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途切れない集中力

花盛りになったヒオウギ

花盛りになったヒオウギ

6月、京都市内へ出かけたお昼時のこと。コロナ禍で外食はやめていたので鴨川の河川敷で一緒に来た相手と横並びで、パンをモグモグモグ・・・。すると「バサッ!!!」二人の間を野球の球(?)が通過し何かに当たったような風圧と衝撃。「何!!」事態を飲み込めず一瞬唖然としました。あれ?でも二人ともどこも痛くない、無事。ん?・・・相手が手に持っていたはずのパンが忽然と姿を消していました。魔法・・・ではなく、正体は鷹。0・1秒くらいの一瞬のうちに、はるか上空から急降下しパンをさらっていくと同時に猛スピードで上昇していったのだと思われます。すべてが瞬間に行なわれた御業だったので人間の私たちには、まるでパンだけが消えた魔法のように見えた華麗な技でした。

ちなみに私はパンを食べ始めた時から、大空で彼らが風に乗る凧のごとく悠々と飛んでいる動きには注力しており首が痛くなるほど上を気にしていました。にもかかわらずです。鷹は、あんなに高い上空で旋回しながらも、実はじわじわと的に狙いを定め集中状態を極めつつ頂点に達した時、今だ!!と勝負に出たのでしょうか・・・見事な一点集中と正確さにシビれました。しかも側面からの攻めではなく、私たち二人の間、ド真ん中の背後からの攻めでした。決してボーっとしていたわけでも静止していたわけでもありません。なのに一ミリたりとも人間の体は傷付けることなくパンだけに的中したことがカッコよすぎました。はるか上空の鷹をポカンと見つめながら、あの集中の塊のような風をしばらく忘れることができませんでした。

7月。京都の祇園祭

7月。京都の祇園祭

そんな衝撃的な(笑)出来事から月日は経ち、今月の瞑想専科クラスのテーマは「ブッダの生き様」でした。講師のヨーガダンダさんがブッダのお話をされ、最初にまず10分程度、皆それぞれにあるブッダのイメージをもとに瞑想しました。その瞑想の後ヨーガダンダさんは、かくも穏やかで柔和なブッダが、どうして大勢の人々を導くという大きな活動をすることができたのでしょうか?と素朴な問いを投げかけてくださいました。そして、覚者や聖者のことを考えていった時、なぜこうなんだろう?と感じる気付きが起これば、そういう時こそ、それは瞑想のポイントになる、そこを深堀りして集中していけば何かしらブッダの心境に迫っていけるものがあるかもしれない、と言われました。「なぜ?」「どうして?」という疑問が大事な気付きになるのか・・・とそのお話は印象に残りました。

その後も、師がブッダに瞑想され一(ひとつ)となられた時のことや、ブッダのエピソード、臨場感に満ちたヨーガダンダさんの様々なお話によって、私たちの胸にブッダの印象がたくさん刻まれていきました。
二回目の30分程度の瞑想の時、次はそれぞれがもつブッダのイメージの、そのどこからでもいいので、とにかく素直にブッダの心境、本質に迫っていける瞑想をしていただければと思います、と言われました。「『この時のブッダの心境はどうだったのだろう?』と考えてみるとか」とヒントも。

今回クラスの前には、『ヨーガの福音』の「真理」の章を読んでおくことになっていました。私はその中の師のお言葉――「彼(ブッダ)の教えの特徴の一つは、『小さな虫も人間もすべては仏性を有した尊い存在であり、一切万物は平等である』というものです」――この一文に心を捉えられていました。もし、本当に虫と人間を全く同じように等しく見て、同一の尊さを見ることができたら・・・「一切万物は平等」という教えを完全に会得できたら・・・これはもう凄いことだな、としみじみ思ったからです。それが私の憧れる境地でもあるからです。
だから二回目の瞑想は、ヨーガダンダさんのアドバイス通り、ブッダのこの教えに素直に瞑想してみようと思いました。すると、あるブッダの姿が浮かんできました。

ブッダの前に一羽の鳩がいます、その後ろには鳩を狙っている大きな鷹がいます。鷹が猛スピードで鳩を追いかけ襲おうとしたその時、ブッダが鳩を助けるために自分の太ももの肉をナイフで切り裂いて鷹にあげました。(※後で調べたところ、このお話はシビ王というブッダの前世の菩薩のお話でした。私はブッダのお話だと思い込んでいたのでした。)私には先月の衝撃的な出来事があったので、すぐさま鷹のあの並外れたハンター能力、瞬発力、集中力が風とともに蘇り、狙われたら絶対に逃れられない!そんな鷹から鳩を助けようとするブッダが無謀だと思ってしまいました。どうしてそんな無謀なことできたのか?どうして自分の肉体を切るなんて痛いことできたのか?私には絶対にできない、できない、したいけどできない、と思えば思うほど、「どうしてブッダにはできたのか?」とそこから離れられなくなっていました。

瞑想とは言えないかもしれませんが、それでもその場面をじっと見ているうちに、ブッダが鳩のことも鷹のことも全く同じに見ているその感じが伝わってきて、ブッダは鳩だけを救おうとしたのじゃない、ブッダは鳩も鷹もみんなを救うことしか考えてなくて、お腹を空かせている鷹に、即座に食べ物をあげられる瞬時の判断がそれだった、と思いました。どうすれば目の前のすべての尊い命が助かるのか、それだけに集中されている、だから自分の太ももを切るのが痛いとか怖いとか、そんなこと一切見てない、目的だけに狙いを定めて一点集中されている、だから犠牲という思いすらない、だからそんなことができた、ブッダの中の凄まじい集中感を感じた気がしました。まるで師だと思いました。

ブッダについて考えていたはずがブッダは師のお姿に変わり、師、ブッダ、鷹、それぞれの途切れない集中感に圧倒されました。ブッダは太ももの肉を切って鳩と鷹を助けたけれど、師は目には見えないだけで全く同じようにご自身の身を削り命あるものを救済されている、師の決して途切れることのない集中によって私たちはどれほど命を生かされているだろうかと、そんな思いでいっぱいになりました。 自分の志、人生の目的、その対象への途切れない集中だけが、不可能と思えることも可能にしてくれる。信仰心も、対象への集中が途切れない状態のことだと思いました。集中が途切れた途端、恐怖や不安や余計なものに惑わされる。

的を射るには、的だけを見なければいけない」と師が仰ったことがあります。自分は何に集中して、何に突き動かされて、何のために行為するのか?
あの鷹のように真実への一点集中で生きていきたいと思いました。ブッダと鷹が教えてくれたことでした。  

神の化身・・・

神の化身・・・

野口美香 


ヨーガの料理 さまらさの台所 動画クラス紹介!

まずは動画をご覧ください。


3月「啓蟄」から始まった動画は、現在「大暑」まで10個の動画が公開されています。次回は暦の上では秋「立秋」。残り14の動画を公開していく予定です。

動画を作りながら、季節が24節気に沿って変化してくことを肌で感じています。例えば4月5日から始まる「清明」の頃には明るい春の日を受けて草木が芽吹き、桜が咲き誇ります。晴れる日が多く大気の中にも新年度にふさわしい清らかさがありました。
続く「穀雨」の頃には文字通り雨が降る日が多くなりました。この頃に降る雨はこれから育つ穀物を潤し育てるという意味があると初めて知り、これまで雨の日の出勤は億劫に思えていましたが、穀物のためだと思うととても愛しく思いました。5月21日から始まる「小満」の頃には、気温が徐々に上がり、自然界にある草木や食物、大気が満ち満ちてくることを感じました。

外側にある世界だけでなく、私自身の体の中に同じように変化があり、外と内が同じであると感じることが増えてきました。季節の移り変わりに沿って自分の体を調えることは至極当然なことだと改めて感じます。その時期に旬を迎える食物を丁寧に調理し、大切に味わうことで自然の中に自分が生きていることを実感していただけると思います。最後に動画でも紹介していますが、これまで紹介してきたメニューを載せておきます。

啓蟄 揚げ出し豆腐とそのアレンジ
春分 新玉ねぎのマリネと小豆ご飯
清明 ふきの信田巻き
穀雨 春野菜の竜田揚げ
立夏 初夏のブランチ(えんどう豆のポタージュ、プレーンオムレツ、春野菜のパスタ)
小満 新じゃがいものアレンジ(ガレット、フライドポテト、スコップコロッケ、味噌煮)
芒種 夏野菜と豆腐のステーキ
夏至 夏の飲み物いろいろ(梅ジュース、ジンジャーエール、甘酒)
小暑 完熟トマトとナスのパスタ
大暑 夏野菜のピザ

https://www.mahayogi.org/samarasa/samarasa2022


ヨーガ・アーサナの力 その2〜呼吸を変える!

今夜から明日にかけての満月はスーパームーンらしいですね。インドでは7月の満月の日は、グル・プールニマといわれ、師に感謝を捧げる、とても吉祥な日だそうです〜。

さて、前回はアーサナの役割や位置付けについて書かせていただきました(→「アーサナは瞑想のためにある」)。今回のテーマは「呼吸」についてです。

皆さんは普段、ご自分がどのような呼吸をしているかを感じながら過ごしておられるでしょうか? あまり認識していないというのが通常かもしれませんが、もしかしたら意識しているという方もいるかもしれませんね。

呼吸と心がとても密接な関係にあるということは、ヨーガの大きな発見だったそうです。私自身はアーサナを始めて呼吸について学ぶようになって、普段の呼吸も意識するようになりました。すると、焦ったり、イラッとしたり、気持ちが高ぶったりしたような時には、心臓の鼓動とともに呼吸も、あっ、すごく早くなっているな、反対にリラックスしている時は呼吸もゆっくりしてるな〜と、なるほど(!)確かに連動しているということがわかってきました。

現代では医学的にも、深い呼吸<腹式呼吸>によって自律神経の働きである副交感神経が優位になり、心身ともに落ち着く、また浅い呼吸<胸式呼吸>はストレス、緊張、興奮時に働く交感神経が活発になるということもいわれています。
古(いにしえ)から呼吸と心の繋がりを解き明かしてきたヨーギーたちはスゴイなあと思います!

呼吸も心も、乱れてしまった時は落ち着けようと思っても制御困難です。しかし、アーサナの実践によって制御可能になっていきます! 特定の形(ポーズ)を作り、身体を静止させた中で呼吸を調律していくことによって、深く安定した呼吸のリズムへと変化させることができるのです。「アーサナは鋳型に押し込めるようなもの」と師は言われます。日常生活の姿勢ではなかなか難しい呼吸の制御が、一見窮屈な閉じ込められた形態の中でこそ制御できていくという感じでしょうか。
そのように呼吸が変われば、心も平静に保つことができ、日々降りかかってくる、心を刺激する様々な出来事の影響を受けずにいられるようになっていきます。これは本当に、驚くべきアーサナの力だと思います! もちろん、1日、2日ではムリですが、何カ月か続けたら、法則のようにやった分、必ず効果として自分に返ってくる、ヨーガの恩恵だと感じます。

あれっ?! いつもだったらもっと動揺していたのに、巻き込まれずに冷静に対処できているな、あれっ?! 今日は腹立たないな、というふうに心の暴走にブレーキがかかる、反応がすっかり変わる、そんな変化が感じられたら嬉しくなりますよね♪

バンビオクラス会場

長岡京の会場 夜クラスの始まる前
大きな窓から見える開けた空が清々しい。

そういうわけで、アーサナの実践においては呼吸がとっても大切です。基本は「吐く息を長く伸ばして完全に吐き出す」ということ。
クラスに通い始めて間もない頃は、特に苦手なポーズは呼吸がままならず、吐く息を長くするどころか、まるで走っている時の呼吸のようにハアハアしてしまい、早く戻させて〜っと思いながらひたすら耐えていたものです(泣)。そんなスタート時を思えば、劇的に呼吸は変わっていきました。3カ月?ほどした頃に変化を感じ、1年、2年……10年……と実践を重ねていくことでまた違った体感が生まれました。

最初は身体への刺激を強く感じますが、慣れてくると呼吸に意識を向けられるようになっていきます。やがて吐く息がすーーーっと伸びていき、力まずに吐き切れていく感触が掴めてくる。さらには、だんだんと吐き切った後にしばらく呼吸が入ってこない、自然に止まったかのような状態が訪れます。そのように深まっていくと、アーサナ後、瞑想に座った時には呼吸の出入りがより微かになり、心が静まった感覚を得られるようになると思います。

気が動くと心も動く。気が動かなければ心も動かなくなる。
(『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』より)

*「気」とはプラーナの訳語であり、プラーナは生命エネルギー、宇宙エネルギーともいわれる森羅万象を支える力のこと。プラーナの最も大きな現れが呼吸といわれる。

ヨーガの修練には、プラーナーヤーマという呼吸法/調気法もあります。(指で鼻腔を押さえ)呼吸をコントロールし、呼吸すなわちプラーナ<気>の停止によって、心を不動の状態へと導くものです。
有名な映画(『グラン・ブルー』)にもなった素潜りの記録をもつジャック・マイヨールという方は、そのヨーガの呼吸法を学んでいたとか。海中を長時間潜るには、呼吸を制御することはもちろん、心の制御というものも必須だったのでしょう。

インドの伝統では、修行者はアーサナを12年、その後に呼吸法を12年、さらに瞑想を12年と、長い年月(トータル36年も?!)をかけて、真我に目覚めるというゴールへと修練を積み重ねるものだと師から伺ったことがあります。しかし、師ご自身がそれらを10代の頃から徹底的に実践し、マスターされたご経験があるからこそ、アーサナにおいては、ポーズ自体は一見同じようなものが様々あるとしても、その作法は師が発見された、たいへん革新的な内容を開示してくださっています。その一つがアーサナ中の吐く息にフォーカスしていく呼吸の方法であり、それはアーサナを行ないながらもプラーナーヤーマの領域にまで及ぶ内容になっているのです。師が伝授されるアーサナは、まさに瞑想の入り口まで運ばれる力のあるものであり、ヨーガの道のりを速やかに進めていく素晴らしい実践法だと感じます。
(つづく)

アーサナ、呼吸法、瞑想と、それぞれのプログラムで実践している様子

マードゥリー 


熱心に真理を求めて識別瞑想する

5月から「瞑想専科実践編 シュリーマハーヨーギーの教えと生き様に学ぶ」が始まりました。

師にお会いできない月日が重なる中で、グルバイとともに師の教えに触れられる貴重な機会となっています。

先日のテーマは「真実の存在と識別瞑想」。
講座の中で、ヨーガダンダさんご自身の識別瞑想の体験談を話されました。
ある出来事により、苦手な人の顔が何をしていても胸に張り付いたように離れなくなり、アーサナを必死でしてもなくならず、瞑想の中でもその人の顔が浮かび上がってくる状況だったそうです。それでも瞑想の対象に集中し続けていたら、突然直観が訪れ、その苦手な人も自分も本質的には同じ存在だと分かり、瞑想の対象から光がやってきて、苦手な人の顔が消えていったということでした。その後その人に対する苦手意識はなくなり、ぶつかることもなくなったそうです。常日頃からできるだけ心を乱したくない、瞑想に没頭したいという思いが強かったからこそ、その人のことが気になるようになり、真実への思いが強くあったからこそ、その障害となるものを見つけられて、心の奥底からの戦いになっていった、とも話されていました。

私はその話を何度か聞いたことがあったのですが、お話の内容だけでなく語り口が軽妙なので、いつも楽しさを感じながら、自分もそんな風に苦手な人のことが一切気にならないようになったらいいなと憧れていました。
しかし、今回はこれまでと異なる気持ちになりました。
何度か識別に取り組みそれなりに結果を得られたことはありましたが、ヨーガダンダさんのお話を改めて聞いたことで、心の表面的な部分でしかできていなかったことに気付きました。心の奥底までしっかりと潜るには、何度でも諦めずに実践するのみです。いつか、ではなく今この瞬間に。

実践するほどに難しさを感じてしまい、時折挫けそうになることもありますが、
先輩グルバイの大きな背中を見せて頂けたことで、しっかりとやる気スイッチを押してもらえました。
もっともっと熱心に真実だけを求めていきたいです。

講座の中で紹介された、講師のヨーガダンダさんが描かれたイラスト。

心は湖面に、真実は月に例えられます。
湖面のさざなみが静まれば、月ははっきりと映し出され、同じように輝きます。
心が静まれば真実のみが輝き出します。

 

ハルシャニー


ヨーガ・アーサナの力 その1〜アーサナは瞑想のためにある

こんにちは! ヨーガ・瞑想クラスを担当しているマードゥリーです。
今回から、クラスで行なっているヨーガ・アーサナ(ポーズ)について、その実践がもたらす力がどのようなものか、これまで師から教わってきたことや自分自身が感じてきたことをもとに、4回シリーズ(予定)で書いてみたいと思います。皆さまどうぞお付き合いください〜。

ブジャンガ・アーサナ

黄昏時のヨーガ・ヴィハーラのクラス(京都・千本丸太町)

ヨーガ・瞑想クラスは、マハーヨーギー・ミッション(MYM)の各クラスの中でも最もクラス数が多く、開講歴も長いレギュラークラスです。
師が京都にアーシュラマ(道場)を開設されたのが1976年。師の下で学び、ヨーガの素晴らしさに感銘を受けた先輩たちが、一人でも多くの人に提供しようとクラスを始め、それから25年以上が経ちますが、現在に到るまで、クラスはず〜っと同じスタイル(内容・プログラム)で行なわれています。

私自身、MYMのクラスに一受講生として参加したことがヨーガの始まりでした。目まぐるしく日常が過ぎる中、立ち止まって生き方を見つめるきっかけを与えてくれたのがクラスであり、アーサナは自分と向き合うヨーガの第一歩でした。軽い気持ちで足を運んだつもりが、私たちの身体の神秘や呼吸の深まり、さらには心の紐解きなど奥深い内容があることを知り、ヨーガの世界に惹きつけられていきました。

*  *  *

さて、ここからはアーサナの役割について少し触れてみたいと思います。
全クラスでは、当初から変わることなく、師が厳選された基本アーサナ十数個と瞑想を行なっています。来られる方の体調や進み具合に応じてプログラムは組まれるので、中にはプラーナーヤーマ(呼吸法)や瞑想を中心に行なっている人、より高度なアドヴァンスなアーサナに取り組んでいる人もいます。しかし、どのようなアクロバティックなアーサナであったとしても、アーサナは瞑想のための準備段階として位置付けられています。

『アーサナは堅固で快適でなくてはならない』という格言的な言葉が、聖典『ヨーガ・スートラ』にはあります。本来「アーサナ」とは瞑想の「坐法」のことを意味し、生き物の数ほどたくさんあるともいわれている全てのアーサナ(ポーズ)は、瞑想にしっかりと座るために開発されてきたのだそうです。えっ、座る方が簡単で楽じゃないの?と私も最初に聞いた時は驚きました。しかし、実はシッダ・アーサナ(達人坐)やパドマ・アーサナ(蓮華坐)で両膝が床に付いて安定し、背骨を真っ直ぐにしてどこにも力が入っていない不動の状態で長時間保つことは、とっても難しいのです。坐法の完成は、座ると自然に呼吸が静止し、それによって心も静止することだといわれます。やっぱりそれには相応の修練が必要なんだなと思います。

アーサナは、柔軟性を競うものでも、単に肉体の健康のみを求めるものでもなく、また身体表現の美しさを見せるためのものでもありません。伝統的にも、ヨーガ=「瞑想によって本当の私に目覚める」というゴールに向かっていくための霊的な修練であり、内側から強くてしなやかな身体へと改造し、深く安定した呼吸に変化させることによって心を静寂へと導く、瞑想のための土台を築いてくれるものなのです。

一連のアーサナをやりこんでいくと、プログラム最後には身体と呼吸と心が統一され、坐法がまさに定まったという感覚、研ぎ澄まされた集中感が生まれ、自ずと瞑想へと連れていってくれるのを感じることができます。

 ハタ・ヨーガは高遠なラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって、素晴らしい階段に相当する。(『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』より)

*ハタ・ヨーガとは、アーサナや調気法などの修練を中心に行なうヨーガの道。ラージャ・ヨーガとは、瞑想によって真の自己を実現することを意味します。

また、アーサナの実践を続けていくと、毎日の食事が(欲するものがより良質で軽やかなものへ)変わっていったり、環境が調えられていったり(部屋が綺麗になったり?!)もします。不思議に思われるかもしれませんが、それらは心身が調ってきた結果、起こることでもあります。さらには真理を理解する力が養われてくるともいわれます。アーサナによって心が落ち着き、受け入れ態勢ができてくるような感じでしょうか。瞑想するには、まず真理の教えを聞いて、学び、深く考えていくことが基本にあると常々師から教わっていますが、真理の理解を育むことや日常生活を調えることも含めて、瞑想の土台となっていくのだと思います。

ある受講生の方が、クラスに通い始めて3年ほど経った頃、「アーサナをすることが今の自分にはとても大切で、教えが身体を通して入っていく感じがします」と言われたことがありました。アーサナの力は偉大だなと改めて感じました。もちろん、呼吸や心身の変化もあってのことと思いますが、身体を動かして修練を積み重ねることで、ヨーガの教えも頭だけの理解ではなく、自分のものとしてしっかりと身に付いていく、そして着実に瞑想への道筋ができていくのだと思います。
(つづく)

 

マードゥリー 


木陰の下で〜グルとサンガ〜

私は介護の仕事で車椅子の方と外出する時、休憩する小さな公園があります。暑くなり始めた先週、その公園の蔦が絡まる木陰のベンチに座ると、その場所がとても涼しく、一瞬にして癒されました。その瞬間、野口美香さんのブログで「木陰は涼しい」と書かれていたのが思い出されました。隣の車椅子の方もその涼しさに癒されたのか、笑顔で嬉しそうでした🍀


さて、そんな5月の終わり、名古屋近郊からはるばる京都のアーサナ・瞑想クラスに一人の女性の方(以下:Yさん)が見学に来られました。Yさんは私たちのブログ『ヨーガを生きる』を1年半ほどずっと読んでくださっていたようで、なんと2週間前、まだ会ったことのない私たちにブログ内でコメントを寄せてくれたのです!それがきっかけとなり、「ぜひ、お会いしてお話しましょう!!!」ということになり、コメントをくださってから1週間後、すごいスピードで交流が実現しました。
クラスの見学も含め、その前後でもたくさんのお話ができ、とっても楽しく素晴らしいひとときでした!!!

5/28(土)京都アスニーのアーサナ・瞑想クラス

Yさんはインドにグルがおられ、その教えを日本で毎日欠かすことなく一人で実践されています。
1年半ほど前にYさんは、私たちの師シュリー・マハーヨーギーのYouTubeを見つけ、そこで紹介されている教え「ヨーガの瞑想は、一生涯のその結果に留まらず、何百、何千生涯を通過するぐらいの威力をもってなされなければならない」に触れてとても感じるところがあり、それがきっかけで私たちのブログを読み始めたそうです。【師のYouTubeはこちら💁‍♂️『サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ:現代に生きる真正のヨーギー』】彼女はグルも仲間もいない日本でたった一人で実践し続けることが本当に苦しかったそうですが、ブログを通して、自分と同じようにグルへの思いをもったマハーヨーギー・ミッションの修行者の存在やその情熱に励まされながら実践を続けていたと話してくださいました。

今回の交流中、1秒たりとも真理・神以外の話をされなかったYさん。そんな大変熱心で信仰心の厚い彼女と交流して、私たちもとてもインスパイアされました!!!そして、グル(師)とサンガ(仲間)が修行者にとってどれだけ大きくかけがけのない存在なのか、改めてその有り難さを教えていただいたように思いました。本当にグルとサンガは、この世界における木陰のような避難所です!!!


私自身、木陰の一枚の葉っぱになれるようにと願い、これからその木陰の下に多くの人が集い、休足し、語らい、そして遊び戯れることを心から願った今回のYさんとの出会いでした。
Yさん、この度はご縁をいただき、たくさんのお話ができたこと、本当にありがとうございました🙏🙏🙏ぜひぜひ、また京都にいらしてください!!!一同、心よりお待ちしております😇

ゴーパーラ


これぞまさにラーサ・リーラ―だ!

バクティ・サンガムのWebクラスを2年間受講させていただき、その最後のクラスでキールタンを歌っている時でした。画面の向こうに広がる、喜び溢れる笑顔の数々、距離を超えて共に高らかに歌う姿。
みんなの笑顔の中に、クリシュナが見える。
クリシュナが姿・形を変え、楽しんでいる。
Web上とはいえ、このようにみんなで歌っている状況に神の恩寵を感じ、涙が止まらなくなりました。

2年前、コロナ禍において、バクティ・サンガムのWebクラスが開催されることになりました。これまでも大阪や京都でバクティ・サンガムの実クラスが開催されていましたが、静岡に住む私はなかなか参加することができず、バクティ・サンガムの話題があがる度、私もみんなと一緒に歌いたいなぁといつも憧れの気持ちをもって聞いていました。そんな憧れのクラスがWebで開かれるということで、喜び勇んで参加を決めました。

この2年間、キールタンの歌詞だけでなく、関連するお話を毎回趣向を凝らして(ミニチュアールの紹介や手書きの紙芝居もあり!?)教えていただきました。歌に対する理解が深まるだけでなく、情景がリアルに感じられ、これまでにも増して神に対する思いを乗せて歌うことができるようになりました。またクラスの後には、紹介していただいた神や聖者のことをもっと知りたいと思い、関連する本を読みました。そうすることによって私の中でぼんやりと理解していた神や聖者が確かな存在として感じられるようになりました。

特に印象的だったのは、クリシュナ神とゴーピー(牧女)が織りなす「ラーサ・リーラー」のお話です。 ラーサ・リーラーとは、クリシュナとクリシュナを愛してやまないゴーピーたちとの愛の遊戯の物語。そのクライマックスとして、クリシュナがご自分の姿を複数に顕現させ、ゴーピーたちと輪になって踊るシーンが紹介されました。

そのお話を聞いた瞬間、ありありとその歓喜に包まれた美しい情景が私の脳裏に浮かび、「私はこれを知っている」という直観のようなものが胸に押し寄せました。それは、この光景を実際に見たことがあり、経験したことがある!というような、なんとも不思議な感覚でしたが、知っているという感覚がずっと胸の中に残りました。

その後、『ラーマクリシュナの福音』の中に、次のような詩を見つけました。

「深く潜れ、おお心よ、
神の美の大海に、

 もしお前が底の底までおりるなら、
 そこに愛の宝石を見いだすだろう。
 行って探せ、おお心よ、
ハートの中のヴリンダーヴァンを探せ、

 そこで彼の愛する信者たちと、
 シュリー・クリシュナが
永遠に遊んでいらっしゃる」

この詩を読んだ瞬間に、あの「知っている」という直観の理由が分かりました。私の胸の中にヴリンダーヴァンがあり、クリシュナとゴーピーたちが踊っているのだ。私は甘美な喜びに包まれました。ラーサ・リーラーのお話を聞いてから、その絵を眺めては、クリシュナと踊ることをずっと夢見てきました。そんな折、冒頭のように感じたのです。

ラーサ・リーラーとは、本来はあらゆるところに溢れている歓びなのかもしれません。心を純粋にし、神だけを想うことができれば、あの喜びは今ここにあるのだと思います。クリシュナに手を取られ、踊ることができるのなら、他に何を求めるというのでしょうか。

永遠の歓喜の中で、神と戯れたい。
そしていつの日か、クリシュナと一つになりたい。

これが私の願いです。

森ひとみ


ヨーガ・瞑想 オンライン体験コース もうすぐスタート!

生命力溢れる木々の緑が眩しい季節になってきましたね。
さて、今日はゴールデンウィーク明け5月12日(木)から始まる「ヨーガ・瞑想 オンライン体験コース」についてPRさせてください。

初心者の方や久しぶりという方向けのこのコース。全4回でヨーガ・アーサナ(ポーズ)と瞑想の基本を学んでいきます。10程度のアーサナを行ないながら、深く安定した腹式呼吸を習得していくための呼吸法、チャクラ(気の集まるセンター)への集中やプラーナ(気)の充実から得られる効果、瞑想に大切な坐法や集中力の養い方などをお伝えする予定です。

コロナ禍が続く中、クラスへ足を運ぶのを躊躇されている方や、遠方で受講が難しいという方もおられるのではと思い、昨年からオンラインでのコースを企画しました。
前回は、10年ほど前にマハーヨーギー・ミッションのクラスに通っていた方の参加がありました。遠くに引っ越して続けられなくなったけれど、クラスでの体感が印象に残っていて、いつかまたやりたいと思っておられたとのこと。再会も懐かしく、とても嬉しかったです〜。
体験コースを受けた後に、レギュラーのオンラインクラスで継続している方もおられます。アーサナの基礎が身についてきて、よい変化を感じておられるようです。呼吸の深まりは画面越しからでも伝わってきます。

アーサナを続けることによって身体が軽やかに快適になっていくとともに、呼吸の変化に伴って現れる精神面での変化は、誰もにとって大きな贈りものとなると思います。ストレスやダメージを受けにくくなり、さまざまな出来事に反応して湧いてくる怒りやイラ立ち、不安や恐怖、焦りや緊張……といった感情の起伏をおさめていくことができていきます。
心身に調和をもたらすアーサナは、本来の私へと立ち返ろうとするヨーガの道の第一歩。少し踏み出せば、そこには大いなる恩恵と、今をより良く生きるための智慧と力があることが感じられるでしょう。一人でも多くの方にご体験いただけたら!と願っています。

オンラインってけっこう勇気がいるかも?!と思われるかもしれませんが、少人数で行ないますし、見本も見ていただきながら、ゆっくりとムリなく進めていきますので、どうぞご安心くださいね。

図解ヨーガ・アーサナ

「図解ヨーガ・アーサナ基本編」(アーサナのポイント、視線、力点、集中するチャクラが一目でわかる)をもとに、柔軟性に関わらず誰もができる内容を実践していきます。

日時:5/12, 19, 26, 6/2 木曜日 20:00〜21:00 
*最終回6/2は21:30まで
受講料:4回 6,000円(税込)
<各回のテーマ>
1回目:体と呼吸と心を調える 
2回目:自己治癒力を高める 
3回目:集中力を養う 
4回目:瞑想で静けさを味わう

詳しくはこちら

次回は秋に開講予定。今後は瞑想中心の体験コースも企画しています。

マードゥリー 


一切万物として顕現しているのだ!!

歓喜の祝祭から数日後の余韻の中、バクティ・サンガムの今期のクラスが先日、最終回を迎えました。祝祭会場でもあったプレーマ・アーシュラマから、講師のお二人がいつものように柔和な笑顔で爽やかにクラスを進められます。後ろに見える祭壇には祝祭で献上されたばかりのアーラティーの灯明のランプとお花とマーラーが掲げられ、師がお座りになっていたお姿を彷彿とさせます・・・いや、その日はそこに、師がおられるように感じたバクティ・サンガムだったのです。

少し時間が遡りますが、私は2004年の師の御聖誕祭の練習の時、キールタンに初めて出会い、インドの讃美歌みたいなものかな~と、うっとりしました。それからは毎年ヨーガ・ヴィハーラに皆で集まってキールタンの練習をする機会も多く、それは楽しい時間でした。みんな真剣そのもので、音程やリズムはもちろん、とても細かいところまで・・・ある意味、子供の頃入団していた少年合唱団よりもこれはスパルタな特訓・・・と実は私は感じていました。そのキールタンの練習の時「目を開けたほうがいい」とよく言われました。キールタンは神へ向けての愛の歌で感情が内に向くせいか、つい目を閉じて歌いたくなります。ですが、当時は御聖誕祭で師へお捧げすることが目的であったり、また外向けのイベントでは観客がいらっしゃることもあったので、自分の内にこもったり感情に浸るのではなく、皆との調和や息を合わせることも大切で、そのためには練習の時から常に目を開け、感じて歌うことに慣れた方がいい、というアドバイスを受けた記憶があります。
本番で最高のものを献上するためには、練習も一回一回ベストを尽くし、まず基本的なことや技術的な面を磨くのは当然で、時には専門的な先生?のような方から発声指導を皆で受けたり・・・とにかく地道な修練に、みんなの凄い熱情を感じていました。毎日の自主練も欠かせませんでした。キールタン練習のことは、今の私の物事への取り組み方の基盤にもなっています。

それで、当時は目を開けるようにしましたが、練習の時は視線のやり場に困る思いもありました。目を閉じた方が、師、神だけと繋がって歌える気持ちがあったからでした。つまり、目を開けて、目で世界を見ていると神を感じられない、と当時の私は思っていたのです。
ちなみに、今のバクティ・サンガムのクラスでは、目を開けても閉じても特に注意を受けることはなく、それぞれの思いのままにさせていただけます(笑)しかもオンラインクラスでは、自分の声は他の人には聞えないので(ミュート設定)音を外したり間違えても恥ずかしくないし人に迷惑も掛かりません(笑)

私は、最近は目を閉じたり開けたり自然に任せていましたが、最終回では、みんなの顔も見たいから今日は目を閉じないゾと決意しました。ただ最終回は、初めての曲で歌詞を見ないとならないから、みんなの顔を見る余裕もないかも?と少し心配しつつ。そして、歌い出しました。すると実は以前に歌った曲で、当時のみんなの歌声がありありと蘇り、その歌声と今がシンクロし、歌が歌を導きました。カーリーやマーという母なる神の御名を讃える詩です。以前も今も、ずーっとみんなでこの歌を途切れることなく歌い続けてきたような至福感に包まれ、気付くとまた目を閉じて歌っていました。その時、ふいに『ラーマクリシュナの福音』で読んだラーマクリシュナからのお言葉が響きました。
目をとじて思うときだけ神がいらっしゃるのだろうか。目をあけて見まわしたときにも、彼はいらっしゃるのではないだろうか
私は目を開けました。パッと咲いたお花のような美しい表情をした、みんなのキラキラした姿。小さな子供みたいに元気いっぱい、ありったけの思いで歓び歌うみんなの生き生きした姿がそこにありました。ここ数ヶ月、思い続けて、封じ込めてきたマーへの自分なりの思いがそこに燦燦と溢れ出し、みんなの顔、みんながそれに見えて、目を開けても閉じても、見えても見えなくても、歌が聞こえても聞こえなくても、やっぱりそこに、ここに・・・と思いました。目を開けて、みんなを見ていると、師のお言葉が波のように、何度も何度も押し寄せました「一なるものが、一切万物として顕現しているのだ」。

至高の真実は名も無く形も無く、ただ存在である。
それだけが真実在であり、真我であり、神と呼ぶものである。
その一なるものが一切万物として顕現しているのだ。
不二の寂静の中、歓喜に遊び戯れなさい
――シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサのお言葉

チューリップ、菜の花、桜

春爛漫

 

 野口美香 


真理を愛す

バクティ・ヨーガは「感情も五感も全てを愛する神に向け、愛そのものである神との合一を果たす」と表現されていて、ヨーガを学び始めた頃、私はこの強烈なイメージに漠然とした憧れを持っていました。何となく魅力的だなとしか思えなかったのは、瞑想の対象は神というよりも真我や真理の方が集中しやすく、神に瞑想するということがどういうことか私にはピンとこなかったからです。
もう何年も前のことになりますが、それまで誰かを好きになるとか愛するという感情に縁なく(興味なく?)生きてきて、グルバイ(仲間)が嬉しそうに「ヨギさん(私たちの師)の夢を見た」と話しているのを羨ましく思い、「あぁ、私にはバクティがないのだろうか」と不安が募り、勢い余ってヨギさんに尋ねたことがありました。この時、ヨギさんは何も仰らずに、静かに微笑んでいらっしゃるだけでした。何か答えてくださるものと期待していた私は拍子抜けして、それ以上尋ねることもできないまま、もやもやした思いが心の隅に残ったのです。
その後の数年間はキールタンを歌う機会やバクティ・サンガムに参加することで、少しずつ神に触れ学ぶ時間も持てましたが、結局それ以外の時間は神を忘れることが多くて、その存在を身近に感じるという実感はあまり持てなかったように思います。

けれど少し前からバクティ・ヨーガへの憧れが次第に強くなってきたのです。ちょうど瞑想専科のバクティ・ヨーガ編が始まり、この講座で多くの仲間と学べたことは大きな支えとなりました。日常生活で神を忘れることはしょっちゅうでしたが、そのたびに思い出すの繰り返しです。課題の聖典とともに、大好きな本である『悟り』の中のバクティ・ヨーガに関する記述も何度も読み返したりしていました。そうしていくうちに自然に神を思う時間も増えていき、いつの間にか、自分にはバクティがないのでは、という思いは消えていました。そして『悟り』の中のある箇所が目に飛び込んできました。

「クリシュナという神の化身を普遍の神に置き換えてもよろしい。アートマンでもいい。またブラフマン、真理に置き換えることも可能です」

そうか、神を愛するとは真理を愛することでもあるのだ、それならすごく分かる。今まで何回も読んでいたはずだったのに、初めて目にしたような言葉でした。
かつて質問をした時に、ヨギさんが答えてくださらなかった理由が今なら分かります。言葉で説明されたなら、きっとそれに執らわれてしまっていたでしょう。
それよりも、「バクティは既に、その胸の奥にあるよ」と伝えてくださっていると感じます。

祭壇のヨギさん。 私もいつも笑顔でいたいと思います。

マイトリー