シュリー・マハーヨーギー/師の教えとサットサンガ」カテゴリーアーカイブ

『マハーヨーギーの真理のことば』第十六章「聖なる存在」

書籍発刊から1年が経ちました。章ごとにレビューを綴ってきたこのシリーズも、ついに最終章となります。
この本の編集に携わらせていただき、実は10年ほどかけて何度も内容に目を通してきたのですが、改めてこの章を開いた時、以前に感じていた以上の大きなものが訴えかけてくるように感じ、正直圧倒されました。

第十六章には、自ら具現された普遍なる真理を、人々に、この世界に分け与えてきたヨーギーや覚者、グルという存在の生き様がありありと語られています。偉大な存在の生涯や使命は、インスピレーションの源であり、それらに触れると強大な熱量のエネルギーが流れ込んでくるように感じます。
中でも多くの内容が編纂されているのがブッダについてです。
私たちの師は十代の頃、瞑想によってブッダの悟りと、ブッダその人そのものに肉薄されたといいます(→瞑想の章でも触れられています)。師の口からこぼれ出たブッダの心境や境地というものは、ただ史実として残されているという範疇を遥かに超えており、それはまるでブッダが語られているかのようでもあり、また、まさに師はそのようであったと、師のあり方そのものであると思えるのです。

ブッダは最後に、私は全てを教えた、これからは自らを拠り所として努め励めと弟子たちを導かれた。また一方で、「この世界は美しい」という言葉も残されたとされています。完全なる自由の境地に留まられていたブッダは、この限りある世界において何を見て、何を思われたのか。師はブッダの心境について次のように語られています。

近いところではシュリー・ラーマクリシュナの例がそうであったように、ブッダの生涯も、ただ人を救うためだけに充てがわれました。人の苦しみを気付かせ、そうして正見という正しい道に導くためには、苦しむ人と同じ立場で手を引かなければなりません。そうして四十五年間ひと時も休むことなく、ブッダは人、そして生きとし生けるもの全てを救い続けてきた。

ブッダとて肉体を持つ身、いつかはこの地上から離れなければならない。肉体の衣を脱ぐにはそれなりの理由が必要です。永遠の存在であったブッダもまた、その肉体は限界を持っています。彼はこの世を去るということを悟った時、もはや最後の教えは自らの死、そのものだったと思われます。それは生前教え続けてきた、人は誰もが死ぬということを改めて教えることです。しかし死ぬのは肉体だけであって、その存在が死ぬわけではありません。この崇高な不二一元の教え、これが最後に彼の口から漏れた「この世は美しい」ということになると思います。もはや苦悩も絶望も、希望も願望も何もない。たとえ時間がこの肉体を朽ち果てさせたとしても何も問題はない。だからこそ、その瞬間において彼はそう呟いたに違いない。それは生きとし生けるもの全てに与えられた、もたらされた祝福でした。

『マハーヨーギーの真理のことば』第十六章

不二一元――アドヴァイタ。ただ、一つのもの、真実のみが在る――。
人々の真の救い、理想となる永遠の真理を、ブッダは最後の最後まで、そのお体から離れることをもっても示された。
二千五百年という時を超えて、師が伝えてくださったかけがえのないメッセージであると、新たな気持ちで受け止めました。

アーシュラマ

第十六章の章扉前の写真(マハーヨーギー・アーシュラマ)

マードゥリー 


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑥

私が絵を描き始めたのは、ヨギさんにインドの細密画について教えていただいてからです。
最初はインドの細密画を模倣するところから始まったのですが、何枚か描いていくうちに、ヨギさんは日本にお生まれになり京都にお住まいなのだから、京都アーシュラマや日本を感じるような風景の絵を描きたいと思うようになりました。

そう思って描いた1枚が、今日ご紹介する『Paramahamsa』No.29の表紙絵で、この号には、2001年のサットグル・ジャヤンティーの模様が掲載されました。

 

そして、今年、2023年のサットグル・ジャヤンティー、師の御聖誕75周年祭はもう目前です。

私たち各国の弟子にとって、今年は大きな節目を迎えた年であり、来たるサットグル・ジャヤンティーは、私たちにとって意味深いものとなると思います。
たとえ師のお姿が見えなくても、師が目の前におられる時と同じようにジャヤンティーを迎えることができますように。

師はおっしゃいました。
アヴァターラがこの世界にお生まれになる日、全世界が祝福されるのだと。
この吉祥な日を、全員で歓びをもって迎えたい。
そして、師に出会えたことを、決して良き思い出として終わらすことなく、一人一人が師の教えを生き、師が示された真実を生き生きと表すことができるように、身口意をもって行為していきたい、そう思います。

シャチー


『マハーヨーギーの真理のことば』第十五章 宗教と社会

わっしょい!わっしょい!秋になると私の住む地域では子供達が御神輿を担ぎ、歩いて回ります。御神輿の上には神様が祭られていますので、宗教行事の一つと考えられます。その他に夏祭り、お盆、お彼岸、大晦日など、私達の日常にはたくさんの宗教行事があります。これらの行事の際、その意味が深く語られることは少ないですが、宗教は私達の暮らしの基盤となり、人生を豊かにしています。
その一方で、宗教が争いの原因となってしまうことがあります。宗教戦争で傷ついた人々を見て、悲しくなります。何か自分にもできることはないかと思いますが、個人として出来ることは少なく、無力さを感じます。一体私達の社会において宗教はどうあるべきなのだろうか?という疑問が晴れることはありませんでした。このような疑問に対して、『マハーヨーギーの真理のことば』には明確な答えが書かれてありました。
シュリー・マハーヨーギーは、宗教は本来人の心を慰安するものであるが、実際は神頼みのような現世利益を目的としたものから中には形骸化しているものもあり、自らの宗教の優位性を主張して対立を生み、人を束縛して苦しめる宗教ならば、むしろない方がよいとまで仰っています。
私はこういったすっぱりとした意見をこれまで聞いたことはなかったのですが、その通りだと思いました。しかし、人生の中では多くの苦悩があります。純粋に人を助け、争いを生まないのであれば、宗教はあった方がよいと思います。シュリー・マハーヨーギーはこの点についてこう仰っています。

本当の宗教というのは、永遠に壊れない、全ての中にある存在の真実のことをいいます。その尊い命を誰もが、万物が与えられている。それ自身それだけで尊いということを単純に知ることができれば、人はいがみ合うこともなく、争い合うこともなくなるでしょう。 

『マハーヨーギーの真理のことば』第十五章 宗教と社会 

これは、ヨーガの中心的な考え方であり、サナータナ・ダルマ(永遠の宗教・永遠の真理)と呼ばれています。アーサナや瞑想といったヨーガの修行法はこの真理を知るための方法です。既に宗教を持つ人も無宗教の人もヨーガ、真理を学ぶことができます。
世の中がどのような状況下でも、まずは一人一人が真理の教えを学び、現実社会の中でそれを実践する、自分を律していくことが大切なのだと私は思っています。それが周りに波及し、やがて大きく広がっていくと信じています。社会は一人一人によって構成されています。私がヨーガを深めることで、人としても成長し、周りの人達に自然と元気を与えられるようになれたらと思います。そのために、日々の生活における一つ一つの行いを大切にしていきたいと思います。

島本廉


『マハーヨーギーの真理のことば』第十四章「瞑想―実践編」


湖面のさざ波が月の姿を正しく映さないように、
私たちの心のざわめきが真実を覆い隠している。
ヨーガによって心のざわめきを静めたなら、
真の自己は自ら輝き出るだろう。

 

第十四章のページを開くと、上記の師のお言葉が目に飛び込んできます。
私は師にお会いする前に、マハーヨーギー・ミッションのホームページでこのお言葉に出会いました。まだヨーガも何も知らない頃でしたが、そのお言葉からしんと静まり返った寂静の境地を垣間見て、暗闇に光が差したような何とも言えない安堵感を覚えました。ヨーガによって心のざわめきが静まるということ、そうすれば本当の自分――真の自己が“自ら輝き出る”というところに希望を見ました。そして今も、このお言葉の示す境地に惹かれてヨーガを学んでいると思います。その状態へ至るための具体的な方法、ヨーガの本格的な中身、瞑想のその内容についての導きが第十四章にははっきりと示されています。

瞑想は人それぞれ違う景色が広がっているのかもしれないし、中身を確認し合うこともできない。だからこそ本当に瞑想を知っている方、ヨーガを成就されている方、悟りの境地におられる方、そういう方から瞑想のことを教えていただくのが、いちばんだと思ってきました。

今、師にお会いして瞑想のことをお尋ねすることはできなくなりました。でも、師は『マハーヨーギーの真理のことば』の第十四章に、とても細やかに、具体的に、瞑想についての手解きを遺してくださっているのでした。

第十四章は52ページもあり、おそらく一番ボリュームのある章です。「瞑想ーー実践編」なので、ヨーガの要の部分だと思います。とにかく一つずつ項目について記事が書けそうなほど(笑)一つの項目が濃いです。これは、一つ一つ、じっくりと自分が向き合って瞑想していく中で理解できることだと思いましたし、この章にはヨーガの秘義的な内容も含まれていると感じます。

瞑想の実践について、四つの節に分けて解かれています。

一節 「識別瞑想の実践」
二節 「死の瞑想」
三節 「真我への瞑想」
四節 「聖者・神への瞑想」

まず一節を読むと、瞑想がしたくなります。理由は、ただ読んでいるだけではそこに書かれていることを十分に理解できないからです。自分が識別瞑想に取り組まなければ、とらえることができないような微妙なところが書かれているからです。

この複雑な迷路のような心の状態のことや、心の性質や、この世の正体、世界の理(ことわり)について、ものすごく分かりやすい言葉を使われて、具体的に解き明かされ導いておられる師の存在には、今更ながら本当に驚愕しました。とても本格的な内容なので、もしかしたらすぐに分からないこともあるかもしれません。そういう場合は、「瞑想――基礎編」の第十三章に戻ってから第十四章を読むことをお勧めします。私もすぐに分からないことが多かったので何度も十三章に戻りながら十四章を読みました。二節、三節は、こんな貴重な深淵な内容を公開してもいいんだろうか・・・と思うくらいの唯一無二の内容です。

十四章の中で特に私が何度も読んでしまうところは、四節「聖者・神への瞑想」です。人によって違うとは思いますが、私は瞑想をする時は自分の理想の姿、つまり聖者や神のお姿に瞑想することがほとんどなので、四節の内容は、とても分かりやすく大きな道標、導きとなっています。

そして何といっても、四節には師ご自身がブッダに瞑想された内容が記されています。なかでも特別に感じている項目は「ブッダその人のハートに集中する」。ブッダがどういう人であったか。師のお言葉を読んでいると、もう師そのものじゃないか・・・と思えて仕方ありません。師のお言葉は本当に不思議なのですが、聞いていると自分も瞑想しているような感じになり、師のお言葉に自然と導いていただけます。

最後に「ブッダその人のハートに集中する」より、師のおことばをご紹介いたします。

 ・・・ブッダという言葉と彼が生存していたシーンに瞑想していきました。
時間と空間を超えて、昔のブッダの時代に集中していった。
そして瞑の中でブッダは本当に最低限度の布を纏(まと)っている姿で佇んでいた、座っていた。
そして朝が来たら徐(おもむろ)に起き上がり、托鉢に歩く。
そしてまた座る。
そして時には多くの弟子や信者たちに教えを授ける。
そういう姿が毎日毎日続いていた。
弟子や信者たちはいろんな質問をする。
そしてブッダはそれに相応しい助言を与え、答えを導き出す。
それを聞いた、教えを授かった弟子たちは皆、とても霊的に引き上げられた。
ブッダを思うと、ブッダの五十年近い教えの姿は何も変わらない。
ブッダそのものは五十年間近く全く同じ姿、同じ境地。
彼は本当に真実の、永遠の存在であった。
そして彼自身が様々な瞑想で得た答えが多くの人に与えられた。
それがブッダの教えというもの。
だからブッダを瞑想する時には、ブッダその人のハートに集中していけばいいと思うよ。
この世界がどんなに変化しようと、いろんな人がいろんなことを言っても、
ブッダは全く乱れることはない。
ずーっと同じ。
それこそが、それが真実の存在の至福にあったということです。
そしてブッダの教えの究極は、「あなたもそれである」ということです。
そう、あなた方一人一人の本当の姿は永遠の存在であり、至福なのだということです。


『マハーヨーギーの真理のことば』

 

ナリニー


ヨーガ・トークス in 東京

先日、東京特別バクティ・サンガムに触れたブログがアップされました。
バクティ・サンガムの後にはヨーガ・トークスも開催されたので、今回はそのことに触れたいと思います。

ヨーガ・トークスには、15名が参加。バクティ・サンガムの講師のミラバイさんを囲み、午前中に開催されたバクティ・サンガムの感想を話すことから会が始まりました。
ミラバイさんと共に座っているだけで、そのプラーナに触れて心が安定するような感じがしました。

ミラバイさんは一人一人の話を真剣に聴かれていました。

発心が揺らぐ場合はどうすればいいのかという質問に対しては、何度も立ち返ることで発心が強くなっていく、と答えられていました。
ヨーガに生きようと覚悟して実践しても、ヨーガではないことをついやってしまう、という悩みに対しては、ヨーガは〇〇をしてはいけない、と制限しているわけではないけれど、それに執着していないかどうかが大切、と話されました。
質問した人はミラバイさんの言葉を聴いてすっきりした表情になったり、笑顔になったり、それは師の元でサットサンガに参加しているのと全く同じでした。ヨーガを学び始めたばかりの人も、久しぶりにヨーガに触れた人にも、それぞれに感じるものがあったかと思います。

私が一番印象に残ったのは、師についてミラバイさんが語られたことです。

グルバイの1人が師のことを話しました。
師がお隠れになった翌月の弟子のサットサンガで、最後にストートラムを歌った時、人の姿をとられたヨギさんにストートラムを捧げることができたことが、いかに吉祥なことであったかを思い知ったと同時に、絶望感、喪失感に苛まれた。

話を聴き終えた後、ミラバイさんはこう仰いました。

師は「存在」という言葉をよく使われた。
存在とは、あったりなかったりするものではない。
目に見えていても見えなくても、確かにあるものを存在という。
師は、真実の存在そのものだった。ということは、師のお姿が見えなくなったから、師は存在しなくなった、とは言えない。
私たちはまだ本当の師を知らないと思う。いつか本当の意味で、師にお会いできるようになりたい。そして私たちが今できることは、師の存在と教えを残して、一人でも多くの方に伝えていくということ、そのために自分ができることを行為していきたい。

一言一言を丁寧に語ってくださる声は、耳から入ってきているのだけれど、直接胸の中に響いてくるようでした。
そしてその目は、真っ直ぐ師を見つめられているように感じられました。
話の内容だけでなく、ミラバイさんの身体全体から力強く伝わってくるものがあり、私もそうありたいと強く憧れる思いが溢れ出てきました。

自分の中にも確かにある真実の存在を信じ、真っ直ぐに師だけを見て、師の教えを生きていきたい、と決意を新たにしました。

 みんな良い笑顔!  

 ハルシャニー  


『マハーヨーギーの真理のことば』第十三章 瞑想ーー基礎編

私は10代の頃から「早く落ち着きたい」と口癖のようにしょっちゅう言っていました。自分はただ落ち着きたい願望が強いタイプだと思っていましたが、ヨーガに出会い、「自分の中に真実(神)が在る」という教えを知り、「落ち着きのない心が静まってわだかまりのない心境になることで、自分の中に在る真実(神)が自ずと顕れてくるのか」と妙に納得しました。ずっと感じていた落ち着きたい願望は、「自分の中に在る真実(神)を無意識に求めていたからだ」と気付き、嬉しくなりました。そしてそれを実体験したいと思い、瞑想を始めました。
瞑想における心とその奥に在るものについて、『マハーヨーギーの真理のことば』第十三章 瞑想ーー基礎編に説かれているので引用させていただきます。

瞑想の実際的な面として、座って息を調えて心を落ち着かせる、これも簡単な瞑想の一つになりますけれども、経験すると、少々普段の活動とは違う心地良さが伴ってくると思うのです。その心地良さがどこからくるのか、これは私たちの本質として、心の潜在下、奥の方にはもう既にその心地良さのような状態、平安な状態があって、逆説的ですけれども、普段は心の表面の活動によってその平安な状態が現れないでいる。日常の様々なことや行動、あるいは心の様々な想念によって搔き乱されてしまっている。ですから息を調え、静かにすることによって、その上辺の活動が静まって、本来の静けさが現れてくる。

「自分の中に在る真実(神)」に触れたいと瞑想を始めましたが、集中力のなさ、また座法の不安定さに苦労しました。それでも自分の内面を見つめようと努力することに安らぎを感じ、とにかく毎日瞑想するようにしていると、不思議と日常で自分を見失うことが減っていきました。またやり続けていく中で、座ると自然と心が静まることが増えていきました。

ただ、毎日の瞑想が習慣付いてくると、瞑想を深めていく難しさを感じ、それには根気強くこつこつやり続ける熱意が必要だと感じました。そのような時、師は力強く励ましてくださいます。

サマーディは必ず訪れます。それを聖典の中だけの話だと思わないでください。熱心になることです。それだけが必要です。それを十分に準備するためには真理を学び、それだけを求めなければならない。自分は何者なのか、誰なのか、あるいは完全なる存在としての神、そのどちらかに集中していくなら、心の中にあるそれ以外のものは取り除かれていきます。
覚者の命の言葉をよく学んでください。更には、その覚者たちは私たちと全く同じ体を持っていたということを忘れないでください。その具体的実例が、無知とエゴという名の敵に勝つための私たちの最も強い味方であり、武器です。学び、考え、そして瞑想。そして、あなた方は真理を実現するでしょう。
【注釈:サマーディ 三昧。心が消え、対象のみが意識面にある状態】

師はご自身を通して、サマーディは本当に在ると私たちに見せてくださいました。師のお言葉、行為、1つ1つが真実の現れそのものでした。師が与えてくださった大きな導きは、たとえ師にお会いできなくても、この『マハーヨーギーの真理のことば』を通して感じ取ることができます。そして師の境地への憧れが、瞑想への情熱の支えになります。師が与えてくださった大きな祝福に感謝し、これからも熱心に瞑想を実践していきたいと思います。

 

船勢洋子


『マハーヨーギーの真理のことば』 ~第十一章 真の愛

「恋は盲目」という言葉がありますが、周りのことなんて一切目に入らなくなるほどその人のことが好きで好きで、朝から晩まで寝ても覚めても、気が付けばその人のことばかり考えている……。そんな経験がある方はいらっしゃいますか?(私はあります!!)
たとえばそんなふうに神を一心に愛し、神と一つになろうとするヨーガをバクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)といいます。

師シュリー・マハーヨーギーに出会うまで、私はバクティ・ヨーガについて何も知りませんでした。師の下でヨーガを学ぶようになってしばらくたったある日、東京の自宅で瞑想中に師のヴィジョンを見るということがありました。驚いた私は京都にいる師を訪ね、そのことについてお話をしました。その際に「あなたはバクティ・ヨーガが向いているかもしれませんね」と言われたことがきっかけとなり、私はバクティ・ヨーガを一から学ぶことにしました。
初めは神を信仰の対象とするだけでなく人間のように愛するなんて!?と困惑し、どうしたら神を人間と同じように愛することができるのだろう?と、正直戸惑いました。
ところが、マハーヨーギー・ミッションのバクティ・サンガムに参加して、キールタン(インドの讃美歌)を歌ったり、インドの神や聖者のことを学び、また自分でも聖典を読むうちに、知らず知らず私はクリシュナという神に強く惹き付けられ、まるでクリシュナ神の神秘力によって絡め取られるように恋に落ち、気が付けばクリシュナ神を心から愛するようになっていました。今、思い返しても、その経緯は不思議としか言いようがありません……。

『マハーヨーギーの真理のことば』の中に、まさにその時の私の状況を表したような箇所を見つけました。その一部を抜粋してご紹介させていただきます。

バクティ・ヨーガというのは、単純に神を好きになることです。好きになること、そして神に語り掛けることです。ちょうど恋と似ているというふうにいわれる。好きな人が現れたら、やっぱり近づきたいと思うだろうし、話したいと思うだろうし、そのような行為を積極的にしていくよね。その人のことで心がいっぱいになってきたら、他のことなんてもうどうでもよくなる。その人だけが全てになってくる。バクティ・ヨーガというのは、ちょうどそんな感じなの。
本当に、狂おしいほどの情熱というか、神への渇望がそうさせるのです。

『マハーヨーギーの真理のことば』第十一章 第一節/ 神への渇望 より抜粋

愛は誰もの胸の中に既にあります!神を渇望することで、その愛を大きく大きく育てていくことができます!
私自身、もっともっと神への愛を純粋にし、美しい愛の花を神に捧げることができるよう心から願っています!!!

太陽を見つめ、まるで太陽を真似ているかのような姿のヒマワリ。私もヒマワリのようにいつも神だけを求め続けていたい。

シャルミニー


『マハーヨーギーの真理のことば』第十章 奉仕と献身の道

「人には親切でありたい」「困っている人がいたら助けたい」 一見当たり前のことですが、常にそうあり続けることはとても難しく感じます。例えば、自分の心身が疲れて余裕がなかったり、また相手が苦手なタイプの方であったり、それだけですぐに人を思いやるどころではなくなります。師シュリー・マハーヨーギーと出会う以前の私は、それは人間の性なのだからしょうがないと思っていて、そんな自分に対してもこの世の中に対してもうんざりしていました。そんなこんがらがった心模様を師は一掃し、希望の光を見せてくださいます。『マハーヨーギーの真理のことば』第十章より引用させていただきます。

エゴと無知がある限り、私たちがこの世で生きている時には他者を犠牲にしている。他者を犠牲にしながら、そして自分だけ良くあろうと、自分のために他者を犠牲にするというのが一般的なあり方です。これは今も言ったようにエゴと無知がそうさせているわけで、他者を傷つけて、あるいは犠牲を強いていても平気なのが無知。
でもヨーガを深めていった時には、他者ではなくて自分のこの体と心を犠牲にして、他者のために行為することができる。自分を犠牲にしようとか、するとか言っている間は、まだ本当の自己犠牲はできないかもしれない、それもまだ訓練中かもしれない。出来上がってしまえばもう何の計らいもなく、極めて自然なかたちで他者のための行為だけが為されていくようになる。

師の教えに触れ、生き方を変えたいと願いカルマ・ヨーガ(献身奉仕のヨーガ)に取り組むようになってから、奉仕にそぐわない自分本位な思いが心に湧くとそれに気づくようになりました。湧き出た思いを振り払い、とにかく奉仕の実践に沿った言動を行ない続けます。それは1日1日が地道な努力の連続です。それでも師のお言葉が困難を超えていこうとする力を与えてくださいます。

ただ、本当に百パーセント全身全霊でもって他者だけを見つめること。自らを顧みるとか、自らのことに気付くような一パーセントも持ち合わせていない。
奉仕におけるヨーガにおいては、他者の中に神を見ること、ただそれだけです。単純だけれど、その思いで心を満たしておかなければ、またできないことです。

師のお言葉からは、その背後にある相手を思いやる優しさや限りなく大きな愛がひしひしと伝わってきます。この本(『マハーヨーギーの真理のことば』)全体を通して全てのお言葉が、相手のために、相手の立場に立って、相手に伝わる話し方で語られていて、そこには師ご自身の自分の都合は一つも見つけられません。師が自らの身をもって本当のカルマ・ヨーガのあり方を見せてくださっているのではないでしょうか。

奉仕への取り組みはその人を自分中心のむなしい生き方から引き離し、神様だけを見つめて生きる機会を与えてくださいます。それはこの世の中で何よりも幸せなことなのだと思います。そして師のお言葉が道を指し示してくださいます。どんな状況の中でも他者の中に神様だけを見つめて、よりいっそうカルマ・ヨーガに励んでいこうと改めて決意させていただきました。

船勢洋子


『マハーヨーギーの真理のことば』 第九章 大宇宙と小宇宙の神秘

私はヨーガを始めてまだ数年の初心者です。ヨーガの教えは、聖者・覚者によって見出された叡知であり、目から鱗が落ちるようなものが多く、学ぶのがとても楽しいです。今は、シュリー・マハーヨーギーへの質問と答えがまとめられた『マハーヨーギーの真理のことば』を読んでいます。シュリー・マハーヨーギーのお話は自らの経験に基づいており、とても説得力があります。また、対話形式で書かれていて、とても読み易いです。
今回はこの御本の第九章をレビューさせていただきます。

第九章は「大宇宙と小宇宙の神秘」というタイトルとなっています。ヨーガでは、物理的に存在する宇宙を大宇宙、それに対して私達の身体のことを小宇宙ととらえています。私は瞑想中に、自分の中に内なる世界が広がっていることを感じることがありました。小宇宙という言葉を聞いた時、本当にその通りだなと思いました。

さて、この章の中で私にとって最も印象的だったのは、大宇宙と小宇宙の一致(梵我一如)の部分です。
私が梵我一如という言葉を知ったのは高校生の頃で、教科書にこのように書いてありました。
「ウパニシャッド哲学では自己の本質であるアートマン(我)と宇宙の理であるブラフマン(梵)が一体であるという真理(梵我一如)を悟ることで輪廻転生から解脱できるとされる」
言葉の雰囲気にとても惹かれたのですが、意味は分からないままでいました。

シュリー・マハーヨーギーは、梵我一如について、このように説明されています。

サマーディ(三昧)においては、いわばその物質的な粗大な局面から、より微細な原因体の方に心が移行していくことになる。そうするとその大宇宙と小宇宙を造り出した原因というのは同じということになってくるので、そこでの物理的な空間の大きさとか量とか時間とかいうものが消滅してしまうということになる。そういう中でより深まっていけば、その根源的な宇宙と万物の展開を始める原初体のようなところに入り込んでしまう。するとそれは二つとないものとして、体感することになるのです。相対的な大宇宙、小宇宙というふうに物理的な条件を伴った観念がそこにある以上は、大宇宙と小宇宙の一致とか一体というような表現になるだけのことです。要は宇宙万物の根源にサマーディは連れていく、あるいはサマーディの中でそれを体験するということです。

なるほど、梵我一如とはサマーディの中で体験できるもの――では、サマーディとはいったいどのようなものなのでしょうか? 興味はつきません。

第九章にはその他にも、プラーナーヤーマ(調気法)、クンダリニー(根源力)、シュリー・ヤントラ(象徴的な真理の図象)、宇宙開闢(かいびゃく)論など、ヨーガの生理学と宇宙観に関する興味深い内容が、数多く取り扱われています。
ぜひとも読んでみてください。きっとヨーガの理解が進むと思います。

右は『マハーヨーギーの真理のことば』の表紙、左はシュリー・マハーヨーギーの描かれたブラフマーンダ(ブラフマンの卵)。ヨーガでは、宇宙が始まる前、有もない、無も無い時、そこから宇宙が生まれ、そして万物、万象が展開していったと語られています。ビッグバンが発見される遥か昔、太古の昔のヨーギーが、宇宙の始まりを直観していたことに感動します。

島本廉


『マハーヨーギーの真理のことば』 自分の一生は自分で生きる

子供の頃から我が家にはいちじくの木があった。母が養女としてこの家に来た時に、庭に好きなものを植えたらいいと養父が言ったので、好物のいちじくの苗木を植えたところ、いちじくはだめだ、根が強く他の植物をダメにしてしまうと引っこ抜かれてしまったそうだ。しかし母はその苗木をこっそり家から離れた小さな畑に植えた。養父は数年後に亡くなり、母はやがて結婚し、子供を育てながら、丹精込めていちじくの世話をして、毎年夏になると鈴なりに実がなった。家族だけでは食べきれず、好きな方に差し上げているうちに、甘くて美味しい、販売して欲しいと声が上がり、軒先で売ると、毎朝買いに来られる方が増え、口コミで遠い所からも来られるほど、評判となった。

風邪も引いたことがないと健康を自慢していた母であったが、思いがけず病を得た。手術と治療を繰り返し、なんとか日常生活を送っていたが、病状が進み、最期の2年ほどは坂道を転げ落ちていくように急速に悪化した。それでも母は最後まで前向きに生きた。大切に育てた畑を見るのが何より大好きで、私は週末になると母を車椅子に乗せて畑まで行った。いちじくの世話は父と姉夫婦が受け継ぎ、親木から挿し木をして子供の木も育てた。亡くなる2ヶ月前の6月には、親木も子供の木も立派な葉をつけているのを見て喜んでいた。母がいちじくを愛でたのはそれが最後となり、8月に旅立った。
その1年後、去年の夏の終わりのこと、雨の多い夏となり、例年より少し時期が遅れ、9月の初めになって実をつけた。そんな朝、前日まで青々とした大きな葉を伸ばしていた親木のいちじくが一夜にして実だけ枝に残して、全ての葉を地に落とし、寿命を全うした。この2回の夏に私たち家族は母といちじくの、二つの魂を見送ることになった。

愛する存在の死は悲しい。この上ない苦しみである。苦しみを乗り超えるために私は言葉の通り七転八倒した。そしてやはり最後にすがるところはヨーガだけであった。
死を理解することは今の私には難しい。それなら必死に生きようと思った。そして私は今、真理のことばに支えられて生きている。

問題は、一個人として自分はどう感じるのか。
どう生きたいのかを自分自身に問うべきです。本当の自由が欲しいのではないのですか。本物の幸せを得たいのではないですか。
真実在というべきその存在が自らの中に在ると教えられながら、
どうしてそれを探そうとしないのか。
この単純な問い掛けを自分自身に真剣に為すべきです!
それ以外の想念は全て、単なる情報の影響にすぎません。
そんな影響の渦に巻き込まれて、自らを失いたくはないでしょう。
自分の一生は自分で生きるのです!

『マハーヨーギーの真理のことば』 第八章 実践の秘訣 より

母といちじくが自らの人生を見せてくれた。そのことに感謝して、私も自分の人生を生きたいと思う。それがヨーガとなったら本望だ。
そして今年も我が家のいちじくが大きな葉を広げて甘い実をつけるのが楽しみだ。

サラニー