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、数多くの力強い言葉を残されています。

『立ち上がれ、目覚めよ』は小さな本ですが、ヴィヴェーカーナンダの力強いメッセージが凝縮されていて、私は幾度となくこの本を開いています。

まず自分を、それから神を信じよ”

日々悩みや苦しみに翻弄されている自分に自信が持てず、これでヨーガを実践しているといえるのかモヤモヤしていた時に目に飛び込んできたのが、この言葉でした。
「神」「真理」「真我」と呼ばれる、永遠に変わらない純粋そのものである存在が、誰もの中にある。
そう教わる度に心底安心して、それだけになりたいという思いが湧き起こるのですが、気持ちが落ち込むと、私にはできないという思いの方が勝ってしまう状態でした。
この堂々巡りから抜け出したくて、ネガティブな思いが湧いたらこの言葉を呟くことにしました。最初はただ呟いているだけでしたが、続けているうちに胸の奥の方に意識が集中されて熱を帯びてくるようになり、その体感しているものが、「神」と呼ばれる存在なのかもしれないと思うようになりました。気付けば自分自身を、そして神を、確かにあると信じられるようになっていました。


しかし、実践を続ける中では葛藤することや悩むことが度々起こります。そんな時、勇気を与えてくれるのがこの言葉です。

失敗を気にするな。それは自然なことだ。失敗——それは人生の美だ。失敗のない人生などありえない。もがき苦しむことがなくなれば人生に意味はない。…苦しみや間違いを気に病むな。…これらの失敗や小さな後退を気にするな。千回でも理想を掲げよ。そしてもし千回失敗したら、さらにもう一度チャレンジせよ”

失敗してしまった時にこの言葉を思い出すと、目の前にヴィヴェーカーナンダが現れて、私の手をぐっと引っ張ってくれるように感じるのです。
落ち込んだ気持ちはリセットされて冷静になり、失敗した出来事と真理の教えとを照らし合わせ、何が原因だったのかを見付けて、もう一度やってみようと思えるようになります。
たとえそれでまた失敗したとしても、この言葉の通り、千回でも理想を掲げてまた挑戦すればいい!
私にとって最も気合が入る言葉かもしれません。

先日『立ち上がれ、目覚めよ』を読み返したら、これまであまり気にならなかった言葉が目に留まりました。

愛に失敗はないのだよ、君。今日であろうと、明日であろうと、何十年後であろうと、真実は征服する! 愛は必ず勝つ。君は仲間を愛しているか?”

愛とは純粋に、ただ相手の幸せのために自らを捧げること。
そこには失敗か成功かなどということは一切なく、ただ愛があるだけ。
ハートをギュッと鷲掴みにされたような感覚になりました。 

また、初めは仲間というのは共に真理へと続く道を歩む人たちのことを指していると思っていたけれど、何度も読み返すうちに、仲間とは、全ての共に生きる人たちのことを指しているのではないかと思うようになりました。
目の前にいる人かもしれないし、遠く離れた場所にいる人かもしれない。
それぞれの人にとって大切な人たちを愛し、その幸せを願い行為することで、不可能なことも可能にする力が、きっと生まれる。
ヴィヴェーカーナンダも、そのように人々を愛し、彼に愛された人々も彼を愛し、それが大きなうねりとなり、数々の仕事を成し遂げられたのかもしれない。

今生で出会えた愛おしくて大切な仲間たちと共にいられることがどんなに吉祥なことか。私はこれまで以上にそれを実感しています。
1人でできることには限りがあるけれど、仲間がいることでできることは無限大に広がっていくと信じています。

少しでもヴィヴェーカーナンダに近付けるように、行為していきたいです

 

ハルシャニー  

 


ヨーガ・瞑想 長岡京クラス

3月になり、少しずつ春に向かっている気配を感じますね。
今日は長岡京クラスの様子をご紹介します。

長岡京クラスは、水曜日の合計2回が毎週開催されているクラスです。
朝クラスは10時~ 神足ふれあい町家で行なっています。

今の季節は菜の花が咲いています。

窓から見えるお庭には、季節の移ろいが感じられるさまざまなお花が咲いています。朝の清々しい空気の中でアーサナと瞑想を行えるクラスです。

毎年この期間はふれあい町家はお雛様の催しをされているので、バンビオの和室で行なっています。写真はバンビオの和室の様子です。

夜クラスは19時~ バンビオ(JR長岡京駅に隣接している施設)で行なっています。

会場の大きな窓からは夜空が広がり、しっとりとした雰囲気の中で行なうアーサナと瞑想は夜ならではの静寂と集中感があります。同日に朝と夜の2回のクラスがあるため、朝のクラスに来られなかった方やお仕事帰りの方が夜に参加されることもあります。

* * *

朝のクラスも夜のクラスも、毎週来てくださる皆勤賞の方や月ごとに予定を決めておられる方など、それぞれのペースで通っておられ、皆さんの真剣な取り組みとその集中感が、着実に高まっている印象です。そして初めてのご参加者にもご自身のペースで進めていただけるので、周りのことは気にせず心身と向き合える時間になっています。新しい方が参加された時には、定期的に通われている皆さんがさりげなく新しい方を案内してくださったりしています。皆さんのごく自然体で優しい姿にはいつも尊敬の念を抱きます。

アーサナのポーズの中で、吐く息を長く伸ばして吐ききることで呼吸が制御されて、そこから生じる皆さんの集中感にその場の空気が支配されていきます。アーサナ中には指導のためにお声をかけることがありますが、ちょっと声をかけるのも憚られるような、リードの声さえも集中の妨げになると感じるほど、それほどまでにみなさんの集中感があります。そして毎回、瞑想を終えた後には、皆さんから静まりを感じるので、やはり師が開発されたアーサナの偉大さを感じるばかりです。
アーサナは生き物の数ほどあると言われていてその膨大な種類の中から師が厳選されたものを、マハーヨーギー・ミッションではその作法とともに大切にお伝えさせていただいています。クラスの指導者は、全員が師の下でヨーガの道を歩んでいる一人のヨーガ行者であり、古代から伝わるヨーガに惚れ込んで、ヨーガを純粋に一人でも多くの人にお伝えしたい!という思いで行なっています。
マハーヨーギー・ミッションのどのクラスに行っても同じことが学べるのが魅力だと感じています。私自身も師から教わったヨーガの素晴らしさを皆さんと分かち合えるように、純粋にお伝えしていけるように取り組んでいます。

アーサナをクラスで行なう時間はそれぞれの方が日頃の日常から少し離れて自分をリセットできる、心身と静かに向き合えるかけがえのない時間です。
長岡京クラスでは、最後に『マハーヨーギーの真理のことば』からヨーガを進めるヒントになることばをご紹介していますが、最近は、瞑想についてのところをお伝えしています。何に瞑想すればいいのか?クラスでは集中できても自宅では集中が続かない、という声なども時々お聞きします。今年は、瞑想が少しずつ深められるようなそういった教えにも触れていく予定です!春になると、体を動かしやすくなります。これからも皆さんと共にヨーガの道を少しずつ歩んでいきたいです。それでは、クラスでお待ちしております。

ふれあい町家のお庭。つぼみがふっくらしてきて、もうすぐ咲きそうです!

🪷長岡京クラスの詳細はこちらから

ナリニー


「サンニャーシンの詩」に触れて

1カ月後の4月6日(日)にマハーヨーギー・ミッション主催の春の祝祭が開催されます。今年はスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの魂に迫っていく内容となっています。
最近私は、ヴィヴェーカーナンダが作られた『サンニャーシンの詩』というものを読み、その力強い詩に感銘を受けましたのでご紹介(詩の一部を掲載)させていただきます。

この音色を呼び起こせ!
その歌は生まれた。
この世の穢れが決して届くことのない、はるか遠く離れた山の洞窟や森の奥地で。
その場所は知識、真実、至福の波が渦巻いている。
高らかに歌え、その音色を。勇敢なるサンニャーシン!
唱えよ オーム・タット・サット オーム!

汝の足枷を取り払え!
愛と憎しみ、善と悪、すべての二元的束縛を。
知りなさい。奴隷は奴隷であり、優しく撫でられようとも、ムチ打たれようとも自由ではないのだと。
それら束縛を断ち切れ。勇敢なるサンニャーシン!
唱えよ オーム・タット・サット オーム!

“蒔いた種は刈り取らなければならない“
“そして、原因は確実に結果をもたらす。
誰もこの法則から逃れることはできない。
形を取るものはみな鎖をまとわなければならない“
しかし名前と形を超越しているのがアートマン。
それは常に自由である。
汝はそれであると知れ。勇敢なるサンニャーシン!
唱えよ オーム・タット・サット オーム!

汝はどこに探し求めるのか?
友よ、自由はこの世界では得られない。
汝を引きずるロープを掴んでいるのはあなた自身の手なのだ。
嘆くのをやめて掴んでいるその手を離せ。勇敢なるサンニャーシン!
唱えよ オーム・タット・サット オーム!

この詩はサンニャーシン(出家者)の心の放棄を詠っています。私たちの心の中にある執着や欲する思いを手離せば、心が生み出す苦しみや問題から解き放たれて自由になることができる。真の自由を手にすることをヴィヴェーカーナンダは熱いハートをもって高らかに教えられています。

私はこの詩に触れて心の奥底から力が漲ってくるような気持ちになりました。ヴィヴェーカーナンダの言葉の一つ一つに熱の波動を感じ、その熱が私の心に響きわたるようでした。この詩を読み唱えると、その言葉だけに集中され、その他の思いが浮かばないほどに強い純粋な思いで心が満たされているような感覚がありました。
ヴィヴェーカーナンダの言葉にとても惹きつけられて胸が熱くなりました!
私は自由な心でありたい!自身の心に引きずられることのない自由を求めて生きたいと思いました。

最後に私はこの詩の中で何度も繰り返し出てくるフレーズにとても鼓舞されました。
勇敢なるサンニャーシン! 唱えよ オーム・タット・サット オーム!(神は真実在なり)

 

金森淳哉


アーサナの効果

京都に住む娘は現在28歳で、看護師として在宅の患者さんを訪問し、サポートする仕事をしています。当然ながら彼女は、私のことを28年間家族として間近で見てきたわけですから、私がヨーガに出会ってから、どのように変化してきたかを一番知る人物といえます。

娘にはこれまで、「ヨーガは良いから、やるといいよ。やったら、良さがわかるから」というような誘い文句でヨーガを勧めてきました。実際に、彼女自身もヨーガに触れる機会はありましたが、コロナ禍をきっかけに足が遠のいている状況が続いています。

そんな中、2023年5月から娘のところに泊まる機会が増え、今では月に1〜2回は必ず泊まり、その時には昔話や仕事、家族のこと、趣味や友達の話など近況を話すのですが、いつの頃からか、最後には必ずヨーガの話になって、夜遅く、時には明け方まで、笑いあり涙ありで語り合うようになりました。ある時、娘が私のことを「昔とは違って、許容範囲が広がって、どんどんキャパが大きくなっていってるのがわかるよ」と言ってくれたことがありました。その頃から、これまでとは違い、年齢や親子という枠を超えて、より親しく話せるようになったと感じています。

12月に宿泊した時のことです。仕事で患者さんと接する時のことについて

娘 「患者さんのいろんな言動や行為を見て判断していることは、私の心が判断していることだから、それは見ないで、相手に必要なことだけを見て援助するようにしているんだ」
私 「すごいね。それヨーガじゃん」
娘 (驚いた様子で)「えっ!それヨーガなの?」
私 「そうだよ。そうやって、目の前の人に行為していく。でも、そうだな・・・(一瞬考えて)できたら、アーサナをやるともっといいけどなぁ」
娘 「アーサナの効果は何?」
私 「そうだなぁ・・・(自分が体感している効果の中から、娘にいいものを、と考えて)自覚しているかどうかは別として、誰しも身体には疲労や歪み、偏りのようなものがあると思う。その状況がマイナスだとして、しばらくアーサナを続けているとそのマイナスが、アーサナしたらゼロになる、アーサナしたらゼロになるを繰り返すようになる。またしばらく続けていたら、どんな時もゼロでいられるようになって、またしばらく続けていたら、ゼロがたまに1になることがある。そうなった時、たった1だけれど、その1の分、余裕のようなものが生まれて、それが優しさや思いやりとなって行為することができる。そんなふうにアーサナが私の背後をしっかりと支えて、そうして支えられた行為は、相手に喜んでいただける行為となるよ」
娘 「はじめてアーサナの効果が分かった」

娘がすんなり納得したことに驚きました。これまで、何一つ伝えられていなかったけれど、やっと一つ伝えられたことに安堵しました。そして、体得したものでなければ伝わらないという事実でもありました。

私がこれまで行なっていたアーサナは形を真似たもので、体調を管理するために行なっていたように思います。しかし、オンラインクラス「アーサナの秘義」の受講をきっかけに、自宅でのアーサナでプラーナ(気)と背骨の関係を体感し、その日以来、アーサナの取り組み方が一変しました。
効果や変化が実感できなくても焦らないで、プラーナの働きを信じて、真摯に身体と向き合いながら、丁寧に行なうようになりました。すると、アーサナ中に必要なことが直感されるようになり、直感したことを実践すると驚くほど速やかに身体の状況が修復され、滞りがなくなり、さらにアーサナが深められるようになっていきました。

私が感じているアーサナの効果は驚くほどに広範囲です。日常の生活、仕事すべての行為が丁寧に感謝をもって行なうことができるようになります。これまでの価値観は一変し、上手くいかなかったことは、すべて自分の至らなさであると心から受け止め、自らを修正する力に注ぐことができます。が、しかしそこには多少、忍耐力が必要となります。その忍耐力さえもアーサナによって自然と培っていくことができます。

アーサナをすることによってヨーガの歩みは力強く加速し、自分の理想とする人間像を明確にし、それに向かって正しく努力できる叡知と方法が誰にでも開示されると確信しています。

私のアーサナを見守ってくれる大好きなシヴァ神。

山口正美


『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ①

今年の春の祝祭は、インドの聖者、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダに迫っていく内容になるとのことで、とても楽しみにしています。個人的にもこの機会にヴィヴェーカーナンダにもっと親しみたいと思い、本を読んでいます。今年のブログでは、『ヴィヴェーカーナンダの生涯』から印象に残ったエピソードなどから想像を膨らませてイラストを描いていく予定です。

今回は子供の頃のヴィヴェーカーナンダのいくつかのエピソードをイラストに描きました。可愛く陽気な性格で、エネルギーに溢れていた子供の頃のヴィヴェーカーナンダ。
ペットの牝牛や猿や鳩や孔雀を可愛がっていたそうで、それを聞くと鳥や動物に対する愛情を持ち、命を大切にされていたことを感じます。
またサードゥ(僧)が好きで、サードゥが施しを求めた時には、唯一の持ち物であった新しい腰布を与えてしまうほどでした。
母親から教わったヒンドゥの神々への愛を育み、子供の頃からシヴァの神像の前で瞑想を行なっていました。瞑想の最中にはしばしばこの世に対する意識を失い、ある時は、杖と水椀を携えた澄み切った表情の光り輝く人のヴィジョンが見えました。それはおそらく仏陀のヴィジョンだったと、後に思われたそうです。
この頃は眠りに入ろうとする時に、毎日不思議なヴィジョンを体験しました。目を閉じると、眉間に輝く光の球が色を変えながらゆっくり広がって、最後には全身に白い光を浴びせながら破裂するのです。この光を見つめながら徐々に眠りに落ちていきました。毎日のことなので誰にでも起こる現象だと思っていましたが、友人が、そんなのは見たことがないと言うのを聞いて驚きました。この光は、偉大な霊性の過去と生来の瞑想の習慣を示唆するものでした。

このように子供の頃から神を慕い、神との強い結びつきを感じさせるヴィヴェーカーナンダですが、恐れと迷信には我慢がなりませんでした。ある時ヴィヴェーカーナンダは友人たちと子供の悪戯で、近所にある木に登って花を摘んだりして遊び、その木の持ち主に注意を受けていました。それでも悪戯を止めないので、木の持ち主はこう言いました。「あの木を守っている白い着物の幽霊は、邪魔されると、必ず首をへし折りに来るんだぞ」
それを聞いて友人たちは怖がって木に近づくのを止めました。しかしヴィヴェーカーナンダはいつも通りに木登りを楽しんで、さらに枝を数本折るという悪戯をして、友人たちにこう言いました。
「君たちは何て馬鹿なんだ! ほら、僕の首はまだつながっているじゃないか。あの爺さんの話は真っ赤な嘘だ。自分が本当だと信じない限り、人の言うことを信じるな」

この単純にして大胆な言葉は、ヴィヴェーカーナンダが将来世界に発した次のメッセージを暗示するものでした。
「本で読んだからといって、信じてはならない。誰かが本当だと言ったからといって、鵜呑みにしてはならない。伝統的に崇められている言葉だからといって、信じてはならない。自分で真理を見つけなさい。解明しなさい。それが本当に理解するということだ」

子供の頃から深い洞察力を持ち、真実を見極めようとしていたこと、またそれを大胆に行動に移していたという、ヴィヴェーカーナンダの素晴らしい気質や探究心を知ることができるエピソードで、印象に残りました。

サルヴァーニー

 


円満であるために 〜献身奉仕の実践〜

人懐っこくて、誰とでもすぐに仲良くなれる。
周りをよく見ていて、困っている人がいたらさっと手助けする。
ナンディニーってどんな人?と聞かれたら、そう私は答えます。

ナンディニーがMYMのクラスに初めて参加したのは、2008年。
すでにMYMのクラスやサットサンガに参加していた友人から、「夢から覚めた人に会えた」と聞き、なぜかその言葉に感動し、嬉しくて涙が出たそうです。ちょうど心身ともに不調を感じていたこともあり、体調を調えたくてヨーガ・瞑想クラスに通い始めました。

元々、神さまのことを知りたかったナンディニー。祈りや信仰が確かにあるということを誰かに肯定してもらいたい、いつか信仰について誰かに教えてもらいたい、と思っていたそうです。
師の教えをまとめた『ヨーガの福音』を読み、信仰の大切さを知ることができた時、とても安心して、京都にいる師に会ってみたいと思うようになりました。

そして、2009年10月、師と初めてお会いすることができました。
マハーヨーギー・アーシュラマで師のお姿を拝見し、嬉しくてたまらなくなってニコニコしていたナンディニーを、師はしっかりと見つめてくださいました。その瞬間身体が熱くなり、その時は見つめられて照れたことで熱くなったと思っていたけれど、後に師から祝福を与えられたのだと思いました。
その後師にお会いするうちに、誰に対してもにこやかで優しく真摯に接されている師の周りは、いつも円満であることに気付きました。その境地に憧れ、目の前にいる人に寄り添い、その人が本当に必要なことができるようになりたいと思うようになりました。

 
ナンディニーの部屋にある祭壇

そんなある日、ナンディニーは「本当の献身奉仕とは何か?」を考え始めます。
当初は、「本当の献身奉仕」をするには自分を犠牲にしなければならない、義務のようなものだと感じていました。
しかし実践する中で、あらゆるものの中にある、真理・真実・神と言い表される純粋な存在が愛しくて、自らを他者のために捧げずにはいられなくなることが、「本当の献身奉仕」ではないかと思い至りました。

自らのエゴを一切なくして空っぽになることで、神への愛、信仰でいっぱいになる。そうすれば、純粋な愛そのものである師がなされていた、「本当の献身奉仕」ができるようになる。

そうなれるように、ナンディニーは日々実践を続けています。
長年続けているヘルパーの仕事においては、利用者さんのためにできることを行ない、家族に対しては介護や看護などを積極的に行なっています。

これまで以上に多忙な日々を送っているナンディニー。
「家族であっても他人であっても、同じように他者へ奉仕したい」
そう語る彼女は、以前よりもさらに人懐っこさがパワーアップして、目の前にいる人たちへの愛で溢れているように見えます。

それは、ナンディニーが憧れている円満な境地に向かって、一歩一歩着実に進んでいっている証だと思います。

 

ハルシャニー  


「カルマ・ヨーガ」に救われて

「カルマ・ヨーガ」という言葉を聞いたことはありますか?
カルマ・ヨーガとは、働きのヨーガを意味します。日々の働きの中で利己心を無くし、他者への献身奉仕によって神に至る道のことです。19世紀のインドの聖者、ヴィヴェーカーナンダによって世界に広められました。
『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』はヴィヴェーカーナンダが、1895年末頃にニューヨークで行なった講演をまとめた本になります。

ヴィヴェーカーナンダ 1895.New York.

私が初めてこの本に出会ったのは、2019年のことでした。ヨーガを始めて間もなく、研究者としてのキャリアに壁を感じ、悩んでいた時期でした。

「自分のいまの状態に対する責任は、自分にあります」

『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』 21ページ(版によってページが多少異なります)

ヴィヴェーカーナンダのこの言葉は、その時の私に落雷のように響きました。この言葉によって私は、その状況を受け入れ、前を向いて進んでいくことができました。そしてその後も、仕事で悩んだ時、何度となくこの本に救われてきました。最近もこの本に救われることがありました。

一昨年、私は5年間働いた大学院での研究職を辞め、企業に転職しました。その際、ヨーガと仕事のバランスをどう取るか悩むことがありました。「働く時間を減らし、もっとヨーガに専念できないだろうか」と考え、家族にもその思いを伝えました。しかし、家族の反応は厳しく、「父親としての責任を果たさないのであれば出て行ってほしい」とまで言われました。「なぜこの気持ちを理解してもらえないのか」と悩み、すべてを投げ出してしまいたい気持ちにもなりました。そんな時、再びヴィヴェーカーナンダの言葉が道を示してくれました。

「彼(家住者)はこれらのものを獲得するために奮闘しなければなりません――第一に知識、そして第二に富、それが彼の義務です。そしてもし彼がこの義務を遂行しないのなら、彼は何者でもありません。富を得るために努力をしない家住者は、不道徳です。もし彼が無精で怠惰な生活を送って満足しているなら、彼は不道徳です。幾百人が彼を頼って生活しているのですから」

「家住者は、生活と社会の中心です。富を得てそれを高貴な形で費やすのは、彼にとっては一つの礼拝です」

『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』52~53ページ(版によってページが多少異なります)

私はこの教えを胸に、仕事に向かう姿勢を変えていきました。アーサナや瞑想だけがヨーガではない、働くこともヨーガだと考えるようになりました。その際、結果に執着せず、自分の成果だと思うこともなく、すべてを神に捧げることが大切だと思っています。

また、師からかけていただいたこの言葉にも助けていただきました。お守りのようにいつも胸に留めています。

「本当のやるべきこと、生まれてきて本当にやるべきことはこれなんです。この本当の自分を実現することなんです」

「その上でこの世で培ったノウハウというか、個々人における得意な、あるいは関心の深いものは、仕事としてそれなりに従事していけばいい。あとはその仕事の内容を制御していくというか、もちろん全く手を抜いてさぼってしまうということではなくて、精度を上げて、その研究分野で集中を高めていくことによって時間の短縮も起こるでしょうし、またそれなりの成果も生まれてくると思いますし、結果、良い論文も書けていくのではないかと思いますから、その辺の整理をクリアにすれば、これから進めやすくなっていくと思います」

PARAMANHAMSA No.139 2020.5.20

この言葉は、2019年のサットサンガで、仕事の悩みを師に相談した時にいただいたお答えです。「研究こそ私の人生」と考えていた私に、人生において一番大切なことは、真理を実現することだと教えてくださいました。また、どのようにして仕事とヨーガのバランスをとるのかについても具体的に教えてくださいました。その後、6年が経ちましたが、師のお言葉通りの道を進めていることに、深く感謝しています。

私は今、企業の研究員として働きながら、家庭では父親としての役割を果たしています。家族や身近な他者に尽くすことは私にとってヨーガとなりました。自分が置かれている環境や周りの人々への感謝を忘れることなく、真理の実現に向けてヨーガを続けていきたいと思います。

昨年の6月に我が家に来てくれた、子犬のコパ君です。私も散歩係りとして頑張っています。

島本 廉


人は神になることができる

今年のバクティ・サンガムのシリーズでは、毎月様々なインドの神様を取り上げ、その神様にちなんだキールタンを歌っています。そしてもう一つの柱が、ヨーガを西洋に伝えたインドの聖者、ヴィヴェーカーナンダを取り上げ、彼の純粋な信仰と献身奉仕について学んできました。また彼のグル(師)を讃えた讃歌、「Achandalapratihatarayo」も、年間を通してずっと歌ってきています。

この歌は前半部分はとてもメロディアスで、後半はリズムがあり、また途中には楽器だけの間奏があったり・・・と、様々な表情をもつ歌です。歌詞が難しいこともあり、シリーズが始まった頃は、参加されている皆さまも、ずっと下を向き、歌詞カードを見ながら歌われていた方も多かったのですが、先日1月末のバクティ・サンガムの時には、ずいぶん歌詞とメロディーを覚えられたようで、顔をあげて歌われる方も多くなってきました。継続は力なり! 月一回でも少しずつ歌うことによって、とても安定して歌えるようになってこられていて、本当に素晴らしいなぁ!と感じました。

この歌は、途中で「naradeva」という単語を何度も何度も繰り返していきます。nara が人、deva が神という意味で、「人にして神である者よ!」という意味になります。この曲はキールタンとは違い、全体的に歌詞がどんどん変わっていく歌なのですが、途中から、naradeva という単語を、”これでもか!”というくらいずっと繰り返す部分が何か所かあります。歌の中で歌詞にできる文字量って限られていると思いますが、それでもこれだけの分量を割いて、ヴィヴェーカーナンダはこの言葉をこの歌の中に入れ込みました。

ヴィヴェーカーナンダは、師であるシュリー・ラーマクリシュナに出会い、薫陶を受ける中で、人は神のような存在になり得るということを目の当たりにして、本当に驚嘆し、歓喜したに違いありません。それはどんなに多くの聖典を読んだとしても、どんなに聡明であっても、実際に肉体をもったグルに出会わなけば、きっと知り得なかったことだと思います。

彼が少年のような眼差しで師を見上げ、敬愛し、生涯その御足下にひざまずいたその純粋な思いが、この単純な「naradeva!」という歌詞に凝縮されているように感じて、本当に感動します。バクティ・サンガムに参加されている方も、特にこの「naradeva」の箇所がお好きな方が多いようで、この部分を歌う時は、みんなの熱がこもっているのが伝わってきます。
4月に行なわれるサナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーでも、この歌を歌います。大勢の方とともに歌えることがとても楽しみです。

今回のバクティ・サンガムのシリーズは、次回の実開催2/23(日)(オンラインは3/2)で一旦終了となります。ご興味のある方は、ぜひご参加いただき、一緒に歌っていただければ嬉しいです!

ミラバイ